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#STARGLOW
Emma&Gene
735
7
ちゃちゃ@あまそあ不足
648
ルイの家に着いて、玄関のドアが閉まった瞬間だった。
外の夜気が遮られて、室内の静かな空気に包まれる。
見慣れたはずの玄関。
いつもと変わらない靴箱、壁、間接照明のやわらかい灯り。
何度も来たことがある。
メンバーみんなで打ち上げしたこともある。
だらだらゲームして、気づいたら朝になってたこともある。
ソファで適当に寝転んで、くだらない動画見て笑ってた日もある。
だから、本当ならこんなに緊張する場所じゃない。
なのに今日は。
「……入って」
先に靴を脱いだルイが振り返る。
それだけでタイキの肩が少し揺れた。
「……分かってるし」
平静を装って返して、靴を脱ぐ。
その動作ひとつにも妙に意識がいく。
ルイと二人きり。
ルイの家。
自分から来ると言った。
その現実が、玄関を上がった途端に急に重みを持ち始める。
「適当に座ってていいよ」
ルイが言う。
「すぐ作るから」
「……何作んの」
「タイキ腹減ってるって言ったし、重すぎないやつ」
そう言ってルイは少しだけ笑う。
「食えるもん、ちゃんと出す」
その言い方がもうやさしくて、タイキは小さく眉を寄せた。
「……その言い方、なんかむずい」
「何が」
「……知らねぇ」
自分でも分からない。
ただ、腹減ってるから来た、みたいな逃げ道を、ルイはちゃんと残してくれてるくせに。
その奥で“来てくれた”こと自体をすごく大事にされてる気がして、落ち着かない。
ルイはそれ以上追及せず、「水いる?」とだけ聞いてきた。
「……いる」
「了解」
冷蔵庫を開ける音。
グラスに水が注がれる音。
キッチンに立つルイの背中。
タイキはリビングに入って、いつも通りソファに座ろうとして、途中でやめた。
いや、ここ座ったら距離近いな、とか。
逆にダイニング側にいるのも落ち着かなさすぎるな、とか。
そんなことを考えてしまう時点で、もう普段の自分じゃない。
結局、ソファの端に浅く腰掛ける。
背もたれに体重を預けきれない。
ルイが水を持ってきて、ローテーブルに置いた。
「はい」
「……ども」
指先がグラスに触れる。
冷たい。
ルイはそのまま少し屈んで、タイキの顔を覗き込むでもなく、でもちゃんと様子を見て言った。
「緊張してる?」
「してねぇ」
即答。
でも早すぎた。
自分でも分かるくらい、早かった。
ルイの口元が少しだけ緩む。
「してるじゃん」
「してない」
「してる」
「……うるさい」
タイキがそう返すと、ルイは小さく笑った。
からかうみたいな笑いじゃない。
嬉しそうな、でも大事に扱うみたいな笑い。
それが余計にだめだった。
「ごめん」
ルイはやわらかく言う。
「でも、俺ん家でそんな感じのタイキ、初めて見た」
「……今日が変なんだよ」
「うん」
ルイはあっさり頷く。
「今日は変だね」
その肯定が、変に刺さる。
違うと言ってほしいわけじゃない。
でも、二人ともちゃんと“今日が今までと違う日だ”って分かってるのが、妙に照れる。
ルイはそのままキッチンに戻っていった。
⸻
コンロに火が入る。
フライパンに油が落ちて、じゅっと小さな音が鳴る。
切っておいた野菜を入れる音。
包丁がまな板に当たる規則的なリズム。
換気扇の回る低い音。
それだけなら、普段と何も変わらない。
むしろ落ち着く類の生活音のはずなのに、タイキは全然落ち着けなかった。
キッチンに立つルイは、いつも通りだった。
袖を少しまくって、手際よく材料を扱う。
冷蔵庫を開けて、調味料を出して、火加減を見て。
たまに味見して、少し首を傾げて、また何か足す。
ただ料理してるだけ。
それだけなのに、今日はだめだった。
視線が吸われる。
ルイの手元。
横顔。
少し下がった睫毛。
袖からのぞく手首。
フライパンを返す時に軽く動く腕。
見なくていいのに、見てしまう。
何度も来たことのある家。
何度も見たことのある景色。
ルイがキッチンに立ってるのだって、別に初めてじゃない。
なのに今日だけ、その全部に変な意味が乗る。
“二人きり”だからだ。
“来る”って自分で言ったからだ。
さっきの言葉の続きがまだ胸の中に残ってるからだ。
タイキはソファの端でグラスを握ったまま、無意味にテレビの黒い画面を見た。
何も映っていないそれに自分のぼんやりした顔が映る。
「……」
視線を逸らしたい。
でも気づくとまたルイを見てる。
ほんとに、まずい。
「タイキ」
不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
「……なに」
「そんなに見られるとちょっと困る」
「っ……見てねぇし!」
即座に返したのに、声が少し裏返る。
完全に終わった。
ルイはキッチンの方から振り返っていて、目が合う。
その目が少しだけ笑っている。
「見てたよ」
「見てねぇ」
「さっきからずっと」
「……っ、気のせい」
「じゃあ、俺の気のせいってことにしとく」
その言い方が、全然“気のせい”にしてない。
タイキは耳を熱くしたままグラスの水を飲んだ。
冷たいのに、全然冷えない。
ルイはまた前を向いて、何でもないみたいに料理を続ける。
でも、その背中越しに声だけ落としてきた。
「嬉しいけどね」
タイキの喉が詰まる。
「……何が」
聞かなきゃよかったと思った。
でも聞いてしまった。
ルイは少しだけ肩越しに顔を向ける。
「俺のこと見てるの」
その返しがあまりにも自然で、タイキは何も言えなくなる。
冗談っぽく逃がすこともできたはずなのに、ルイはそのまま言う。
「今日、何回も目合ったし」
「今も、気づいたら見てる」
「……だから、見てねぇって」
「うん」
ルイはあっさり言う。
「そういうことにしといてもいいよ」
