ベルニージュとグリュエーはキールズ領を取り巻く残留呪帯の、そこに設置された防呪廊を通り抜けてから、起伏の激しい山岳地帯をずっと彷徨っていた。一度確信を持って山を越えてみれば、そこには予想外の光景が広がっており、慎重に谷を降りてみれば見覚えのある景色を再び拝む羽目になり、山々はいつまでも二人に付きまとった。この手の地形の常に反して天候が安定しているのは不幸中の幸いだが、それでもベルニージュとグリュエーは疲弊している。
グリュエーはとても旅装には見えない魔導書の変身姿だ、着心地も歩き心地も素晴らしいものではあるが。一方ベルニージュの分の装身具の魔導書はない。五つ目の魔導書が壊れてしまったからだ。だがベルニージュに不満はない。残留呪帯ならばまだしも一種類の呪いに対抗する自信はある。これまでに入手した魔導書さえも所持している今ならば言い訳の余地すらない。何より他の魔法使い――ジニのこと――にできることは自分も出来るべきだと考えている。
暦の上では夏も盛りのはずだが、呪いの大地を吹き抜けるのはうすら寒い谷風ばかりだ。揶揄うように旅人に纏わりつき、存分に囃し立てた後、いずこかへと吹き去っていく。景色もまた寒々としている。開拓される以前の、クヴラフワでも特に勇ましい英雄たちが活躍した化外の土地が再現されているかのようだ。
ベルニージュは旧い地図を凝視し、陰鬱な光差す山と暗鬱な影の差す谷とを見比べ、現在地を把握しようとするが困難を極めていた。元々がクヴラフワの中でも開拓の遅れた新しい土地だ。それというのも平らな土地に慣れた都市人が音を上げる険しく厳しい山岳地帯であることに加え、轟々と唸りをあげて行く手を遮るように横たわる渓流が、古い友たる渓谷に寄り添うように無数に枝分かれしているからだ。故に測量をするにも困難を極めたのだろう、地図の正確性は疑わしい。そうでなくとも四十年以上前の地図となると信憑性すら怪しいものだ。
「せめて星が見えればなあ」とベルニージュは愚痴を零しつつ緑の空を仰ぎ見る。
ベルニージュにもシシュミス神は見えない。見えたならば、魔導書を使って挑みかることもできる。そうして追い出せばこの陰鬱な空ともおさらばできる。
「太陽があれだから方角も分からないしね」とグリュエーが息を切らしながら同調する。「太陽じゃないらしいけど。目玉にも見えないよね。なんでユカリにはシシュミス神が見えるんだろう?」
原因はベルニージュにも分からない。深奥に潜ったことがきっかけになったのだろうが、それならベルニージュやジニ、エイカやカーサには見えないことを説明できない。とすれば、分かり切った事ではあるが旅の友ユカリにだけ特別な理由などいくつもない。
「魔法少女の力なのか、ユカリ自身の才能なのか」
「あ! ユカリって目が良いもんね!? 関係ないかな?」
「あるかも」と言いつつもベルニージュは苦笑する。
もしも神が深奥のより深い位相に鎮座しているのであれば、説明はつく。目だけ、あるいは視覚だけ深奥に潜ればいいのだ。しかしそんなことをユカリがやってのけているという証拠はないし、そもそも可能なのかも分からない。
グリュエーが横から地図を覗き込む。
「そもそもどこに向かってるの? わ、山だらけ。どの山を越えてもまた山だよ。ここ?」とグリュエーはキールズ領に広がる山岳の一角を指さす。「谷間に大きい街があるみたいだね」
グリュエーの指の先には乱暴者の街と記されている。
「そう。でも遠いからいくつかの集落を経由することになるけど。野宿は嫌だからね。まずはこの村かな」
ベルニージュが指さす先に村の名前は記されていないが集落があることを示す簡素な絵が描かれている。
「人っているの?」グリュエーは素朴な疑問を投げかける。
「さあね。いないかもしれない。それでも家屋が残っていれば雨風はしのげるかもしれないし。まあ、雨風なんて滅多に降らないみたいだけどさ」
「でもシシュミス教団も情報すら得ていない土地なんだよ? キールズ領は」
それに関してはシシュミス教団の下っ端教団員ミージェルもとい、不滅公ラーガの忠良なる騎士ヘルヌスも話していた。昔に何人か神官を送って、しかし誰も戻って来なかったのだという。
「グリュエーがハーミュラーと旅していた時も立ち寄らなかったの?」
「うん。それより昔から教団員は一切近づいてない。だからこそ怪しいってことだよね? ハーミュラーに何の用があるか分からないけど」
「うん。でもたぶんキールズ領にハーミュラーはいないよ」とベルニージュは告げる。
「え! なんで分かるの?」
困惑の色をしたグリュエーの見開いた眼を覗き込んで説明する。
「確信はないけど三手に別れた内、一番確率が高いのはユカリたちの向かったヴォルデン領だね。元々教団員も頻繁に出入りしているらしいし。レモニカたちの向かったシュカー領は一番確率が低いかな。シグニカ側、救済機構の近くに秘密を隠すとは思えない。このキールズ領は情報通りなら同じく近寄らないと思うけど、だからこそ怪しいってのはある。防呪廊はあったけど。でも、まあ、それを差し引いても可能性は低いかな」
「じゃあグリュエーたちここに何しに来たの!? わざわざ三手に分かれてまで」
