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「仲直りしたの?」とユカリに尋ねられる。
レモニカが一人で寝室の掃除をしていた時のことだ。他には誰もいないがユカリは秘密を求めるように囁いた。
レモニカとソラマリアがビアーミナ市に戻ってきた頃には既にユカリ、エイカ、ジニもこの屋敷へ戻っていた。ユカリたちが向かっていたヴォルデン領のアギムユドル市にハーミュラーがいたこと、そしてハーミュラーの考えている理屈は不明ながら、シシュミス教団はクヴラフワを救済するために呪いを満たしているのだ、ということを教わった。
「ソラマリアのことですね」レモニカは出来る限り自然に微笑む。「ええ、仲直りいたしましたわ。ようやく納得してくれました」
「良かった」とユカリは自然な笑顔で答える。「許しているのに、許されることを受け入れられないなんて不幸だもんね」
「そもそもわたくしの器が小さかったのですわ。ソラマリアはわざと呪いを運んだわけではないのに」
「仕方ないよ。感情だもの。克服者だってそうかもしれないでしょ? ハーミュラーに操られてるのかもしれない。そうだとしてもやっぱり気分はよくないよ」
「ドークさまでしたか? その方もやはり操られていると?」
「たぶんだけどね。最初に会った時、自由を望んでた。そっちが本音だと私は思ってる」
レモニカは押し黙る。ドークはもう死んでいる。ハーミュラーの実験の果てに命を落としたのだ。グリュエーの記憶の欠片、過去の幻視でその様を垣間見てしまった。そしてドークは今も『年輪師の殉礼』の呪いで生きているかのように振舞っているのだ。このことをユカリに伝えるべきか否か、レモニカは大いに迷う。
それに、レモニカがユカリに隠していることはそれだけではない。呪いを解けば死ぬという、予言にして加護。そしてそれ以上に重大な真実。
「どうかした? レモニカ。押し黙っちゃって」
「なんでもありませんわ」
「ってことは何かあったんだね。私には言えないこと?」
好奇心と心配を綯い交ぜにしたユカリの眼差しを受け止めきれずにレモニカは目をそらす。
「いずれお話すると思います。それまでは……」
「うん。言いたくないなら無理には聞かないよ。秘密にしておいた方がいいことも世の中には沢山あると思うし」
レモニカとユカリは掃除道具を携えて、屋敷を清めるべく立ち働く。淡黄色の漆喰を塗られた寝室、立ち上がりに草花が彫られた寝台、木板の軋む黒くくすんだ廊下、食事室を兼ねた大きな居間には立派な暖炉と今にも駆け出しそうな猫脚の机、煤けた竈が三つある台所。人生で掃除などほとんどしたことのなかったレモニカだが、ユカリに一つ一つ教わり、手際が良くなることは楽しかった。そうして手間をかけると屋敷自体にも愛着がわいてきた。今やシシュミス教団と敵対しながらも、救済機構とライゼン大王国の力関係に基づいた奇妙な平衡状態を保っている。この屋敷を離れる日も近そうだ。
隠し事は多くあるが、ユカリに嘘をつくのは初めてかもしれない。ソラマリアとの関係は修復され、一切合切の問題は解決した、という他愛もない嘘ではあるが。
そして実のところ、レモニカはソラマリアにも嘘をついた。ソラマリアの罪を許した、という嘘だ。
レモニカの姉――あるいは母の娘――のようなものであることをソラマリアが知った時の魂を震わすような感動はレモニカにも伝わった。小さな熾火に薪と油をぶちまけたような熱と光の放射を感じた。まるでソラマリアが別の人間に変身したかのようだった。起居振舞や話し方、目線の置き方、一挙手一投足が別物に思えた。何か大事を成し遂げた者のような自信や誇りのようなものが見て取れた。
それはなぜなのか? 現在の疑問の答えは常に過去にある。そのように考えたレモニカは改めて知る限りのソラマリアの過去を振り返った。
ミーチオン都市群には所属していないという魔法使いたちの街ワーズメーズにソラマリアは生まれた。類稀な肉体に恵まれて、父と母と四つ違いの妹ネドマリアと共に暮らしていたのだ。
しかしおそらく六歳の頃に救済機構にさらわれて、聖女候補である護女として養育された。そちらの才能に乏しいと判断されると、僧兵として鍛えられ、焚書官として働かされ、遂には大陸一の剣士と謳われるまでになった。しかし最前線で機構に裏切られ、恨みと憎しみを抱く敵方、ライゼン大王国に囚われた。