“でも俺は分かってる”って顔だった。
タイキはソファから少しだけ姿勢を崩して、片手で顔を覆う。
もうだめだ。
この家に来てからずっとそうだけど、ルイは優しいくせに一個一個ちゃんと拾ってくる。
「……やりづら……」
「俺が?」
「お前以外誰がいんだよ」
キッチンから、ルイの小さな笑い声がした。
その音にすら反応してしまう自分が嫌になる。
⸻
しばらくして、いい匂いが部屋に広がり始めた。
醤油とバターの混じったような香ばしい匂い。
温かい湯気。
食欲をちゃんと刺激してくる匂いなのに、タイキの胸のあたりはそれとは別の意味でずっと落ち着かない。
「できた」
ルイがそう言って皿を運ぶ。
タイキは反射みたいに立ち上がった。
「……何か手伝う」
「座ってていいのに」
「いや、なんか……」
そこで言葉が詰まる。
「……落ち着かねぇし」
言ってから、しまったと思う。
それじゃほぼ白状してる。
けれどルイは笑わなかった。
ただ、少しだけ目をやわらげて言う。
「じゃあ、箸出して」
「……うん」
それだけのやり取りなのに、妙に救われる。
タイキは棚の位置も知っていた。
この家に何度も来てるから、箸も取り皿もどこにあるか分かる。
それがいつもなら気楽さにつながるのに、今日は逆だった。
知ってる場所。
知ってる動線。
知ってる食器。
なのに“二人で使う”となると全部違う。
「これでいい?」
タイキが箸を持ち上げる。
「うん、ありがと」
ルイが皿を並べながら答える。
タイキはその横顔を見て、また一瞬止まりかける。
料理をして、皿を置いて、自然に“二人分”を並べるルイ。
その当たり前の動作が、変に刺さる。
家みたいだ、と思った。
いや、家なんだけど。
そういう意味じゃなくて。
もっと別の、言ったら終わりな意味で。
「タイキ?」
「……あ、悪い」
「ぼーっとしてる」
「してねぇ」
「してる」
短いやり取り。
でももうそれすら甘い。
ルイが笑うたび、タイキの胸は勝手にうるさくなる。
⸻
料理が全部並ぶ。
湯気の立つ皿が二つ。
スープ。
簡単なサラダ。
温かいご飯。
ルイが椅子を引いて、「どうぞ」と言う。
タイキは少しだけためらってから座った。
そして、そこでやっと気づく。
向かい合いだ。
いつもメンバーがいる時は、もっと適当に散って座る。
ソファだったり、ローテーブルだったり、隣同士だったり。
でも今日は、ダイニングテーブルで、正面にルイが座る。
逃げ場がない。
いや、物理的な意味じゃなくて。
視線の話だ。
椅子を引く音。
向かい合って座るルイ。
テーブルの上の灯りが、お互いの顔をちゃんと照らしている。
「……いただきます」
ルイが言う。
「……いただきます」
タイキも返す。
それだけなのに、向かい合って声を重ねるのが妙に近い。
心臓がまた一段うるさくなる。
ルイが「熱いから気をつけて」と言う。
タイキは頷いて、箸を伸ばした。
ひと口食べる。
「……うま」
素直に出た声だった。
ルイの目が少しだけやわらぐ。
「よかった」
その“よかった”の言い方が、味の感想を聞いた時のそれだけじゃない気がして困る。
食べられたこと。
来てくれたこと。
座って向かい合ってること。
全部まとめて“よかった”みたいに聞こえる。
「普通に腹減ってたんだな」
ルイが言う。
「……だから言っただろ」
「うん」
「ちゃんと食べるタイキ、かわいい」
「っ……そこに繋げるなよ!」
思わず顔を上げて言い返す。
その瞬間、目が合う。
正面。
近い。
逃げられない。
ルイは笑っていない。
少しだけ口元がやわらいでるだけで、目はちゃんとこっちを見ている。
タイキの呼吸が止まる。
昼間の現場でも。
この家に来る前の夜道でも。
何度も視線は交わってきた。
でも今は、もっと近い。
テーブル一枚挟んだだけの距離。
照明の下で、お互いの表情が全部見える距離。
ルイが目を逸らさない。
それに気づいた瞬間、タイキの方も逸らすタイミングを失う。
「……なに」
やっとのことで出た声は、少し掠れていた。
ルイは静かに言う。
「逃げないな、と思って」
それだけで、胸の奥がどくんと鳴る。
「……飯食ってるだけだし」
「うん」
ルイは頷く。
「でも前だったら、もっとすぐ逸らしてた」
図星だった。
タイキは言葉に詰まる。
確かにそうだ。
前なら、こんなふうに正面から見られたら絶対に無理だった。
見ていられなくて、すぐ手元とか皿とか、どうでもいいところに視線を落としていた。
でも今は。
恥ずかしい。
心臓もうるさい。
なのに、逸らしたくない気持ちがある。
それが何より厄介だった。
ルイはその沈黙を受け取るように、少しだけ声を落とした。
「今日のタイキ、ちゃんと俺見てくれる」
やめろ、と思う。
そんなふうに言葉にされると、本当に全部自覚させられる。
「……見てねぇって、何回言わせんだよ」
「見てる」
「見てない」
「見てる」
「……っ」
まるで子どもみたいな言い合いなのに、空気は甘いままだ。
ルイの声がやわらかいから。
からかって終わりじゃなくて、うれしそうだから。
タイキは負けたみたいに、少しだけ視線を落とした。
でも完全には逃がさない。
テーブルの上を挟んだまま、またゆっくり目を上げる。
その動きを、ルイがちゃんと見ていた。
「……何」
タイキがもう一度言う。
今度は、さっきより少し小さい声。
ルイはしばらくタイキを見て、それから静かに答えた。
「嬉しい」
また、それだ。
まっすぐすぎる言葉。
ひとつも飾らないやつ。
そのくせ、押しつけるんじゃなくて、ただ事実として置いてくる言い方。
「お前がここにいて」
「飯食ってて」
「俺のこと見てるの」
ひとつずつ区切るみたいに言われて、タイキの耳まで熱くなる。
「……そんな言い方、すんなよ」
「なんで」
「……変に、重くなる」
「重い?」
「……いい意味で、だよ」
言ってから、またしまったと思った。
