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第二話
「忘れられたものは、だいたい学校に残っている」
朝の光は、夜よりも残酷だ。
眠っている間は曖昧だった不安を、
はっきりと形にして突きつけてくる。
目覚ましの音で目を覚ました瞬間、
僕はまず天井を見た。
白い。
昨日と同じ。
世界は、何も変わっていない。
「……夢じゃないよな」
そう呟いてから、
枕元のスマホを手に取る。
ロック画面。
通知――なし。
昨日の写真も、
あのメッセージも、
消えていない。
ちゃんと、現実だ。
胸の奥が、じわっと重くなる。
朝食を済ませ、
制服に袖を通す。
鏡に映る自分は、
いつも通りの高校二年生。
なのに、
自分だけが一段ズレた場所に立っている
そんな感覚が拭えない。
家を出ると、
夏の匂いが鼻を突いた。
昨日より、少し濃い。
坂道を下り、
駅へ向かう途中。
無意識に、
僕の視線は――
あのバス停へ吸い寄せられた。
誰もいない。
錆びた標識。
色褪せた時刻表。
でも。
「……いた」
白いワンピースが、
確かにそこにあった。
彼女は、
昨日と同じ場所に立っていた。
昨日より、
少しだけはっきりと。
「おはよう、恒一」
名前を呼ばれて、
心臓が跳ねる。
「……おはよう」
返事をしてから、
自分で自分に驚いた。
普通に返している。
まるで、
昔からそうしてきたみたいに。
「来てくれると思ってた」
彼女は、
少しだけ嬉しそうに言った。
「……なんで?」
「だって」
首を傾げて、
当たり前みたいに言う。
「忘れてる人ほど、
一番気になるから」
その言い方が、
妙に胸に刺さる。
「……君は」
言いかけて、止まる。
名前。
聞きたいのに、
聞くのが怖い。
「まだ、思い出せない?」
彼女は、
少しだけ困った顔をした。
「……ごめん」
「いいよ」
即答だった。
「でもね」
一歩、近づく。
距離が詰まるだけで、
空気が変わる。
「今日は、学校で思い出す」
「……学校?」
思わず聞き返す。
「うん」
彼女は、
バス停の標識を指差した。
「忘れられたものってね」
少し間を置いて、
「だいたい、学校に残ってる」
その言葉の意味を、
僕はまだ理解できていなかった。
教室は、
いつも通り騒がしかった。
窓際の席。
差し込む日差し。
扇風機の音。
「おーい恒一!」
後ろから、
元気な声。
「朝から難しい顔すんなよ!
夏休みだぞ?」
春斗が、
いつもの距離感で肩を組んでくる。
「重い」
「心が?」
「物理的に」
「ひでぇ!」
笑い声。
日常。
――なのに。
「……あれ?」
僕は、
自分の机の周りを見回した。
五人で一つの島配置。
僕、春斗、
美咲、
クラスメイト二人。
そのはずなのに。
机が、一つ多い。
「前からあったっけ……?」
思わず呟く。
「ん?」
春斗が首を傾げる。
「何が?」
「この机」
「は?」
春斗は、
きょとんとした顔で言う。
「前からあるだろ?」
「……え?」
「恒一、マジで大丈夫?」
美咲も、
不思議そうにこちらを見る。
「どうしたの?」
「……いや」
でも。
胸の奥が、
ざわざわと騒ぎ始める。
その机の横に――
「ここ、私の席」
彼女が、
立っていた。
白いワンピースの裾が、
机の脚に触れそうで触れない。
「……同じクラス?」
「うん」
少し、誇らしげに笑う。
「ずっとね」
喉が鳴る。
「……じゃあ、なんで誰も」
「覚えてない?」
彼女は、
静かに言った。
「だって、忘れられたから」
当たり前の事実みたいに。
「でも」
机の天板を、
指で軽く叩く。
――音は、しない。
「痕跡は、残る」
その瞬間。
「恒一?」
美咲の声。
「今……誰と話してた?」
心臓が、跳ね上がる。
「……え?」
「一瞬だけ」
美咲は、
僕の横を見る。
「そこ、
誰かいた気がした」
彼女の“勘”が、
確かに世界に触れた。
彼女――忘れられた少女は、
少し驚いた顔をしてから、
小さく息を呑んだ。
「……すごい」
「何が?」
思わず聞く。
「もう、気づかれ始めてる」
それが、
希望なのか、
終わりなのか。
判断できなかった。
昼休み。
屋上。
風が強く、
フェンスが低く唸る。
「……ねえ」
彼女が言う。
「昼休み、ここ好きだった」
「……“だった”? 」
「うん」
曖昧な笑み。
「忘れられる前は」
胸が、
きゅっと締まる。
「……どうすればいい?」
思わず、聞いていた。
「思い出すしかない」
彼女は、
空を見る。
「でも」
少し間を置いて、
「思い出すと、
私はここにいられなくなる」
「……矛盾してるだろ」
「記憶って、そういうもの」
静かに言った。
「完成したら、
“過去”になる」
その言葉が、
胸に刺さる。
だから――
彼女は未完成で、
ここにいる。
放課後。
下校のチャイム。
教室が、
少しずつ空になる。
「恒一」
春斗が、
鞄を担ぎながら言う。
「今日さ、灯台公園行こうぜ」
心臓が、
嫌な音を立てる。
「……どうして?」
「なんとなく」
春斗は笑う。
「夏って、
そういう衝動で動くもんだろ?」
その“なんとなく”が、
やけに怖い。
彼女は、
小さく頷いた。
「行こ」
「……え?」
「そこ、
大事な場所」
声が、少し震えていた。
夕方の灯台公園。
海は、
昨日よりも深い色をしている。
ベンチ。
砂。
遠くの船。
「懐かしー!」
春斗が、
何も知らずに叫ぶ。
「小学生の頃、
よく来たよな!」
その言葉に、
彼女の指が、
わずかに震えた。
「……恒一」
僕を見る。
「思い出さないで」
「……え?」
「まだ」
必死な声。
「ここは、まだ」
その瞬間。
胸の奥で、
何かが、確かに動いた。
懐かしい匂い。
砂の感触。
小さな手の温度。
名前が、
喉の奥まで上がってくる。
でも――
まだ、出ない。
彼女は、
ほっとしたように息を吐いた。
「……よかった」
そして、
少しだけ寂しそうに笑う。
「ねえ、恒一」
「……何?」
「この夏が終わるまでに」
真っ直ぐな目。
「私の名前、
ちゃんと思い出して」
夕焼けが、
彼女の輪郭を溶かす。
その姿が、
あまりにも“夏”で。
胸の奥で、
嫌な予感が、
はっきりと形になった。
――この夏は、
きっと、
取り返しがつかない。
第二話・終
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