それを救ったのがレモニカの母ヴェガネラだ。ソラマリアは恩義に報いるべく、大いに働いた。
そんな恩人に与えられた最後の任務は失敗に終わった。機構にさらわれたヴェガネラの娘リューデシアを取り戻すべく救済機構へ単独侵入し、同じ境涯の護女だった者たちをも連れて大王国へと帰還するも、途上でリューデシアは救済機構へと戻ってしまった。
その際にリューデシアこと聖女アルメノンに呪いを運ばされ、ヴェガネラの娘レモニカを呪ってしまい、ヴェガネラを死に至らしめた。
数年後、家出したレモニカを追いかけた先でかつての親友リューデシアと妹ネドマリアを同時に亡くすこととなった。
痛みと苦しみの荊に取り巻かれた人生だ。
それに比べれば、近くにいる人物の一番嫌いなものに変身するからなんだというのだろう。ごっこ遊びのようなものだ。
レモニカは廊下の片隅で箒を手に握って、床に集めた塵を見つめて一人苦笑する。
レモニカはソラマリアの罪を許してなどいない。はなからソラマリアを許す立場になどないと気づいたのだ。
「どうかなさいましたか? レモニカ様」
廊下の反対の奥からソラマリアに呼びかけられ、レモニカは慌てて振り返る。ソラマリアも箒を手に握っていた。
「あ、あら? ユカリさまはどちらへ?」
「先ほど階段の方で見かけましたよ。ぼうっと壁を見つめて立っていたので声をかけたのです。ユカリは見るからに少し体調が優れない様子で、立ったまま夢を、白昼夢を見ていた、と。そのうえ眠れずに苦しむという悪夢だとか。休むように言っておきました」
「え!? 気づかなかったわ! 大丈夫なの!?」
レモニカは大失態を演じてしまったと悔いる。
「ずっとこの明るさですからね。頭で分かっていても混乱するのでしょう。素直に寝に行ったのでご安心ください」
レモニカはユカリの様子を思い返すも、自分がユカリの様子をよく見ていなかったことに気づいただけだった。
「そう、それならいいの。ところでソラマリア――」とレモニカが言いかけたところでソラマリアが僅かに身構える。「どうかして?」
ソラマリアは危ぶむような眼差しをレモニカに向けている。
「姉と呼ぶのはもうやめてください」
「大丈夫よ。もう飽きたから」
「そう、ですか」と呟くソラマリアは少し寂しそうだった。
面倒な性格だ。年の割に幼くて、しかし素直なことは美徳だろう。
「それよりも母のことを聞かせてくれない? 思い返せば貴女が教えてくれたことは大王国の政治家、女傑、魔法使い、英雄ヴェガネラ、誰でも知っていることばかり。貴女にとってのヴェガネラについては聞いた覚えがないわ」
ソラマリアはレモニカの言葉を推し量りかねる様子で小首を傾げる。
「偉大な人物です。強く気高く賢く勇ましく美しく優しく頼もしく潔く慈悲深く厳しく神々しく素晴らしい方です。余すことなくお伝えしてきたと思いますが」
武勇伝ならばいくらでも聞いて来たのだが、それでも実の母への関心が薄れてしまったのは、ソラマリアの語る母の話がどこか自分とは無関係な遠い場所での出来事のように思えたからかもしれない、とレモニカは冷ややかな気持ちで過去を振り返る。それに、聞き飽きていた。
「そうじゃなくて。何て言えばいいのかしら。もっと身近な、日常的なことを聞きたいのよ。普段の暮らしとか、好きな食べ物とか、どんな歌や踊りが好きだったのか、どういう時に笑って怒って泣いたのかとか」
「そう、ですね。例えば……」と物憂げに言ってからが長かった。
思いつかない、という訳ではなさそうだ。時折はっと顔を上げるが、すぐに首を振る。
いくらでも思いつくが何を話せばいいか分からない、という訳でもなさそうだ。しばし思い悩んだ後、口籠り、結局口に出さない。
どうやら話したくないことばかりのようだ。それも罪や恥に関わることではない。とても温かく、甘く、馨しく、輝かしく満たされた日々を秘密に、独り占めにしたいのだ。
レモニカにも思い当たることだった。ユカリと二人だけが知っている甘美な秘密を漏らせば、味気ない事実の一つになってしまう。
ソラマリアはきっと過去に生きている。ずっと美しく不変に輝くかつての日々という宝石を時折眺めて思い返すために生きている。
レモニカは心を切り替える。きっとヴェガネラの代わりにはなれないだろう。ならばせめてその宝石箱に新たな彩りを足してやるくらいのことはできないだろうか。ソラマリアが仕えるに足る人物になれないだろうか。