今のはかなりだめだ。
“いい意味で”なんて、自分から言うつもりじゃなかったのに。
ルイの目が、ごくわずかに揺れる。
「……今の、反則」
「知らねぇよ……」
タイキはとうとう箸を置いて、片手で顔を覆った。
熱い。
ほんとに熱い。
ルイが小さく笑う気配がした。
でも笑い飛ばさない。
そのまま、やわらかい声で言う。
「タイキ」
「……なに」
「顔隠しても、赤いの分かる」
「うるさい」
「うん」
「返事すんな」
「それは無理」
タイキは指の隙間から少しだけ前を見た。
ルイは向かいで、頬杖もつかず、ただ真っ直ぐ座っている。
視線だけがやわらかく熱い。
逃げない。
追い詰めない。
でも、逸らさない。
その見方が、ずるい。
「……お前さ」
タイキは小さく息を吐いて言う。
「今日、ずっとそういう感じなの」
「どういう感じ」
「……見てくる感じ」
「見てるからね」
「即答すんなよ……」
「だって、今はちゃんと見ていいって思ってるから」
その一言に、空気が少し変わる。
タイキはゆっくり顔を上げた。
ルイは真面目だった。
「前は、見すぎると困らせるかなって思ってた」
「今も困らせてるかもしれないけど」
「でも、今日はタイキが来てくれたから」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
タイキが行くと言った。
場所を変えると言った。
食べれるなら、と照れ隠しをしながらも、ここまで来た。
ルイはその全部を、ちゃんと“返事”として受け取ってる。
それが恥ずかしくて。
でも、少しだけうれしい。
「……来たの、飯のためだし」
かろうじてそう返す。
ルイは少しだけ笑って、でもすぐに真面目な目のまま言った。
「それでもいいよ」
「その理由でここに来てくれたなら、それで十分嬉しい」
また逃げ道を残す。
なのにその逃げ道ごと抱きしめるみたいな言い方をしてくる。
タイキは視線を落としそうになって、でも落とさなかった。
目が合う。
テーブル越し。
向かい合って。
何秒も。
今までなら、こんな時間もたなかった。
でも今日は違う。
心臓は痛いくらいうるさいのに、それでも見ていたい。
ルイの目が、ほんの少しだけ深くなる。
「タイキ」
「……ん」
「ほんとに、何度も来てる家なのに」
ルイが静かに言う。
「今日だけ、全然違う顔してる」
図星すぎて息が止まる。
「……っ」
「落ち着かない?」
「……別に」
「うそ」
「……うるさい」
「何が一番落ち着かない?」
その聞き方がやさしい。
責めるんじゃなくて、知りたいだけの声。
タイキは少しだけ唇を噛んでから、観念したみたいに小さく言った。
「……全部」
ルイの目がやわらぐ。
「家入ったとこから、ずっと」
タイキは視線を外さないまま、ぽつりぽつり続ける。
「知ってる場所なのに、今日だけなんか変で」
「お前、普通に料理してるだけなのに」
「……変に、だめで」
最後の方はかなり小さかった。
でも、向かいに座るルイにはちゃんと届いた。
ルイはしばらく何も言わなかった。
ただ、うれしそうに困ったみたいな顔でタイキを見ていた。
「……そんな顔すんな」
タイキが言う。
「どんな顔」
「……なんか」
うまく言えない。
「……喜んでるの分かる顔」
「喜んでるから」
また、即答。
タイキは眉を寄せたまま、でも完全に逸らさずに言う。
「そういうとこ」
「うん」
「……むり」
その“むり”に、ルイがふっと笑う。
「でも、逃げてない」
「……飯あるし」
「飯なくても?」
「知らねぇよ」
答えになってない。
でもそれを、ルイは追い詰めなかった。
代わりに、静かに箸を置いて言う。
「じゃあ、今日はこのままでいい」
「落ち着かないまま、向かいにいて」
「俺はそれ、かなり好き」
その言葉に、タイキの胸の奥がまた熱くなる。
落ち着かないまま。
ちゃんとしてないまま。
整理もついてないまま。
それでもいいと言われる。
その上で、好きだと言われる。
それがもう、どうしようもなく効いた。
タイキも少しだけ箸を置いた。
テーブルの上に指を置いて、ルイを見る。
「……ルイ」
「ん?」
「今、俺」
「うん」
「たぶん、かなり……」
そこで止まる。
言い切るにはまだ照れが勝つ。
ルイは待っている。
でも目だけはやさしく、逃がさない。
タイキは喉を鳴らして、ようやく言った。
「……お前のこと、ちゃんと見てる」
静かだった。
声も小さい。
でも、向かい合うこの距離では十分すぎるくらいの告白だった。
ルイの息が、一瞬止まる。
その反応を見た瞬間、タイキの顔がまた熱くなる。
言ってしまった。
かなり言ってしまった。
「……今のは」
「うん」
「聞き流してもいい」
「無理」
ルイが低く返す。
「絶対無理」
「……だよな……」
もう遅い。
でも、今さら後悔だけでもなかった。
ルイはほんの少しだけ前に身を乗り出す。
テーブル越し。
触れない距離。
でも、視線はさらに近くなる。
「タイキ」
「……なに」
「今の、めちゃくちゃ嬉しい」
「……っ」
「逃げないのも」
「ここにいるのも」
「ちゃんと見てるって、自分で言ったのも」
ひとつずつ数えるみたいに言われて、タイキはほんの少しだけ目を細めた。
「……数えんなよ」
「だって覚えてたいから」
その返しが、もうだめだった。
タイキはゆっくり息を吐いて、それからまたルイを見た。
正面のまま。
逃げないまま。
「……飯、冷める」
「うん」
「食えよ」
「食べる」
「見ながら食うな」
「それはちょっと無理」
「……っ、ほんとにもう……」
そう言いながら、タイキは結局少しだけ笑ってしまう。
ルイもそれを見て、やわらかく笑う。
向かい合ったまま。
何度も来たことのある家で。
でも今日だけは、何もかもがはじめてみたいに見えた。
そしてタイキは、もう分かっていた。
このテーブルで。
この距離で。
