七
翌二月十日の早朝、覚醒した神白は瞼を開いた。すると見慣れた寮の天井が目に飛び込んできた。すぐにすうっと起き上がり、当たりを見渡す。
深緑色の床の上に、白色の掛け布団、枕が乗った簡素なシングルベッドがあった。数は、神白の物を含めて四つ。ベッドの上ではフベニールAのチームメイトである同年代の男子が眠っていた。
神白がいるのは、クァンプ・ナウのゲート間近の選手寮である。一室の部屋の広さは七、八m四方ほどで、入り口の対面には壁いっぱいに窓があった。ベッド間には木製の小さなラックがあり、エアコンの下の空間には練習着やタオルが無造作に吊られている。ヴァルサの次代を担いうるエリートの寮とは思えない、質素で無駄のない部屋だった。
ヴァルサの下部組織は、十五歳以上十八歳以下の住居としてクァンプ・ナウ内の選手寮を提供していた。十五歳以下についてはラ・マシアという、クァンプ・ナウ横の敷地にあるレンガ造りの建物に住まわせている。
六時四十五分、部屋のスピーカーからの館内放送でクラシックが流れ始め、まもなくスペイン語による起床の声掛けが開始された。
近くではフベニールAのチームメイトが、次々と身体を起こし始めていた。
「おはよう(Buenos dIas)」神白が軽い調子で挨拶すると、全員からぱらぱらと「おはよう(Buenos dIas)」の返事があった。
ベッドから降りた神白は、シーツと掛け布団を整えた。ベッドメイクは義務だった。
手早く終えた神白は、部屋の入り口近くにある洗面台へと向かった。顔を洗って歯を磨くと、一度ベッドに戻って着替えを始めた。
身支度を終えた神白は、寮の建物から外に出た。ローマのコロッセオのような威容を誇るクァンプ・ナウを背に、コンクリートで舗装されたスタジアム周囲の道を行く。
クァンプ・ナウを取り囲む鉄柵の一角の扉を開き、神白は幅広な石畳の道に出た。左側には高さが五mはある針葉樹が等間隔に生えており、その向こうの広い車道には時折車が走っている。道を越えた所には草地があり、そこにも木々がのびのびと生えていた。町並みには西洋独特の鷹揚さがあり、穏やかな冬晴れの空とあいまって異国情緒を強く感じさせるものだった。
やがて神白の眼前に、石柱に挟まれた鉄製の門が現れた。ラ・マシアの入り口である。
門を抜けて道に沿って歩を進める。両側は広々とした草地で、仁王立ちする像や灌木などが見られた。
ラ・マシアの前に辿り着いた神白は、建物を仰ぎ見る。色は薄茶で高さは十m近く、様々な形のレンガが埋め込まれている。
正面入り口から入った神白は、赤絨毯の廊下を抜けて食堂に入った。食堂の壁は白色で、床は温かみのある木製。天井の丸い電灯群は、穏やかな黄光を投げかけている。
長方形の机が並べられており、それぞれに木の椅子が付いていた。奥には小さな棚があり、その上のスペースには種々の陶器やヴァルサのフラッグが飾られている。モダンながらも伝統を感じさせる食堂だった。
二列並んだ机の左は調理台で、パエリア、パスタなど三十種近くの料理が皿に盛られていた。
神白はチュロス、ベーコンオムレツなどをトングで装って、机へと歩いて行った。既に二十人近くが席に着いており、控えめな声で話しながら食事をしていた。
神白がどこに座ろうか迷っていると、「イツキ!」と背後から弾んだ男の声がした。
振り返ると、青年が清々しい笑顔とともに立っていた。小麦色のミディアム・ロングの髪をヘアバンドでオールバックにしている。顔はやや面長で、眉はすらっと綺麗な感じだった。少し薄めの唇の間からは、清潔感のある歯が覗いていた。瞳は大きくて碧く、神白を見つめる眼差しには親愛の情があった。
レオン・アドリア。カタルーニャ州のタラゴナ出身の十九歳で、ヴァルサのフベニールAのキャプテンである。
レオンの印象は、「剛健で柔靭なアスリート」といったものだ。身長は神白と同程度で、鍛え抜かれた胸板と太腿の筋肉は肉体美という語を連想させた。
全体的なイメージは親切で穏やかな優男といったものだが、瞳の奥には一流の運動選手らしい強固な意志が宿っていた。
二人は空いていた席に向かい合わせで座った。
「新しい一週間の始まりだな。先週は辛い出来事があった。だけど『涙が出てきたら、耐えて、苦しんで、そして前進あるのみだ』だろ? 俺たちにはピカソほどの才覚はないけど、物事に対する態度ぐらいなら模倣することができる。気持ちを切り替えて一歩一歩進んでいこう」
確固たる口振りの日本語でレオンは神白を元気づけた。姿勢はぴしりと背筋の伸びたものである。男前な笑顔には裏が感じられず、真に神白を思いやっているように思えた。
レオンはサッカーを七歳で始めた。十二歳の時にはユースの大会で大活躍し、スカウトの目に留まってヴァルサに入団した。
その後レオンは、破竹の勢いでユースの各カテゴリーを駆け上がった。今期はヴァルサB(トップチームの二軍)でもプレー経験があり、名実ともにフベニールAのエースだった。
また親日家であり、日本語はネイティブ並みのうまさである。
レオンの真摯な励ましの言葉を受けて、神白は胸に暖かいものが広がるのを感じた。
「ありがとう。正直まだ完全に立ち直れてはいないけど、俺は俺のやれることを着実にやっていくよ」
神白はレオンを見つめ返しつつ、心情を吐露した。
満足げに口角を上げると、レオンはカップを持ち、カフェ・コン・レチェ(ミルク入りコーヒー)を一口飲んだ。館内放送のクラシック音楽に交じって、カトラリー同士がぶつかる音が聞こえてくる。
