テラーノベル
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目をこすらないように気を付けながら顔を洗い、手早く髪と身体を洗ってから、俺はようやく浴室から出た。照はリビングのソファの上に寝転びスマホを操作していた顔を上げた。そのまま、俺を見て何か気が付いたとでも言いたげに、ソファを降りてこちらにやってくる。今までしていたことがしていたことだけに、俺は少し気まずくて目を逸らした。
「髪ちゃんと拭けよ」
と、照の手が伸びてくる。
「…ん、大丈夫だよ」
首にかけてあったタオルを奪って、照は俺の髪を拭いてくれた。
こんなふうに髪を拭いてくれるのはどれくらい振りだろう? またそんなことを考えはじめた自分がいやになる。とりとめのないことを考えても仕方がないのに。
俺はいったん頭を空っぽにして、ただ照の手に身を任せることにした。
力を入れすぎないように、優しく動かされる照の大きな手のひら。俺の頭は彼の片手で収まってしまいそうだ。この手が俺はとても好きだった。思いながら、ごしごしとタオル越しに頭に触れられる動作がとても心地よくて、うっかりするとこのまま眠ってしまいそうだった。
「おい阿部、立ったまま寝る気かよ?」
と、照が笑いながら言った。
「ん、…本当に寝るかも」
「寝るならちゃんとベッドで寝ろよ。じゃあ、俺も風呂行ってくるから」
「うん」
俺の髪を拭いていたタオルを受け取り、照の背中がバスルームの扉の向こうへと消えてくまで見送る。髪はおおよそ乾いていたので、このまま眠ってしまっても問題はなさそうだった。そのまま適当にタオルを放り投げて、俺はベッドへと向かった。あれこれ考えすぎてしまったから、なんだかものすごく疲れた気がする。シーツの中に潜り込むと、数秒と待たずに寝られそうだった。実際、俺はそのまま眠ってしまったらしい。
「………、ん」
きし、と小さくベッドが軋む感覚に俺はやおら覚醒した。何度か瞬きをした後にゆっくり目を開けると、あたりは暗くなっていて、部屋のところどころにある間接照明がぼんやりオレンジ色に光っているだけだった。今、一体何時だろう?
「ごめん、起こしたか?」
「…だいじょうぶ」
微睡む視界に照が映り込んだ。ベッドの端に手をつき、申し訳無さそうにこちらを覗き込む様子がかろうじて見て取れる。
「いま、なんじ…?」
「12時を回ったくらいかな」
「……ん」
シャワーを出てから数時間ほど寝ていたらしいことがわかった。思いの外、俺は疲れていたらしい。それに明日は朝から世界遺産を見に行く予定だったから、もうこのまま眠ってしまったほうがいいだろう。俺は緩慢な動きで少し端へとずれると、照が入るスペースを作った。本当はそんなことしなくても、大きなベッドには十分なスペースがあったけれど。
照に背を向けて再び眠る体勢に入る。照は俺が動くのをやめると、ゆっくり隣のスペースに大きな身体を潜り込ませた。
「阿部…」
と、照が少し緊張したように俺の名前を呼んだ。そんなふうに呼ばれると、俺まで緊張してしまう。照は続けて言った。
「抱き締めて眠ってもいい?」
「…はぁ?」
まさか、照がそんなことを言うとは思わず、俺はぎょっとした声を上げてしまった。
「何もしないから。抱き締めるだけ」
「……うん」
抱き締めるだけなんて言わず、なんだってしてくれていいんだけれど。そんなことを思っていたら、照は小さな声で言った。
「最後、だから」
「……うん」
俺たちの間でこれまで幾度となく繰り返された単語。最後、というその二文字はまるで呪文のようだった。一つ一つ、扉を閉めていくみたいに、照と繋がっていた糸が途切れていく。もうすぐ終わってしまうんだな、と他人事のように思う。この数週間で何度もその言葉を唱えていたおかげか、心は思っていたよりも穏やかだった。
「このままでいいの? 向かい合う?」
「あっ、このままで、いいよ」
後ろから照の腕が回ってくる。薄暗い部屋の中で、衣擦れの音が響く。俺たち以外誰もいないのに、なぜか息を潜めてしまう。逞しく筋肉のついた両腕にすっぽりと抱きすくめられると、照の体温が心地よく感じられた。照は優しい声で言った。
「おやすみ」
「…おやすみ、照」
それから呆気ないほどすぐに、俺は深い眠りについてしまった。
翌朝は少しばかり雨が降っていた。すぐに止んだけれど、変わりに辺りに湿っぽい空気を残していった。昨日とはうって変わって、蒸し暑さを感じる。
朝早くに、俺は露天風呂に入った。せっかく庭付き露天風呂の部屋を取ったのに入らなかったらもったいない。小雨は降っていたけど、さほど気にならない程度だったし、屋根がついていたので雨に濡れることはなかった。