ルイと目を合わせたまま食事をするなんて、前の自分なら絶対にできなかった。
今こうして見ていられるのは。
見たいと思ってしまっているのは。
もうそれ自体が、答えの途中だった。
食後、先に立ち上がったのはルイだった。
「ごちそうさま」の余韻もまだ薄く残るテーブルの上を、無言のまま片づけていく。
皿を重ねる音。
グラスの中で氷が小さく鳴る音。
カトラリーが陶器に触れる乾いた気配。
タイキはその背中を少しだけ見てから、遅れて立ち上がった。
何か言うより先に、手が動いた。
空になった皿をまとめて、スープの器を重ねる。
テーブルの向こうから手を伸ばした瞬間、同じタイミングでルイの指先がその皿に触れた。
ほんの一瞬。
ぴたり、と動きが重なる。
どちらもすぐには離さなかったわけじゃない。
でも、どちらが先とも言えない短い止まり方をしてしまって。
次の瞬間、タイキの方が少しだけ強く息を吸った。
ルイは何も言わない。
ただ、そのまま自然に力を抜いて、皿をタイキに預ける。
タイキも何も言えなかった。
会話がないぶん、余計なものばかり意識する。
指先の近さ。
立つ位置。
ルイの袖が視界に入る距離。
食器を持ち上げるたびに微かに届く体温みたいなもの。
シンクまでの数歩が、妙に長い。
ルイが水を出す。
タイキが皿を置く。
泡立ったスポンジが陶器を滑る音を聞きながら、タイキは隣に立ってグラスを拭いた。
何度もこういうことはあった。
メンバーと一緒にいる時、打ち上げの後、誰からともなく片づけを始めて。
その流れでルイと並ぶことだって、別に珍しくなかった。
なのに今日は違う。
狭いわけでもないキッチンが、少しだけ近い。
ルイが皿を洗うたび、腕が動く。
そのたびに肩先の位置が変わって、タイキの呼吸までずれそうになる。
布巾を持つ手が、何度か皿の端越しにルイの手元へ近づいて、そのたびに自分で勝手に神経を使う。
触れてない。
まだ、ちゃんと。
でも、少しでも気を抜いたら自分から触れそうになる。
それが一番危なかった。
最後の皿を拭き終えて、タイキは静かに食器棚へ戻した。
ルイも水を止める。
換気扇の低い音だけが、部屋の上の方で回っている。
片づけは終わった。
それなのに、どちらもすぐに動かなかった。
ルイがシンクに手をつくでもなく、タイキがその場を離れるでもなく。
ただ、隣にいる気配だけが残る。
まずい、とタイキは思った。
何が、と言われたら説明はできない。
でも、このままこの位置にいたらよくない。
静かすぎる。
近すぎる。
それに――今の自分は、たぶん少し気が緩んでいる。
食後の温かさ。
片づけ終わりの静けさ。
ルイの家の灯り。
そういうもの全部に紛れて、身体の方が先に距離を欲しがりそうになる。
タイキはふっと息を吐いて、ひとつ後ろへ下がった。
それから、そのままリビングの方へ戻る。
ソファの端に腰を下ろす。
深くもたれかからず、少しだけ前屈みになったまま、手のひらを膝の上で重ねた。
自分の鼓動が、静かな部屋の中でやけに近い。
キッチンから足音がした。
気配だけで、ルイがこっちを見てるのが分かる。
少ししてから、ルイが小さく笑った。
「静かなタイキ、なんか貴重だな」
その声に、タイキの肩がわずかに揺れる。
振り向くより先に、ルイの気配が後ろに来た。
近い。
でも、触れない。
ちゃんと距離を取ったまま、自然な動作で少しだけ身を屈めて、ソファに座るタイキを後ろから覗き込む。
その“ちゃんと触れない”感じが余計に心臓に悪い。
「コーヒー飲む?」
低くて、やわらかい声だった。
タイキは少しだけ視線を上げる。
正面の何も映っていないテレビの黒い画面に、後ろのルイの輪郭がぼんやり映っていた。
「……眠くないの?」
何気ないふうに聞いたつもりだった。
本当に、ただの流れで。
静かな夜の延長で。
けれど言葉にした瞬間、自分の声が思ったよりやわらかかったことに気づく。
ルイはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ間を置く。
その間が、変に長い。
それから、ルイは静かに言った。
「眠いけど」
もう少しだけ間。
「今は、飲みたい」
タイキはゆっくり息を吸った。
眠いのに。
それでも“今は”と言う、その意味を深く考えない方が難しい。
「……じゃぁ、俺も」
そう返すと、ルイは後ろで小さく笑った気がした。
近い位置で落ちたその気配に、また胸がざわつく。
夜が、まだ終わる気がしなかった。
ルイはそのまま距離を取り直してキッチンへ戻った。
棚を開ける音。
マグカップを出す音。
コーヒー豆の袋を開ける微かな擦れ。
タイキはソファに座ったまま、落ち着かない指先を膝の上で組み直した。
コーヒーの匂いが広がり始める。
静かな部屋に、湯を注ぐ音がやけに染みた。
その音を聞いていると、少しだけ呼吸が整う。
けれど、整ったと思ったところに、またルイの声が落ちてきた。
「タイキ」
タイキは反射みたいにルイの方へ顔を向けた。
キッチンの灯りの下で、ルイがこちらを見ている。
マグに手を添えたまま、少しだけ口元を緩めて。
「2人きりの時に“眠くないの”は
なんか…誘ってるように聞こえる」
最後の方で、ルイは少し笑っていた。
タイキの思考が、一瞬きれいに止まる。
「……は?」
やっと出た声は、全然強くなかった。
ルイはその反応ごと受け止めるみたいな顔で、続きを落とす。
「俺のコーヒー飲もうの方がよほど健全」
その一言で、タイキの顔は一気に熱を持った。
「っ……」
言い返そうとして、何も出てこない。
喉まで上がってきた言葉が、その熱に全部持っていかれる。
ルイは笑いすぎない。
でも確実に楽しそうで、しかもどこかうれしそうで、それがまた最悪だった。
「……お前、ほんと」
タイキはようやく絞り出す。
「そういうの、急に言うなよ……」
「急じゃないよ」
ルイは静かに湯を落としながら言う。
