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第4節 千崎雪絵『この子の前で泣かないために』―4―
「……佳代おばちゃん、起きてるの?」
〝姐さん〟と呼ばれたのは、了道の妻――佳代のことだ。
その名が出るということは、彼女はまだ休んでいないのだろう。
「はい。姐さんはオヤジを置いて休まれたりしませんので」
屋敷の奥から、低く抑えた男たちの声がかすかに聞こえてくる。
雪絵は、もう一度革靴へ視線を落とした。
靴からして、来客はただの使いの者ではないだろう。
恐らくは、了道と対等に言葉を交わせる人物だ。
(……私、何をしているの)
胸の奥が、きゅっと縮む。
こんな時間に、アポもなくいきなり訪ねてくるべきではなかった。
すぐ横で、百香が心配そうに雪絵の顔を見上げてくる。
娘も巻き込んでしまったのだ。
今さらここで引き返すわけにはいかなかった。
佳代が出てきてくれれば、何とかなる気がする。
「……では、お願いします」
そう言って眼前の男に頭を下げたと同時、奥の方から足音がふたつ、近づいてきた。
了道のあとから歩いてきて、玄関先に立ったままの雪絵と百香に視線を投げかけて来た老人に向かって、了道が「……気にすんな。祝いの品、頼んだぞ?」と念押しをして見送る。
気にすんな……は、こんな夜半に了道を訪ねて来た雪絵と百香の存在に対してだろう。
雪絵は、すぐそばで革靴を履いて立ち上がった男に、百香と二人、慌てて頭を下げた。
「すみません、来客中だったのですね」
男が玄関を出たのを見計らって、雪絵は申し訳なさに小声になった。
「構わん。大した用じゃねぇ。それより雪絵、なんかあったのか、百香まで連れて……」
低い声。
雪絵は深く頭を下げた。
「実は……」
口を開きかけた雪絵を制して、了道が百香に声を掛ける。
「なぁ百香よ、プリン、食うか?」
「……うん」
「……よし、じゃあいつまでもそんなトコに突っ立てねぇで、中、入れ」
百香の頭をガシガシ撫でると、了道が雪絵にも視線で上がるように促した。
***
通されたのは、応接間だった。
すぐさま了道の妻・佳代が手作りプリンを二つ持って現れる。
「……いらっしゃい、雪絵ちゃん、百香ちゃん」
柔らかい声。
けれどその目は、すべてを察しているようだった。
「……こんな時間にごめんなさい」
「いいのよ。……話、私にも聞かせて?」
その言葉に、雪絵の喉がわずかに詰まる。
逃げ場は、ない。
だからこそ、ここに来たのだと、自分に言い聞かせる。
「……雄二さんと、別れさせていただきたく思っております」
はっきりと、そう言った。
部屋の空気が、静かに張り詰める。
「……理由は?」
了道が静かな声音でそう問うた瞬間、雪絵の隣でプリンをすくったばかりの百香の手が、一瞬だけピクッと跳ねた。
「百香ちゃん、おばちゃんとあっちでテレビ観ようか」
その様子を察して、自分も話を聞きたいと言ったはずの佳代が、百香を部屋から連れ出してくれようとする。
だけど百香はふるふると首を振った。
「百香も……ママがパパとさよならしたい理由……ちゃんと知りたい」
百香の言葉に、雪絵は一瞬だけ目を伏せた。
「……私が、至らなかったからです」
「……そうか」
それ以上、了道は追及しなかった。
その代わりに、視線が百香へと移る。
百香は、その視線を真正面から受け止めた。
逃げなかった。
そのことに、雪絵は気づいていた。
そのときだった。
「……ママ」
百香が、小さく口を開く。
「……パパ、どうして帰ってこないの? それも、ママのせい? 違うよね?」
雪絵の心臓が、強く打った。
「……お仕事が忙しくて――」
「……違うでしょ?」
遮るように、百香が言う。
その声は、震えていた。
「……パパ、他に女の人いるんじゃないの?」
空気が、凍りついた。
雪絵の視界が、わずかに揺れる。
「……百香、それは――」
自分が認めたせいだと告げようとした瞬間。
「――雪絵」
低い声が、割り込んだ。
了道だった。
視線だけで、制される。
その圧に、雪絵は言葉を失った。
名を呼ばれた瞬間、「そのことは言うな」と言われた気がした。
そうして、雪絵にはその意図が嫌でも分かってしまう。
胸の奥が、ひどく冷える。
これは、指示ではない。
選択を迫られているのだ。
母として、どちらを取るのかを。
百香と、一緒に生きるのか。
それとも――すべてを正直に話して、百香に選択を委ねるのか。
了道は、何も言わない。
けれど、その沈黙が、すべてを物語っていた。
百香は、雪絵の顔を見つめている。
答えを、待っている。
雪絵は、唇を噛んだ。
コメント
2件
ゆきえさん、どうするのかな?
みぅ🤍🥀です。 雪絵さんが「別れさせていただきたく思います」って言い切った時、胸がぎゅっとなったよ…。了道さんの沈黙が「選択を迫る」って描写、すごく重くて切なかった。それに百香ちゃんが「パパ、他に女の人いるんじゃないの?」って震えながら言うところ、子どもながらに全部感じ取ってるんだね…。プリン持って出ようとしてくれた佳代さんの優しさも沁みた。この家族の行方、ちゃんと最後まで見届けたいです🌙