旧校舎の取り壊しから数日後。
いつもの音楽室に、三人はそろっていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、埃の粒をきらめかせる。
ピアノの上には藤澤の置いた譜面、若井のギターが壁にもたれかかり、そして大森はノートを広げていた。
あの夜の記憶は、三人の中で鮮烈に残っている。
鏡の世界に囚われ、互いの「弱さ」を暴かれたこと。
偽物にすり替わり、互いを疑いそうになったこと。
それでも最後に、現実へ戻ってこれたこと。
大森は静かにノートにペンを走らせていた。
「……俺さ、わかったんだ」
若井と藤澤が目を向ける。
大森はゆっくりと言葉を選んだ。
「俺は孤独が怖い。誰もいなくなるのが怖くて仕方ない。
でも、その弱さを隠そうとしても、何も変わらない。
だったら、弱さごと歌にすればいいんだって」
ペン先から生まれる文字は、震えながらも確かだった。
“嵐は過ぎる“
“大丈夫なんてことはないよ”
次々と書かれていく言葉は、あの鏡の世界で聞いた声、そして自分の心から零れ落ちた欠片だった。
藤澤がそっと呟く。
「……俺も、あの鏡に言われた。『お前は必要ない』って。
それを聞いて、本当に心が折れそうになった」
彼は鍵盤に指を置き、静かに和音を響かせる。
その音はかすかに揺れていたが、やがて芯を持ち始めた。
「でもさ、俺が必要かどうか決めるのは他人じゃない。
俺の音は……俺が出すんだ」
若井がギターの弦を爪弾いた。
低く力強い音が音楽室を満たす。
「俺も……元貴の背中ばっかり追いかけて、自分がなくなるのが怖かった。
元貴みたいに才能あるわけでもなくて……いつも比べてばっかりだった。
でも結局、俺は俺の音しか鳴らせないんだよな」
彼は照れ臭そうに笑う。
「だから、その音を鳴らす。元貴や涼ちゃんと一緒に」
三人の音が重なる。
ピアノの柔らかい旋律に、ギターの温かい響きが寄り添い、そこに大森の声が乗った。
「フリコに踊らされた街……」
歌い出した瞬間、音楽室の空気が変わった。
不安や葛藤、嫉妬や孤独。
それらすべてが音に変わり、ひとつの旋律へと昇華されていく。
“ああどれが私の音だ
ああこれが僕の音だ
もう嫌だ逃げていたいな
あそこが羨ましいな”
藤澤が目を閉じ、音に身を委ねる。
若井がリズムを刻み、大森の声を支える。
三人の弱さは消えたわけではない。
むしろ、そのまま響き合っていた。
“なんだっていいんだって。
直に嵐は過ぎる
安牌な回答で直に虹が架かる
大丈夫、心配ないよ。
大勢が傷つくだけ”
歌詞は苦みを含みながらも、どこか救いを帯びていた。
ーーそれは「止揚」。
矛盾や葛藤を抱えたまま、それでも次へ進む力。
演奏が終わると、三人はしばし無言で見つめ合った。
窓の外には暮れなずむ空。
赤と紫が溶け合い、歪でありながら美しい色を描いていた。
藤澤がぽつりと笑った。
「……この曲、タイトル決めようよ」
大森はノートを見下ろし、ペンを置いた。
そこには、震える文字でこう記されていた。
——『アウフヘーベン』。
若井が頷き、ギターを抱え直す。
「いいじゃん。俺らにぴったりだ」
藤澤も微笑み、鍵盤を撫でる。
「孤独も、弱さも、全部抱えたままの俺たちに」
大森は二人を見渡し、胸の奥にじんと熱が広がるのを感じた。
孤独も、嫉妬も、不安もある。
けれど、その全部を抱えた三人が、今ここにいる。
音楽室を染める夕陽の中で、三人はもう一度音を重ね始めた。
それは決して完璧ではない。
けれど確かに「生きている」と示す、たったひとつの音だった。
世界は歪んでいて、それでも美しい。
——Aufheben。
END
コメント
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タイトル回収キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! いやぁ…いい話すぎますよ…! 今回もワクワクしながら読ませていただきました✨これからの物語も楽しみにしてます!