「タイキが無防備に言った」
「無防備じゃねぇし」
「うん」
少しだけ笑いを含んだ声。
「じゃあ、わざと?」
タイキは言葉に詰まった。
わざとじゃない。
でも、無防備じゃなかったとも言い切れない。
眠いのか気になった。
まだ一緒にいたいのか、確認したかった。
この夜がもう少し続くのか、知りたかった。
それを全部見抜かれたみたいで、顔が熱い。
ルイはコーヒーを淹れ終えて、二つのマグを持ってくる。
その間、タイキはもうまともに前を向けなかった。
テーブルにマグが置かれる。
立ちのぼる湯気。
やわらかい苦みの匂い。
ルイはソファの正面には座らず、少しだけ斜めの位置に腰を下ろした。
近すぎない。
でも、遠くもない。
その気遣いが分かるから、余計にだめだ。
「はい」
と、ルイが片方を差し出す。
タイキは受け取りながら、小さく言う。
「……誘ってないからな」
ルイはそこで、ようやく少しはっきり笑った。
「知ってる」
「じゃあ言うなよ」
「でも、そう聞こえたのはほんと」
ルイはマグを持ったまま、やわらかく続ける。
「ちょっと嬉しかったし」
その一言で、また終わる。
タイキはマグの熱を掌に感じながら、視線を落とした。
熱いのはたぶんコーヒーのせいじゃない。
ルイはそれ以上追い詰めなかった。
ただ隣で、自分のコーヒーをひと口飲む。
静かな夜。
近くにいる気配。
言葉は少ないのに、沈黙が甘い。
タイキはようやく、マグの縁に口をつけた。
少し苦い。
でも温かい。
その温度を飲み下しながら、タイキは小さく息を吐く。
今夜はたぶん、まだ終わらない。
そう思ってしまった自分に、また胸の奥がゆっくり熱くなった。
コーヒーの湯気が、ふたりの間にやわらかく立ちのぼっていた。
部屋の照明は明るすぎなくて、ソファの周りだけが少しだけ夜の色を濃くしている。
テレビは消えたまま。
時計の音も聞こえないくらい静かで、たまにマグがテーブルに触れる小さな音だけが、妙に近く響く。
タイキはマグを両手で持ったまま、熱を逃がすみたいに少しだけ口をつけた。
苦い。
でも、ちゃんと落ち着く温度のはずなのに。
隣にルイがいるだけで、全然落ち着かない。
さっきから妙に静かだな、と思った。
話しかけてくるわけでもなく、からかってくるわけでもなく。
それなのに、隣から視線の気配だけはずっとある。
タイキはマグを下ろして、ようやく少しだけ横を見た。
ルイはソファに浅く腰掛けて、片肘をついていた。
頬杖とまではいかない、軽く肘を預けただけの姿勢。
そのまま、静かにタイキを眺めている。
表情はやわらかい。
どこか嬉しそうで、穏やかで。
見られているのに、追い詰める感じはない。
ただ、そこにいるタイキをそのまま見ている顔だった。
それが余計にだめだった。
「……なんだよ」
タイキが小さく言う。
ルイはすぐには目を逸らさなかった。
むしろ、そのまま少しだけ口元をゆるめた。
「タイキが、今ここにいるのが嬉しいだけ」
まっすぐすぎる。
タイキの喉が、きゅっと鳴る。
何でもないみたいな顔で言うのに、内容だけはまるで何でもなくない。
「……またそういうこと」
「ほんとだよ」
ルイはやわらかく続ける。
「仕事に戻ったら、また見る機会減るから」
「今のうちに充電」
その言い方が甘すぎて、タイキは思わず顔をしかめた。
しかめたつもりなのに、たぶん全然強くない。
「……人のこと、充電みたいに言うな」
「だって、そういう感じ」
ルイは少しだけ笑う。
「今すごい満たされてる」
もうだめだ。
その言葉のたびに、胸の奥がじわじわ熱くなる。
タイキは視線を外そうとして、でも完全には外せなかった。
ルイのその顔が、あんまりにも穏やかで。
本当に嬉しそうで。
自分がここにいるだけでそんな顔をされるのが、困るのに、少しだけ嬉しい。
テーブルの上の湯気がゆっくり細くなっていく。
コーヒーの匂いが、まだ静かに残っている。
ルイが一口、マグに口をつける。
喉が動くのが見えて、タイキは無意味に視線を落とした。
次の瞬間だった。
ルイがマグを置いて、すっと片手を差し出した。
手のひらを上にして。
ソファの上にそっと置くように。
テーブルを挟んだ今の距離を壊さないまま、タイキの前に差し出される。
「手だけ、触ってもいい?」
空気が変わる。
タイキの呼吸が止まった。
言い方がやさしい。
無理に取るんじゃなくて。
来いとも言わない。
ただ、手だけ。
それだけを、ちゃんと聞いてくる。
テーブル越しに交わっていた熱が、急に形を持ったみたいだった。
「……っ」
声が出ない。
嫌じゃない。
むしろ、触れたいと思ってしまう。
でも、それを自分で認めるみたいで、簡単に手を出せない。
ルイは急かさなかった。
差し出した手をそのままにして、ただ待っている。
その待ち方がまた、ずるい。
タイキはゆっくり、自分の手元を見た。
マグを持っていたせいで少しだけ熱を持った指先。
その指が、少しだけ震えている。
分かるだろ、こんなの。
見なくても分かるくらい緊張してる。
でもルイは何も言わない。
タイキは小さく息を吸って、それから、おそるおそる手を伸ばした。
指先が近づく。
ほんの少しずつ。
途中でやめられるくらいの遅さで。
でも最後には、ちゃんとルイの手のひらに触れた。
あたたかい。
思ったよりもずっと落ち着いた熱だった。
静かで、受け止めるみたいな手。
タイキの指先が乗る。
そのまま、手のひらが重なる。
「……ん」
ルイが本当に小さく息を吐く。
その反応だけで、タイキの胸はまた大きく跳ねた。
目を合わせられない。
合わせたら無理だ。
たぶん今の自分の顔、ひどい。
なのに、見たい。
ルイがどんな顔してるのか。
今のこの手を、どんなふうに受け取ってるのか。
見たいのに、見たら終わる気がして、視線が宙をさまよう。
そんなタイキの手を、ルイがゆっくり包み直した。