「あくまで可能性だよ。全く可能性がないわけではないし、そもそもワタシたちの一番の目的は魔導書だから。ああ、グリュエーは違うのか」
「違わなくはないよ」最年少の旅の仲間は憮然として否む。「グリュエーだってユカリに協力してきたし。でも今はクヴラフワ救済のが大事」
「もちろん。分かってるよ」ベルニージュは微笑みを見せる。「いずれにせよクヴラフワ呪災を解くのに有用な魔導書なんだから調べるに越したことはないね」
「救済機構や大王国に奪われるわけにもいかないしね」
グリュエーの言葉を受けてベルニージュは少し思案してから答える。
「機構はともかく大王国の第一目的は魔導書ではないと思うよ。今のところ巨人の遺跡とこの魔導書に特別な繋がりはないようだし、それに不滅公はワタシたちから無理に奪ったりもしないと思う」
「どうして? 魔導書を求めない権力者なんていないよ」
「それはそうだけど、もう少し思慮深いと思うってこと。機構の連中の世迷言と違って、故国を思ってのことというか」と答えてさらに付け加える。「それに、人質じゃないけど、こちらに妹もいることだし」
「そういえばベルニージュ、暫くお世話になってたんだよね、大王国の調査団に。その時の印象が良かったってこと?」
ベルニージュは不滅公のことを思い返す。第一印象はあまり良くなかった。何せ急に現れ、驚かされ、川に落ちたのだ。第二印象はただの酔っ払いだ。しかし全体としてはそれほど悪くない印象だ。
「そう、だね。自信に満ちた、というか不遜な王子様って感じだったけど素直に非は認めていたし、朗らかで寛容で明るくて……」グリュエーの真ん丸な目がじっと見つめてきていることに気づいてベルニージュの声が萎む。「何?」
「ベルニージュが男の人のことをそんな風に話すの珍しいなって。男の人、苦手なんでしょ?」
もしも不滅公が女だということをグリュエーが知ったらさぞ驚くことだろう、とベルニージュは心の内で笑みを浮かべる。しかしもちろんベルニージュは無闇にひとの秘密を漏らしたりしない分別を持ち合わせている。
「まあね。グリュエーは不滅公に会ったことなかったっけ?」
「うん。出発前にレモニカが会いに行ってたね。生まれてから一度も見たことのないお兄さんと会って何の話をしたんだろう」
「それこそワタシたちには想像するしかできない積もる話もあるんだよ、きっと。積もる話といえばワタシたちもそうでしょ?」と言って、ベルニージュは少し気恥しくなる。わざわざ言う必要はなかったかもしれない。
もはや地図は見るふりで、二人はあてどなく生気のない野原を歩き続けている。
クヴラフワにおいて最も起伏に富んだ土地、キールズ領は折り重なる山岳に中央へと重なる河川が織り成している。グレームル領に流れ込む数多の河川は既にこの土地で分岐している。そして中央を流れる河川に比べて急流にもかかわらず、架かる橋は少ない。亡国となる以前から鄙びていたことは明らかだ。
「アルダニからだからもう少しで一年の付き合いになるね」とグリュエーが思い出を語るように話す。「ベルニージュと会話をしたのは最近初めてだけど。グリュエーはそこら辺の記憶が二つ分あるからちょっと混濁してるんだよ」
ベルニージュは眉根を寄せて、悪戯っぽい笑みを浮かべるグリュエーを責めるように問い詰める。「それ初耳。なんで言わなかったの?」
「ユカリがうるさ……、心配しちゃうでしょ?」
「間違いないね」
「ベルニージュはユカリの見えないお友達に何か言いたいことあった?」
沢山あった気がするが、多くは失われた。それは記憶喪失でなくとも忘れてしまうような些細なことだからだが。
ベルニージュは諦めて地図を鞄に仕舞う。
「一番気になっていたことはどういう存在なのかってことだけど。それはもう分かったしね。知りたいことがあるとすれば、使命ってどういう風に分割した魂に与えるの?」
「妖術のことは感覚だから上手く説明できない。強く念じるんだよ。成し遂げるぞって。グリュエーのことを助けてくれる力と優しさを持った人を見つけて導くぞってね」
「それがユカリとソラマリア」
「そういうことみたい。東と南に放った風はユカリに出会って、西に放った風はソラマリアに出会った」
そして北はまだ行方知れずだ。その魂が戻ってきた時、グリュエーはまた性格が変わるのだろうか。できれば今のままでいて欲しいとベルニージュは思った。
「あ! 見て!」
グリュエーの指さす方向には亡国クヴラフワには珍しい鬱蒼と茂った森があった。谷間に満ち溢れ、苔生すように稜線に沿って広がっている。
「森? さっきからずっと見えてるけど。他に何か見えるの?」
「煙だよ。細い煙が上がってる」
確かにグリュエーの言う通り、森の中ほどからうっすらと白い煙が細く上がっているのがようやくベルニージュにも見えた。
「グリュエーも目が良いね。そのうちシシュミス神が見えるようになるかも」
「遠慮するよ。見られたくないんだろうし」
ベルニージュもその解釈は考えたことが無かった。考えてみれば神なのだ。姿を現せないということはないだろう。もしかしたら単に恥ずかしがり屋なのかもしれない。そう思うと歩き通しで疲れ切ったベルニージュの口元にもささやかな笑みが浮かぶ。
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