「そういやお婆さんの件は結局どうなった?」神白は静かに尋ねた。先々週に、レオンの母方の祖母は自転車にぶつかられて頭を打ち、大事を取って入院していた。
「検査の結果は異常なし。完全無欠の健康体だよ」
レオンは明朗に即答した。温厚な顔は喜びに満ちている。
「もう七十五だからかなり心配したけど、何事もなくてほんと良かったよ。それで昨日お見舞いに行ってそのことを伝えたら、『レオンがバロンドールを取るまでは私は死ねないんだよ』って頬を撫でられてさ。なんか泣いてしまってな」
しんみりとした調子で呟くと、レオンの碧眼は潤み始めた。
実家からは距離があるため、レオンはクァンプ・ナウ間近の選手寮に住んでいた。よって神白とはしばしば食事などを共にしていた。
「俺の祖父母は四人とも健在でさ。日本に帰るたびに大歓迎してくれて、すごい温かい気持ちになるんだよな。ずっとは一緒にはいられないから悲しませたくないというか。トップチームに上がって大喜びさせてあげたいよな」
神白は真面目に返答し、わずかに俯いた。レオンからも返事は来ず、湿っぽい空気が流れ始める。
「おお! そのイケメンオーラ全開の後ろ姿は紛れもない! 我らフベニールAが誇る絶対的エース、レオン・アドリアじゃないっすか!」
唐突に快活な日本語が耳に飛び込んできた。視線をやると食堂の入り口に、天馬が破顔して立っていた。
レオンはすぐさま立ち上がり、つかつかと天馬へと歩み寄っていく。
「おはよう!」朗らかに声を張り上げると、レオンは右手を頭の高さに掲げた。
ぱん! 二人は右手同士でハイタッチすると、向かい合った。
「ユースケ、君らしくないね。今日は目覚めが少し遅いじゃないか。具合でも悪いのか? まあそうは見えないが」
レオンはおどけた風に問いかけた。微笑を浮かべる横顔はフランクな印象である。
すると天馬は悪巧みをする子供のように力強く笑った。
「作戦を立ててたんすよ! 今日の紅白戦でサブ組から大量得点するためのね! おかげでオレは今、自信とやる気に満ち満ちてるっすよ!」
言葉を切ると、天馬はぐるんと神白に向き直った。大きな瞳には野望を湛えている。
「つーわけで樹センパイ! 今夜の紅白戦はオレとレオンの超絶技巧にきりきり舞いすることになるっすから、そこんとこよろしく!」
「だそうだよ、イツキ。自由奔放なユースケらしい宣言だよね。だけど俺もそろそろBチームには定着したいし、悪いけど容赦はしないよ」
レオンも有無を言わさぬ口調で断言した。口元は微笑で語調も穏やかだが、神白に向ける視線は射貫くように鋭い。
「二人ともずいぶん挑戦的だな。ただ俺にだって意地がある。好きにはさせないよ」
静かに闘志を燃やしつつ、神白は声高に言い放った。レオンと天馬はふっと優しい表情になった。
八
朝食を摂り終えた三人は、生ハムと目玉焼きのボカディーリョ(サンドイッチ)を二つ、食堂の出口で受け取った。
その後、神白はラ・マシアを出て、天馬と共にヴァルサが手配したバスに乗った。二人が通う私立学校に向かうためである。レオンは神白たちと別れて、所属するヴァルセロナ大学行きのバスに乗車していた。
カンテラ所属者は、チームが提携している学校で特別時間割の授業を受ける。サッカーで大成するには人間的にも優れているべきという考えのもとだった。
十五歳で移籍してきた神白は中等教育を済ませた後に、私立学校のバチリェラート(大学進学準備コース)に進学していた。神白は経済学が専攻だった。サッカーが駄目だった場合でも、生活に困窮しないように勉学もしっかりやっていた。
神白は天馬と一緒に授業を受けた。十一時頃の休憩時間には、持参してきていた軽食のボカディーリョを食べた。
神白と天馬はバスに乗り、十四時頃にラ・マシアに戻った。食堂に赴いて、チームメイトの二人と同席して昼食を摂る。
一時間の休憩時間を挟んで、二時間強、ラ・マシア内の小教室にて講師による補習が行われた。神白は英語を勉強した。
補習の後、神白たちは五分ほど歩いてクァンプ・ナウ横の下部組織用の練習グラウンドに辿り着いた。
入り口のフェンスを開き、神白はグラウンドを一望した。丁寧に整備された芝生のサッカー・グラウンドである。全周を囲むフェンスの内側には、低木の茂みがあった。その手前には階段のような簡素な観客席が二段あり、ところどころ席が埋まっていた。
更衣室でチーム支給の練習着に着替えて、神白たちフベニールA所属者二十四人はコート中央で円になった。すぐに一人の壮年の男性が話し始める。
「諸君、今日もこの時間が来た。君たちの人生で最も力を注がねばならない時間が、だ。常々念を押しているが、君たちは多くの者との競争に勝った結果、こうしてヴァルサのフベニールAにいる。決して忘れずに、倦まず弛まず日々精進すること」
力感溢れる口調で男性は熱弁を振るう。抑揚はとにかく大きく、身振り手振りもオーバーなまでに加えられていた。表情は自身に満ちており、演説慣れが窺える。
男性の名はクラウディオ・ゴドイ。四十歳で、一昨年前からフベニールAの監督をしている。
ゴドイはヴァルサのOBで、黄金期のメンバーの一人だった。紛れもないヴァルサのレジェンドであり、神白たちカンテラ生の憧れの的である。
「では始めるように」ゴドイがびしりと締めて、神白たちは動き始めた。