指と指の間に、自分の指を差し込むみたいに。
急がず、確かめるように。
そして、そっと絡める。
「……っ」
タイキの肩がぴくっと揺れる。
絡んだ。
ただ重ねるだけじゃなくて、ちゃんと繋がれた。
その事実が、思った以上にくる。
ルイの親指が、タイキの手の甲をゆっくり撫でた。
愛おしそうに。
本当に、ただそれだけを伝えるみたいに。
タイキは息をするのも忘れそうになる。
まずい。
これはまずい。
ちゃんと距離を空けて座ってるから、まだ安全圏だと思ってたのに。
触れるのが手だけだから、まだ耐えられると思ってたのに。
全然だめだ。
手だけでこんなの、禿げる。
心臓がうるさすぎて、今すぐこのままクッションに顔埋めたい。
なのにルイは、満足したみたいにそれ以上は何もしてこなかった。
ただ、手を繋いだまま。
本当に何でもない顔で、もう片方の手でマグを持ち上げる。
ひと口、コーヒーを飲む。
視線はタイキにべったりじゃない。
少し他所に流して、静かな横顔のまま。
手だけ繋いで、普通にコーヒーを飲んでいる。
その余裕が余計にずるい。
タイキの胸の内なんて、もう大騒ぎなのに。
指先から熱が上がってきて、腕を通って肩までじわじわ熱いのに。
ルイは、まるで夜の延長みたいな顔をしている。
手、繋いでるだけなのに。
いや、手を繋いでるだけでこんなに無理なんだけど。
タイキは繋いだ手を見た。
絡んだ指。
ルイの親指が、時々ゆっくり動いて、また愛おしそうに撫でる。
そのたびに胸の奥がきゅっと縮む。
見ない方がいい。
でも見てしまう。
そのまま視線を上げれば、ルイの横顔がある。
落ち着いてる。
でも口元がほんの少しだけやわらいでいて、たぶんルイだって平気なわけじゃない。
それが分かるから、余計に熱い。
タイキはようやく、小さく息を吐いた。
「……ルイ」
「ん?」
ルイはマグに口をつけたまま、目だけを少し向ける。
その余裕っぽい仕草に、タイキはますます言葉が出なくなった。
結局、出てきたのは弱いひとことだけだった。
「……何でもない」
ルイはそこで、ふっと笑った。
笑うといっても、声を立てるほどじゃない。
ちょっと照れたみたいな、やわらかい笑い方。
そして、タイキの顔を見て気づいたんだろう。
耳まで熱いことも。
目を合わせられないくせに、ルイを見たくて仕方ないことも。
「手、繋いでるだけだよ」
馬鹿にするでもなく、ほんの少し困ったみたいに。照れたみたいに笑いながら、ルイが言う。
その言い方が、やけに可愛かった。
可愛い、なんて。
今この状況で思うのもどうかしてる。
でも本当にそう見えた。
いつもは余裕あるくせに。
今はちょっとだけ、自分も照れてるみたいな顔で。
でも繋いだ手は放さないまま、そう言う。
タイキの胸が、またぐらっとする。
「……それが、だめなんだろ」
やっと絞り出した声は、ほとんど拗ねたみたいな小ささだった。
ルイの目がやわらぐ。
「だめ?」
「……だめ」
「俺は嬉しい」
「知ってる」
「うん」
ルイは小さく頷く。
「タイキがだめになってるのも、ちょっと嬉しい」
「……っ、お前さ」
言い返したいのに、繋がれた手のせいで全然強くなれない。
ルイはまた親指でひとつ撫でて、それから少しだけ声を落とした。
「でも、ちゃんと我慢してるよ」
そのひと言で、空気がまた変わる。
タイキは反射みたいにルイを見る。
今度はちゃんと、目が合った。
ルイは穏やかだった。
熱はあるのに、ちゃんと抑えてる目。
それでいて、繋いだ手だけは離さない。
「これ以上したら、たぶんタイキの心臓に悪いから」
「……今も悪いし」
思わず本音が出た。
しまった、と思った時には遅い。
ルイの目が、わずかに揺れて、それから困ったみたいに嬉しそうに細くなる。
「うん」
ルイは静かに言う。
「それも、知ってる」
だめだ。
ほんとにだめだ。
タイキは繋がれていない方の手で、顔の下半分を隠した。
それでも目だけは隠しきれなくて、ルイを見てしまう。
見たい。
でも、見れば見るほど好きになる。
その矛盾ごと、たぶんもうルイにはばれている。
「……離せ」
タイキが小さく言う。
ルイは少しだけ首を傾げた。
「ほんとに?」
「……」
「タイキ」
名前を呼ばれて、また喉が鳴る。
「離してほしいなら、離すよ」
ルイの声はやさしい。
「でも、そうじゃないなら」
そこで少しだけ笑う。
「もうちょっと、このままいたい」
タイキは何も言えなかった。
離してほしくない。
そのくせ、このままだと無理。
その両方が本当すぎて、うまく答えられない。
沈黙の代わりみたいに、指先が少しだけルイの手を握り返した。
本当に、無意識だった。
けれどルイはその小さな返事を逃さなかった。
目を見開くほどじゃない。
ただ、すごく大事なものを受け取ったみたいに、静かに息を吐いた。
「……うれし」
小さく漏れたその声に、タイキの耳がまた熱くなる。
ルイはそのまま、何でもない顔に戻る努力でもするみたいにもう一口コーヒーを飲んだ。
でも、口元は隠しきれずに少しだけ笑っている。
タイキはもう、胸の内がうるさすぎて禿げそうだった。
ただ隣でコーヒーを飲んでるだけ。
ただ手を繋いでるだけ。
それだけなのに、今までで一番“二人きり”を感じる。
ルイの親指が、また一度だけそっと撫でる。
タイキは小さく息を呑んで、それからようやく、ほんの少しだけルイの方へ身体を向けた。
完全には向けない。
でも、前よりはちゃんと近い。
それを見たルイが、また照れたみたいに笑う。
手を繋いだまま、やわらかい横顔でまたコーヒーを飲んだ。
タイキはその横顔を見て、もうだめだと思った。
手だけ。
まだ手だけ。
なのにこんなに幸せそうな顔をされると、全部が少しずつ壊れていく。
安全圏だと思っていた距離は、もうとっくに意味を失っていた。
ルイが、少し照れたみたいに笑った。
それだけだった。
ほんの少し、口元がやわらいで。