少し遅れて起きてきた照は、そんな俺の姿を部屋の中から眺めるでもなく眺めていた、ような気がした。わけもなくどきどきしたけれど、気が付いたらもう窓辺に照の姿はなくなっていた。
「朝飯、行こう」
「うん」
夕食と同じで、朝から並ぶすごいごちそうにまた俺たちは限界まで満腹になった。
「昨日ほとんど何もしてないや」
「それだけ疲れてたってことだろ」
部屋に戻って荷物を片付ける。昨日一日が、本当にあっという間だった。こうして、今日もあっという間に過ぎてしまうのだと思うと、少し憂鬱だった。照はどう思っているのか、淡々と荷物をまとめる横顔からは何を考えているのかわからない。
照は昨日ベッドで俺を抱き締めながら、何を思って眠ったのだろう。あれは、照にとっての一種の儀式だったのだろうか。別れという、けじめ、をつけるための。
もしも、照に抱き締められるのがあれで最後だったなら、もっとちゃんと起きていれば良かったと、俺はほんの少しだけ後悔した。
泊まっていた宿から、 予定していた世界遺産のスポットまでは車でしばらく行かないといけなかった。
照のスポーツタイプのダッフルバッグと俺のボストンバッグとを後部座席に乗せ、それぞれ運転席と助手席に乗り込む。
なんとなく車内に沈黙が訪れて、俺はその気まずさを、ペットボトルの水を飲んで誤魔化した。
「阿部、運転する?」
「えっ」
突然の言葉に、思わず水を落っことしそうになりながら隣を窺うと、照がおどけた表情をしている。
「ほら、照は、運転席が宇宙一似合う男だからさぁ」
「何だそれ、雑だな」
俺がふざけて言うと、照は笑いながら文句を言った。それから、じゃあシートベルトちゃんとして、と言われて、車はゆっくりと発進した。
やっぱり、俺ばかりが感傷的になっているのかもしれなかった。照が道中あまりにも普段通りの様子だったので、俺も気を取り直してこの旅行に集中することにする。せっかくなら、今を楽しんだ方が良い。
ほどなく到着した明治日本の産業革命遺産として登録されたその世界遺産は、こじんまりとしながらも、しっかりと整備されて関連資料にも富んでいた。俺たちはガイドさんの説明を全部聞き、辺りをくまなく散策した。併設された展望デッキからは富士山を眺めることも出来たけれど、今日の天気ではあまりよく見えないと思って行くのはやめた。
代わりに足を伸ばした重要文化財の邸宅で、パン祖のパンを食べた。照はパンが好きだから、日本で作られた初めてのパンに興味津々だったけれど、思っていた味ではなかったらしく、なんとも言えない顔をしていたのが可愛かった。
俺たちはまたふざけ合いながら道中を過ごした。
ランチ時間ギリギリに近くのご飯屋さんに入り、少し遅めの昼食をとった。俺は唐揚げ定食で、照はラーメンとライスと餃子だ。俺の唐揚げ一切れと、照のラーメン一口、餃子一切れを交換して食べた。
「そろそろ行くか」
「…うん」
食べ終わる頃、俺はいよいよ最後の扉を閉じる時がくるのだと、また少し感傷的になった。
コインパーキングに停めた車に乗り込みながら、俺たちがこの旅行を計画することに決めた、二人別々の道を行こうと決めた日から、とりとめもなく考えていた自分自身の気持ちを、俺ははっきりと自覚していた。
とどのつまり、俺はまだ照と完全には別れる覚悟ができていないのだ。
「疲れたでしょ、寝ていいよ」
左手にずっと富士山を眺めることのできるハイウェイに乗る頃、珍しく照がそんなことを言った。普段だったら、絶体に寝るなよと言うのに。
「んー、大丈夫」
もちろん、俺は寝るつもりなんてなかった。だって、このまま眠ってしまったら、この旅が終わってしまうから。家に到着する時には俺たちは他人になってしまうのだ。
眠って終わり、だなんてそんなのは絶対に嫌だった。
冬の四ツ谷駅で、寒い中照と話をしたことが、不意に昨日のことのように思い出された。その時は、照と付き合うだなんて思ってもいなかったけれど。
挙げたらきりがないくらいの、俺たち二人の、大切な思い出たち。
付き合っていても、付き合っていなくても、俺はほとんどの時代を照と一緒に過ごしたのだ。例え今日これで別れるとしたって、それが全部無かったことになるわけじゃないはずなのに、なぜだか全部魔法みたいに跡形もなく消えてしまうんじゃないかと、怖くなった。
明日になったらまるで初めて会った人みたいな顔で、挨拶することになるんじゃないかって。
照の特別な存在でいられることが、どれだけ俺にとって大切なことなのか、俺は初めて実感していた。俺には照が、やっぱり必要だった。
「…阿部!」
肩を揺すられてハッとする。
「えっ…」
「着いたよ。起きて」
窓の外は薄暗くなりはじめていて、辺りを見回して少ししてから、いつも待ち合わせしていたマンション近くの公園の脇に停車しているのだと気付いた。
