テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
二人で職場へと戻る廊下を並んで歩く。
「瞳子さん、李人くんの留学はもうすぐですね」
「そうね……」
李人の名前を出されると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
応援すると決めた。
海外へ行って、自分の夢を追いかける弟を止めるつもりもない。
それでも、ずっと一緒に暮らしてきた弟がいなくなる寂しさまで、簡単に消えるわけではなかった。
そんな私の気持ちを察したのか、朝倉くんがふっと笑う。
「代わりに僕が空いた穴を埋めますから。瞳子さんは何も心配しないでくださいね」
ピカピカの笑顔が眩しい。
弟の代わりなんて簡単にできるものではない。
でも、彼なりに私を元気づけようとしてくれているのが伝わってきた。
「……ありがとう」
戸惑いながら、そう返す。
朝倉くんは満足そうに頷いた。
こういうところは、本当に優しい人だと思う。
私の生活の隙間まで埋めようとしてくれる。
少しだけ、後めたい気持ちが顔をのぞかせる。
(優しいから、好き。それでいいのよね……)
胸の奥にふっと影がよぎった。
そのときだった。
「本当にっ、何なの!」
廊下の向こうから、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
清掃ワゴンを押していた清掃員さんが、怒り心頭といった顔をしている。
朝倉くんがぴたりと足を止めた。
「後藤さん、お疲れ様です。何かあったんですか?」
相手が誰であっても、自然に声をかける。
(さすが成績優秀な営業マン!)
人との距離を縮めるのが、本当にうまい!
「カップルが喧嘩してジュースこぼして、綺麗に拭いてくれって命令してくるのよ? 自分たちでやりなさいよねっ!」
後藤さんは額に青筋を浮かべている。
「それは大変でしたね」
朝倉くんが苦笑する。
廊下の奥には、観葉植物で仕切られた休憩コーナーがある。
そこから、男女の言い争う声が聞こえてきた。
(この声……聞こ覚えがある)
#恋愛
水羽凛
229
#そっちと元サヤ?!
専業プウタ
295
夏目莉央
1,537
朝倉くんと目が合った。
息を顰めて、二人で、こっそり覗いてみる。
そこにいたのは──龍彦と野々宮綾香だった。
「綾香は俺が出世頭だから近づいたのかよっ!」
「彼女がいながらデートに誘ったのは、そっちじゃないの!」
「でも、いきなり結婚はないだろう? もう少し冷静になろう!」
「朝倉くんに恥ずかしいところを見られたら、会社にいられないわ! 上司にも結婚退職するって報告したからね! 責任を取るのが当然でしょっ!」
思いがけず重い話が耳に入り、胸がぐっと苦しくなる。
(関わってはいけない)
私はそっと視線を逸らした。
このまま何も聞かなかったことにして、通り過ぎよう。
そう思った──のに。
隣にいた朝倉くんが、一歩前へ出た。
「え……?」
行動に一切の迷いがない。
彼は2人の前まで歩いていくと、落ち着いた声で言った。
「こぼしたものは、自分たちで片付けたらどうですか?」
「おまえ……っ」
「後藤さんは召使いではありませんよ」
龍彦と野々宮さんが、ぽかんと朝倉くんを見る。
私は思わず息を飲んだ。
(カップルの喧嘩に、そこまで首を突っ込む?)
朝倉くんは一歩も引かない。
むしろ、野々宮さんのほうが気まずそうに視線を泳がせた。
「……しっかり責任はとってもらうからねっ!」
野々宮さんは龍彦にそう言い残し、逃げるようにその場を離れていく。
そして、私の横を通り過ぎる瞬間。
「おばさんはフラれたんだから、もう雨森さんと関わらないでくださいねっ!」
痛いくらいの鋭い視線を向けられた。
まるで私が龍彦に未練を残しているような言い方だ。
(若いって、自分に自信があって羨ましい)
悔しいというより、憐れみを感じてしまう。
私はもう、龍彦に未練なんてない。
そんなことを考えていると、龍彦がポケットに手を入れ、朝倉くんへ近づいていった。
「朝倉、お前が綾香に俺が出世頭だって吹き込んで、焚きつけたらしいな?」
「雨森さんは、同期の中で一番の成績ですよね」
朝倉くんは涼しい顔をしている。
「瞳子さんのおかげですが」
「……っ!」
龍彦の顔が引きつった。
「茶化すなっ!」
声を荒らげ、朝倉くんを睨みつける。
「お前のせいで、綾香に結婚しろって脅迫されてんだぞ! お前が責任とれよ!」
無茶苦茶な理論だった。
体育会系のノリで、いまだに先輩というだけで下の者が従うと思っている。
いつの間にか龍彦は、この会社の変化に取り残された人間になっていた。
そんな龍彦を、朝倉くんは冷静に見つめる。
「野々宮さんとセックスをしたのは雨森さんです」
「なっ……!」
「下心から手を出したあなたの責任です」
「お、おまえっ……!」
あまりにも堂々と言われて、私は思わず耳を塞ぎたくなった。
(もう……やめてよ……)
でも、それ以上に気になることがあった。
龍彦に、こんなところで油を売っている暇があるのだろうか。
「……雨森さん」
「なんだよ」
「株主のフォローは大丈夫なんですか?」
私は、どうしても気になって尋ねてしまった。
けれど、龍彦が反応したのは、仕事の話ではなかった。
「……早速、俺のことは苗字呼びかよ」
キュッと龍彦の目が細くなる。
「よそよそしいもんだな」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!