いつもの余裕だけじゃない、今ちゃんと自分も照れてるみたいな顔。
その顔が、効きすぎた。
タイキの胸の奥で何かが一気に跳ね上がる。
繋がれた手の熱も。
親指で撫でられた感覚も。
“もうちょっと、このままいたい”って言われた声も。
全部まとめて、今その笑い方ひとつで限界に近づく。
だめだ、と思った。
このままここにいたら、何かが顔に出る。
たぶん、もうかなり出てる。
でもそれ以上に、今の自分は少しでも気を抜いたら、繋いだ手をもっと強く握り返してしまいそうだった。
それは、まずい。
タイキは小さく息を吸って、それから繋がれた手をほんの少しだけ動かした。
離したいんじゃない。
でも、このままは本当に無理だ。
ルイはその動きを察して、ちゃんと力を抜いた。
無理に引き止めない。
そのやさしさがまたきつい。
手が離れる。
離れた瞬間、空いた場所に夜気みたいなものが入り込んだ気がした。
さっきまで確かにあった熱が急に消えて、逆にそこだけ変に意識してしまう。
「……そ、そろそろいいだろ」
声が少しだけ上ずる。
ルイが目を向ける。
やわらかいまま。
でも何も追及しない顔。
タイキは視線を逸らしたまま、早口で続けた。
「トイレ行きたい」
一拍の沈黙。
「うん」
ルイはただそれだけ言った。
「奥、いつものとこ」
“いつものとこ”。
何度も来たことのある家だからこそ出る言い方。
その自然さが、少しだけ救いだった。
タイキは立ち上がる。
足元が妙に頼りない。
変に急ぎすぎないように気をつけながら、でもほとんど逃げるみたいに廊下を曲がった。
ドアを閉めた瞬間だった。
「……っはぁ……」
静かに息を吐いたつもりが、思ったより大きく漏れた。
洗面台に両手をつく。
鏡の中の自分は、分かりやすいくらいひどかった。
耳まで赤い。
目元も熱っぽい。
なにより、落ち着いてる顔なんて全然できていない。
「……無理……」
小さく呟いて、そのまま額を下げる。
手を繋いだだけ。
それだけだ。
キスされた時だってもっと分かりやすく大事件だったはずなのに、今のこれは別の意味でだめだった。
手だけだから、余計だ。
体温。
大きさ。
絡んだ指。
親指で撫でられた感覚。
それを、何でもないみたいな顔でコーヒー飲みながらやるルイ。
しかも最後、照れたみたいに笑った。
「……あれは反則だろ……」
鏡の自分に向かって言うしかない。
タイキは片手で顔を覆った。
顔だけじゃなく、胸の奥まで熱い。
さっきから何回も思ってるのに、結論はずっと同じだった。
好きすぎる。
いや、まだ言い切りたくない。
でも、もうどう見ても、相棒相手にこんなことにはならない。
それにもっと困るのは――
手が離れた今、足りないと思ってしまってることだった。
さっきまであった熱。
指先の重なり。
撫でられるたびにうるさくなってた心臓。
あれがなくなった瞬間、ほっとするどころか、少し物足りないと思ってしまった。
最悪だ。
「……最悪……」
でも声は、あんまり嫌そうじゃなかった。
タイキは蛇口をひねって、冷たい水で手を濡らす。
手のひらを見下ろす。
さっきまでルイに繋がれていた方の手。
なんとなく、そっと握ってみる。
何してんだ、と思う。
思うのにやめられない。
確かめるみたいに、自分で自分の手を握る。
でも違う。
全然違う。
当たり前だ。
指の絡み方も、温度も、手のひらの感触も。
ルイの手じゃない。
その違いが、やけに寂しく感じてしまって、タイキはまた深く息を吐いた。
「……落ち着け、俺……」
しばらくしてから、ようやく呼吸が少し整ってくる。
鏡の前で前髪を直して、頬に触れて、熱が少し引いたか確認する。
完全には無理だ。
でもさっきよりはまし。
これ以上待たせるのも不自然だ。
タイキはもう一度小さく息を吐いて、ドアを開けた。
廊下の先、リビングの灯りは変わらずやわらかかった。
戻ると、ルイはさっきと同じ場所にいた。
マグはもう半分くらいまで減っている。
でも、タイキが戻ってきたことに気づいても、何も言わない。
“どうした”とも聞かない。
“赤い”とも笑わない。
ただ、静かに目を向けるだけ。
その迎え方が、妙にやさしい。
タイキは少しだけ肩の力を抜いた。
何か言われたらまた無理だった。
でもルイは、言わない。
数歩、ソファの方へ戻る。
座る前に一瞬だけ迷って、それでもまたさっきと同じ位置に腰を下ろした。
少しの沈黙。
それからルイが、静かな声で聞いた。
「……そろそろ帰る?」
タイキが顔を上げると、ルイは本当に何でもないみたいな顔をしていた。
でも、逃がすわけでもない目。
「タイキが決めていいよ」
ルイは続ける。
「まだ話したければ、いてもいいし」
「帰るならタクシー呼ぶ」
その言い方に、胸が少し詰まる。
優しい。
最後まで、ルイはこっちに選ばせてくれる。
自分の都合で引き止めたりしない。
でも、“いてもいい”って道はちゃんと残してくれる。
タイキは一度、目を伏せた。
本当はさっき、帰るって言って逃げることもできた。
今だって、そうした方が安全かもしれない。
このままここにいると、たぶんもっと好きになる。
もっと困る。
もっと足りなくなる。
でも。
それでも。
帰りたいとは、思わなかった。
息をひとつ整えてから、タイキは小さく言った。
「……もうちょい」
自分の声なのに、やけに素直だった。
ルイは何も言わずに待っている。
タイキはその静けさに押されるように、もうひとつ言葉を足した。
「話したい」
言ってしまったあとで、やっぱり照れる。
顔を上げるのが少しだけ遅れる。
遅れて見たルイの表情は、すぐに何かを言うんじゃなくて、ちゃんとその言葉を受け取る顔だった。
それから、少しだけやわらかく笑う。
「じゃあ、もう一杯淹れよっか」
その声音があまりに自然で、タイキは助かったような、余計に胸が熱くなるような変な気持ちになった。
ルイが立ち上がる。