「うそ…」
全身から、血の気が引いていくようだった。
まさか、眠っていたなんて。
「寝ぼけてんの?」
照が、困ったように眉を下げて笑った。
どうしてこんな時に照は笑っていられるんだろう。
俺はとにかくただひたすら悲しくて、悔しくて、苦しくて、鼻の奥が痛むと思ったら、その瞬間もう目頭が熱くなっていた。
「っ、どうした?」
照が驚いて目を丸くしている。
自分で言うのもなんだけど、俺は滅多に泣いたりしない。それはもうほとんど癖で、先に頭で色んなことを考えてしまうから、感情のままに泣くことができなかった。
だけど、今はこれっぽっちも頭が回らなかったのだ。
「もっと、照と、一緒にいたかったよぉ…」
もう、止められなかった。俺は臆面もなくただ泣いた。
照は自分のシートベルトを外し、同じように俺のベルトも外すと、黙って俺を抱き締めてくれた。昨日の夜が最後のハグじゃなくて良かった。現金にもそんなことを思いながらその胸にすがる。
優しい腕に抱きしめられながら、俺は子どもみたいに声をあげて泣いた。照の優しい手のひらが背中を撫でてくれた。
「…これからも、ずっと一緒にいたいよ」
照が確かにそう言ってくれる。また、涙が溢れてきた。
「うん。お願い、別れないで。…俺のこと、好きじゃなくてもいいから」
「なんでそんなこと言うの? 好きだから、別れたくないんだろ?」
俺が後ろ向きなことを言うと、真剣な瞳で照が言い直した。両手で俺の頬を挟み、親指で涙を拭いながら顔を覗き込む照。まるで怒っているみたいな、強い眼差しに射貫かれる。
箍が外れたみたいに、涙はどんどん流れて止まらなかった。なかなか泣き止まない俺を乗せたまま、照はまた車を走らせた。
照の部屋に連れられて、半ば強制的にお風呂に入れられる。お風呂を出たら、散々泣いて腫れた目を冷やされながら、髪を拭かれた。
されるがままに全てを終え、気付けば俺はベッドの上で照のことを見上げていた。
「ねえ、昨日、何で自分でしてたの?」
「えっ? 何の話?」
突然の照の問いかけにきょとんとする。昨日、俺が何を、したっていうんだろう。
「した、だろ?」
照は、さっき俺に着せてくれたTシャツの裾を捲り、へその下あたりを指して言った。
腹筋と一緒に、胸の奥がどきりと震える。
照が言うのは、間違いなく、バスルームでの話だった。
「っぁ…し、してないよ?」
「うそつくなよ」
精一杯平静を装ってとぼけたけれど、秒で否定される。
「なんで…?」
きっと今、俺の瞳孔は揺れていると思う。薄暗い室内で、小さなオレンジ色の光を受けて、浮かび上がる照の鋭い眼差し。獣みたいに俺だけを見つめている。
「お前が、した後の顔はわかるよ?」
耳元に囁かれると、肩がぴくりと震えた。
「あ、うそだっ…」
「どうして? どんな顔してるか、自分で見たことあんの?」
「ん…っ」
耳朶に唇をくっつけて、耳の中に直接響いてくる照の声。見た目に反して少しキーの高いその声が、可愛くて大好きだった。
照はそれから、首筋、額、頬、唇、順番にキスをくれた。俺の手首を掴んでいた手を離して、鎖骨、胸、お腹、順番に唇が触れていない場所を辿っていく。Tシャツを脱がされて、スウェットのパンツも下ろされる。同じように照も自分の着ていたものを脱いで、俺たちは裸で抱き合った。
俺も、照の髪、耳朶、胸筋、上腕二頭筋、順番に指先で辿った。
色々なところを舐めたり擦ったり重ねたりしながら抱き締め合う。
ぎゅっと俺を抱きすくめたまま、照が泣きそうな湿った声で言った。
「もう、阿部には、触れないと思ってた」
必死な照の声と、汗ばんできた肌の感触が心地良い。
「…俺も、もう二度と触ってもらえないと思った、から」
嬉しくて嬉しくて、感激に胸が震えた。
「なんでこんなことやってんだろうな、俺たち」
互いに最後だと唱えながら計画を立てて、最後だと唱えながら旅をした。
シュールで可笑しくて、でも、今となっては全部が愛おしい。
繋がり合って揺れながら、深いキスを交わす。
「きっと、これが俺たちに、必要なことだったから…」
くっついて、離れて、また戻って。
こうやって愛し合っていくのが俺たちのペースなのだとしたら、 またいつか、俺は泣くのかもしれなかった。この逞しくて優しい、両腕にすがって。
コメント
7件
言葉の足らない 不器用な2人 考えすぎてしまう人と相手に遠慮してしまう人の美しい2日間。ありがとうございましたぁ。
💛💚復縁してくれてよかった😭😭 お互い優しいからこそな気がしてすごく好きです🥹😍✨
別れさせ芸w 昔から距離が近いからこそ、くっついたり離れたりがなんかしっくりきてしまう2人だなぁと思います。 阿部ちゃんの悲しい心情がメインの中でも、しっかり照も切なかったんだなぁってわかってキュンでした🥺