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朝、いつも通りテレビがつけっぱなしのリビングで、コーヒーを飲みながら経済新聞を読んでいた。
いや、読んでいるというのは正確ではない。
新聞に目線を落としているだけで、意識はほとんどそこになかった。
婚約のお祝いをされてから、数日が過ぎていた。
朝倉くんからは、住む場所や婚約指輪の話まで持ち出される。
私としては、結婚を前向きに考えてみようと思っただけだったのに、気がつけば、とんとん拍子に結婚への階段を上らされている。
もちろん、嫌なわけではない。
朝倉くんと一緒にいる時間は心地いいし、彼に好意を持っていることも否定しない。
それでも、私を取り巻く環境の変化に、心が追いついていなかった。
(ハッピーなはずなのに、どうしてこんなに落ち着かないのかしら)
カップに口をつける。
いつもと変わらないコーヒーの苦みが、今朝は妙に強く感じられた。
そろそろ出勤しようと新聞を畳み、テレビを消そうとリモコンを手に取った。
そのときだった。
アナウンサーが、それまでより少し切実な声で、とんでもないニュースを読み上げた。
『食品会社の最大手である金満フーズに、食品偽装の疑いが浮かび上がっています。今回の騒動の発端は、内部の人間による告発とみられており──』
驚愕で、リモコンが私の手から滑り落ちた。床に落ちた小さな音が、静かなリビングに響く。
金満フーズ──食品の製造と販売を手掛ける超大手食品メーカーだ。
昔からのロングヒット商品がいくつも定番化していて、誰もが一度は名前を聞いたことがあるような企業。
業績も安定している優良企業として知られている。
当然、我が証券会社でも多くの取引がある。
食品偽装となれば、企業の信用問題だけでは済まない。
商品の回収や取引先への影響、そして株価への影響。
顧客から問い合わせが殺到する可能性もある。
私は反射的に、証券マンとしての思考を巡らせていた。
けれど、次の瞬間、別の人物の顔が頭に浮かんだ。
龍彦──。
私は金満フーズの株主を担当しているわけではない。
それでも、龍彦が担当していることを知っている。
とても嫌な予感がした。
もちろん、龍彦が心配なのではない。
担当している株主がきちんとフォローされているのか、顧客に必要な説明をしているのか。
証券会社の人間として、そこが気になっただけだ。
……でも、もう私がフォローする必要はないもの
私は自分にそう言い聞かせながら、リモコンを拾い上げた。
※
「失礼します。牧野です」
会社について早々、奈良課長に呼び出された。
夏目莉央
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くま🐻☁️
12
第一執務室に入ると、課長が束になった資料を机の上に広げ、険しい表情で私を出迎えた。
いつもの朝とは少し違う空気に、私は背筋を伸ばす。
「牧野くん、忙しいところ悪いが、来週月曜に本社の視察が入ることになった。君にも手伝ってもらいたい」
「視察って、急遽ですか?」
「ああ。表向きは挨拶周りだそうだ。しかし、現社長はコンプラガバナンスを厳守するお方だ。少しでも不手際があると、支社の評価に関わる」
奈良課長は資料をめくりながら、さらに続けた。
「第1営業部内で、問題行動を起こしている社員はいないだろうか」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に龍彦が浮かんだ。
けれど、すぐに打ち消す。
彼の素行は社内ログにも残っていない。
野々宮さんの件だって、コンプライアンス室行きは免れている。
そもそも龍彦は第2営業部だから、今回の視察とは直接関係がない。
「噂も聞いたことはありません」
私がきっぱり答えると、奈良課長は安心したように頷いた。
「そうか。それならいい。現社長の理念は顧客優先だからな。前社長が数字第一主義で金融庁に目をつけられたものだから、なおさらコンプラガバナンスには敏感だ」
課長はため息をつき、資料を閉じた。
「今回は抜き打ちのつもりなのかもしれない。気を抜くなよ」
言葉とは裏腹に、その表情には少し面倒そうな色が浮かんでいる。
そのとき、ドアがノックされた。
「失礼します。朝倉です」
聞き慣れた声に、私の心臓が小さく跳ねた。
「ああ、朝倉くん。呼び出して悪かったな」
ドアが開き、朝倉くんが入ってくる。
ここでは彼は私の部下で、私は彼の上司だ。
そう思っているのに、すっと私の横に立たれただけで、妙に意識してしまう。
休日に顔を合わせるのとは違う。
端正な横顔、きちんと整えられた髪。
前で組んだ手は落ち着いているように見えるのに、私だけが勝手にソワソワしてしまう。
(しっかりして、私。ここは職場よ)
「今度、本社の視察が入ることになった。第1営業部の視察対応は、牧野くんと一緒に朝倉くんにも頼もうと思う」
「はい。承知いたしました」
即答する朝倉くんの声は、いつもの仕事モードだった。
私を優しく抱きしめてくれた男と同じ人とは思えない。
その切り替え方に、少しだけ感心してしまう。
「まあ、成績優秀な朝倉くんだ。社長に顔を売るつもりで、当日よろしく頼んだよ」
「お任せください」
朝倉くんが微笑む。
その表情には、浮ついたところが一切ない。
なるほど。
優秀な朝倉くんを視察対応につけて、支社のイメージを上げようという作戦ね。
悪くない。
誰が見ても、朝倉くんは立派な証券マンだもの。
このときの私は、ただ朝倉くんが頼もしいと思っていた。
まさか、この視察で彼の知らなかった一面を知ることになるなんて、この時の私は思いもしなかった。