キッチンへ向かう背中は、落ち着いている。
さっきみたいに手を繋いだ人とは思えないくらい普通の顔で、棚を開けて、マグを出して、ポットに水を足している。
タイキはソファの上で、その背中を見た。
落ち着いて見える。
何でもないみたいだ。
でも、そんなわけないだろとも思う。
「……今日」
思わず声が出た。
ルイが振り向く。
タイキは少しだけ視線を泳がせてから、ようやく続ける。
「その……ありがとう、ご飯」
言いながら、無意識に片手を握っていた。
さっきまでルイに握られていた方の手。
確かめるみたいに、自分で自分の指を包む。
それに自分で気づいて、余計に照れる。
ルイはその手元を、たぶん見た。
見たけれど何も言わない。
「うん」
ただ、静かに返す。
「食べてくれてありがと」
それだけなのに、また少し足りないと思ってしまう。
会話が足りないんじゃない。
何かもっと、近いものが。
さっき触れられたせいで、自分の中の“足りる”の基準が変わってしまったみたいだった。
タイキは小さく唇を噛んだ。
それをごまかすようにテーブルの上のマグへ手を伸ばす。
もうほとんど空なのに、まだ少しだけぬくもりが残っている。
キッチンから、豆を挽く音がした。
ルイは何でもない顔を装っている。
その横顔はやっぱり落ち着いて見える。
でも、タイキは少しだけ知りたくなった。
今、どういう気持ちでコーヒーを淹れてるんだろう。
あんなふうに手を繋いだあと。
自分が“もうちょい”って言ったあと。
それでも、こんなふうに静かなままでいられる理由は何なんだろう。
⸻
ルイはなんでもない顔でお湯を沸かしていた。
少なくとも、そう見えるようにはしていた。
カップを取り出して、フィルターをセットして、豆の袋を開ける。
いつもと同じ手順。
何度もやってきた動き。
だからこそ、身体は自然に動く。
でも内側は全然自然じゃなかった。
“もうちょい”。
小さくて、照れた声。
“話したい”。
その二つが、まだ胸の中で反響している。
さっきタイキがトイレに立った時、少しやりすぎたかと思った。
手だけ。
そう思って聞いて、ちゃんと待って、急がないつもりでいた。
でも、繋がった瞬間のタイキの反応があまりにも素直で、うれしくて、少し調子に乗った自覚はある。
あの照れたみたいな笑い方も、たぶん効いた。
戻ってきた時の顔を見て、そう思った。
でもそこで何も言わなかったのは、ほんの少しだけ偉かったと思う。
――そろそろ帰る?
そう聞いたのは、本当にタイキに決めてほしかったからだ。
ここで引き止めるのは簡単だ。
もう少しいよう、って言うこともできた。
でも、それをしたくなかった。
タイキが残るなら、自分の意思で残ってほしかった。
帰るなら、それもちゃんと受け止めるつもりだった。
それなのに。
“もうちょい”なんて言われたら。
ルイは豆をすくう手に少しだけ力が入る。
危なかった。
表情に出ていないといいと思う。
しかも、そのあとに“話したい”だ。
あんなの、ほとんどご褒美みたいなものだった。
さらに追い打ちみたいに、
“ありがとう、ご飯”って、少し照れた顔で言う。
しかも、さっき繋いでいた方の手を自分で握って確認するみたいな仕草までして。
見ないふりなんて無理だ。
あれがどういう意味かなんて、確信までは持たない。
持たないようにしている。
でも少なくとも、さっきの手がタイキの中にちゃんと残っていることだけは分かった。
それだけで、十分すぎるくらい嬉しい。
ルイはポットからお湯を注ぐ。
ふくらんだ粉から、コーヒーの香りが立ちのぼる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
ここで浮かれた顔をしたらだめだ。
タイキはまだ、少し進んではまた照れて引く。
その温度を大事にしたい。
でも、うれしいものはうれしい。
今夜、タイキは自分からここに来た。
自分から“もうちょい”と言った。
帰らずにいる方を選んだ。
それだけで、もう十分だったはずなのに。
それでも欲が出る。
もう一杯コーヒーを淹れて。
もう少しだけ話して。
できるなら、さっきより少しだけ近い空気のまま、この夜を伸ばしたい。
ルイは静かに息を吐く。
ほんとに、好きだなと思う。
タイキがソファでこちらを見ている気配がある。
それだけで、また胸の奥がやわらかく熱くなる。
マグにコーヒーを注ぎながら、ルイは口元だけで小さく笑った。
今夜はまだ終わらない。
少なくとも、終わらせたくないと思っているのは自分だけじゃない。
それが、どうしようもなくうれしかった。
⸻
ルイがマグを二つ持って戻ってくる。
タイキはその音で顔を上げた。
さっきより少しだけ落ち着いて見える。
でも、完全ではない。
たぶんそれくらいが、今はちょうどいい。
ルイはテーブルにカップを置いて、静かに言う。
「熱いから、ゆっくりな」
タイキは小さく頷いた。
そしてその夜は、コーヒーの湯気の向こうでもう少しだけ続いていく。
コメント
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お話、更新されたのが嬉しくてテンション上がりましたー😌🩷2人の空気感がジワジワと伝わってきて堪らなくなります…😆素敵なお話ありがとうございます🎶次作を首をながーくして待っています🩷🩷🩷
みぅです🤍🥀 第4話、読みました。 この「緊張」感、めちゃくちゃ伝わってきました……! ルイが作ったご飯を食べるシーン、一言一言が重くて甘くて、読んでて心臓がやられた😭💘 特に「手だけ触ってもいい?」からの指絡め、あれ反則級でしたね……。 タイキの「見てる」って告白も、すごく丁寧に積み重ねたからこその重みがあって、息が止まりました。 2人の距離が少しずつ縮まっていくのが尊すぎて、にやけが止まらなかったです。 続き、すごく気になります……!