この作品はいかがでしたか?
1,027
この作品はいかがでしたか?
1,027
ガチャリと錠の外れる澄んだ金属音が鼓膜のなかで異様に大きく響く。扉が開くにつれて露になっていくいざなの表情には、動揺や戸惑いに絶望などの暗い感情が褐色の肌の上に色濃く塗られており、胸に火の塊のようなものが込み上げる。その瞬間、抑えていた感情が堰を切って零れ出した。
『い゙ざな゙ごめ゙ん゙な゙ざい゙…』
“う”にも“あ”にも聞こえる濁点交じりの泣き声が自身の喉を通り抜けた瞬間、ビリビリと鼻の奥が痺れるほどの熱い涙が赤く腫れた涙袋から押し出され、ダラダラと溢れてくる。
だらりと力なく床にへたり込んでいるいざなの首に自身の腕を回しギュッと抱き着く。状況が上手く飲みこめず、慌てたようにあたしの背を撫でる彼に、掠れた嗚咽を喉元で潰しながら必死に謝罪の言葉を紡ぐ。
『ぎら゙い゙じ゙ゃ゙な゙い゙ぃ゙い゙い゙ぃ゙ぃ゙…゙!゙!゙』
聞こえにくい濁点まみれの声でいざなに縋っているうちにあたしは強力な嗚咽が喉につきあがって来る痛みを喉奥で覚えた。涙でぐしゃぐしゃになった視界では、周りの景色に乳白色の薄霧が漂っているかのように酷くぼんやりと見える。
『…ひっぐ、…ぅぇ…』
ごめんなさい、きらいじゃない。と何度も繰り返した言葉をまた舌で打つ。
しばらく何とも言えない沈黙が静寂の籠るホテルの廊下を埋め、段々と浅く荒かった息が心臓の鼓動のように規則正しい吐息に戻る。
「……オレのこと、好き?」
ふー、ふー、と息を吐くときの微かな音だけが鼓膜を刺激し続ける中、それまで黙っていたいざながいつもよりずっと細い声であたしにそう問いかける。
『だいすきだよ』
『…きらいっていってごめんなさい』
自分が言ったことが耳に蘇った瞬間、心が憂鬱に乾く。
顔を陰鬱に沈み込ませながら自己嫌悪に浸かっているとそれまで背に置かれていたいざなの腕が少し横に移動し、あたしの体をギュッと骨が鈍い音をたてるほどの狂気的な力で抱きしめた。
「オレもごめん。…怖がらせたし、傷つけた。」
さらりと瞼の少し上にいざなの髪が垂れかかり、耳のすぐ横で木材がぶつかり合うような澄んだピアスの音が鳴り響く。それと同時に、体全体で感じる自分じゃないいざなの体温に乾いていた心がみるみるうちに回復していった。
先ほどの憂鬱さがすべて最初から無かったかのように綺麗に消え、その代わりに激しい喜びが心に湧 き起こる。胸に淡い幸福感が通う。
「…大好き」
それから離れていた数秒間の飢えを満たすようにずっと傍に居た。
「好き?」
『すき!』
先ほどまでずっと曇っていた自身の表情には歓喜の情が常に浮かび上がっており、
何度も繰り返すその問いかけに静かな喜びが水のように心の中に溢れる。血色のいい両頬に浮かんでいる豊かな微笑が頬から離れてくれない。
「オレも好き」
そう隠し出せない喜びを瞼に浮かべるいざなに抱き締められ、純白の光彩を浴びているみたいに真っ白に染まったベッドの上に引きずり込まれた。ふわふわと柔らかい感触が体全体を包み込み、清潔そうな穏やかな匂いにほだされる。
「…世界で一番好き」
その声と同時に、腰に回されていた手に体を引き寄せられて、風の透すき間すらもないほどお互いの体が密着する。
『あたしも』
ドクドクといざなの脈を刻む音が鼓膜に直接響くようにしっかりと聞こえ、弱々しい笑いを頬に溜めながら不思議な安堵に鈴を転がしたような笑声を洩らす。
冬の冷たさを一瞬でも感じたくなくていざなの腕の中に顔を埋めると、ほんわかとしたぬくもりが衣服越しに伝わってくる。
『…いざな、ねむい』
その暖かさに段々と薄明のような眠気を誘われる。視界が疲れたようにウツラウツラし、強烈なだるい睡魔がまぶたの真ん中に圧し掛かってきた。
朦朧としてくる頭をいざなの寝ろという声とともに撫でられ、完全に目が閉じる。
「…おやすみ」
意識を手放し少し前に感じた、頬の柔らかな感触には気付かないふりをした。
『…ん』
ぺたぺたと浴槽から出てきたばかりのような湿った足音と不意に近づいてくる微かな線香の香りが眠っていた嗅覚と聴覚を刺激し、あたしは目覚める。
随分と眠っていたのだろうか。視界の端に映る時計の長い針はいつも起きる時間の数字をとっくに跨いでいた。
そのままぼんやりとした視線で何となく白い天井を眺めていると、布団とは違う重みが腹部当たりを押しつぶしていることに気づき、視線を下に移す。
『……いざな?』
寝起きで目眩のようにふらつく視界にはあの赤い服を身に纏っているいざなが力なくあたしに倒れているのが見えた。
先ほど感じた線香の匂いがまた鼻の奥に入り込んで来る。
『…どうしたの?』
いざな、と名前を呼んでもなんの反応も示さない彼に心配が積り、サラサラと油気のない綺麗な髪を恐る恐る撫でる。その瞬間、それまで微動すらせずに黙り込んでいたいざなの肩がピクリと小さく跳ね上がった。
ゆっくりと起き上がって来る暗く淀んだ紫色の瞳と視線がかち合う。
「…○○?」
確認するように弱弱しく呟かれたその声に困ったままコクリと一度頷く。
その瞬間、いつの間にか背中に回されていた腕に体を引っ張られ、寝転んでいた自身の上半身が一瞬で起き上がる。その突然の動きに、ぐらりと脳みそが揺れたような酔う感覚が頭部に走った。
『…いざなどうしたの、どっかいたいの?』
またもや黙り込みあたしを抱きしめたまま微動だにしないいざなにそう問いかけるが返事は返ってこない。心なしか先ほどよりもずっと沈んでいるような雰囲気を感じる。
そんな苦しそうに眉間の皺を深めるいざなに、あたしは思いついたように顔を顔を輝かせ、苦しむいざなの背に自身の手を重ねる。
『いたいのいたいのとんでけー!』
そして、何かを追い払うように背に添えていた手を宙に向けた。
いたいのいたいのとんでいけ、いたいのいたいのとんでいけ、と何度かその動作を繰り返しているうちにあたしのされるがままだったいざなが、ふはっと軽い笑い声を立てた。その途端、張り詰めていた空気がふわりと和らぐ。
『いざなげんきなった?』
弾けるように澄んだ笑みを零すいざなに活気のある声でそう尋ねながら、彼の瞳を覗き込む。
「…ン、ありがと。」
そう柔らかく微笑みあたしの頭を撫でる彼の瞳の中には、先ほどまでずっと居座っていた、不安に似た真っ黒な感情は綺麗さっぱり無くなっており、いつもの光が取り戻されていた。ホッと強張っていた緊張が解ける。
『えへへ、どういたしまして!』
肩の力が抜けたように、すっきりとした表情で口角を上げるいざなに明るい声を洩らしながらあたしよりずっと大きな彼の体を抱きしめる。
『いざな大好き!』
ずっとこのままの日々が続けばいいのに、
関東事変まであと数時間
続きます→♡1000
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!