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春の朝は、まだ少しだけ空気が冷たい。
「千愛ー、靴履けた?」
奥の方から響く、桜羽城花恋の優しい声。
「はけたよ、ママ!」
三つ組みをぴょこぴょこ揺らしながら、八森千愛は元気よく振り返った。
靴は左右逆だったけど。
「逆だな」
「逆ね」
「逆だなぁ」
三方向から突っ込まれて、千愛はきょとんと目を丸くする。
「……ほんとだ!」
くすくすと笑い声が広がる。
「ほら、千愛。こっちが右、こっちが左だよ」
しゃがみこんで優しく教えるのは、白銀白亜だった。
千愛は手を添えられて覚束ない手足で履き直す。
履き直し終えた千愛は、少しだけ得意げに胸を張った。
「できた!」
「えらいな」
ぽん、と軽く頭に手を置かれる。
「時間そろそろじゃない?」
躑躅は飴を舐めながら言う。
「弁当も持ったし水筒も入れたし…ハンカチも…あ、ちゃんと入ってるわね」
花恋の確認しなが頷くその様子は、完全に母親そのものだった。
「いってきまーす!」
「待て」
勢いよく扉へ向かおうとした千愛を引き止めたのは汐恩だった。
「…名札」
「あ」
千袋の胸元は空っぽだった。
無言のまま差し出される名札。どこから出したのか分からないあたりがいかにも汐恩らしい。
「ありがと、お兄ちゃん!」
ばあっと笑う千愛に、ほんの一瞬だけ、汐恩の目元が緩んだ。
「いってきます!」
ドアを開けると朝の日差しが差し込んで、千愛と花恋が出て行った。
門の前には、すでに何人かの園児と保護者が集まっていた。
「ちあちゃん、おはよー!」
同じクラスの女の子が駆け寄ってくる。
「おはよー!」
「ねえねえ、どっちがさきにひまわり組につけるかしょうぶしようよ!」
友達の提案に千愛は乗った。
「いいねー!」
「よーい、ドン!」
千愛も友達も負けじと走り出す。
「あ、ちょっと!走らないの!」
花恋はそう促すが、千愛にはその声は届いていないようで、我先にと走って行ってしまった。
「..全くもう…」
花恋は小さく息をついた。
「千愛ちゃん、今日も元気ですね」
幼稚園の先生が出てきて笑う。
「元気なのは良いことなんですけどねえ…怪我だけはしないでほしいです」
花恋は苦笑した。
「ねえねえ、みんなでおえかきしよう!」
千愛が目を輝かせて言う。
「いいねー!」
「ぼくもやるー!」
無邪気な声が連なる。
#まぜあと
坂口灰
1人1人の描く絵は、形も色もばらばらだった。
千愛は、自分の描いたお花畑の絵を見て満足そうに頷いた。
「これね、パパにあげるの」
「えー、なんで一?」
「だってね、パパおしごとがんばってるから!」
「おしごとってなにしてるの?」
その問いに、千愛は少しだけ考えて___
「やさしいおしごとだよ!」
自信満々に言い切った。
「ねえちあちゃん、これなにかいたのー?」
「これはねー、パパ!これがママで、これがねー」
クレヨンを握ったまま、千愛は得意けに指を動かす。
「お兄ちゃんと、つーちゃんと、りゅーくん!」
画用紙いっぱいに描かれたお花畑の中の家族は、どれもこれもにこにこ笑っていた。
「いっぱいだね!」
「うん、みんなだいすきだから!」
その言葉はまっすぐだった。
同じ頃。
八咫守のアジトでは___
「……で?」
静かな声が落ちる。
ソファに深く腰掛けた白亜は、指の上に顎を乗せたまま目線だけを上げた。
向かいに立つ男2人は、額にうっすら汗を浮かべている。
「昨夜、北区の倉庫が荒らされました。薬も、半分ほど….」
「へえ」
声は穏やかだが、空気はぴたりと凍る。
「見張りは?」
「…..気絶して発見されました。命に別状はありませんでした…」
「そう」
それだけの一言なのに、部屋の温度が一段下がったような気がした。
白亜はゆっくりと背もたれに体を預けた。
「相手は?」
「まだ特定は……ただ、足取りからして単独ではなく、組織的な動きかと…」
「ふうん」
興味があるのかないのか分からない声色。
だが次の瞬間、白亜の視線がすっと鋭くなる。
「……うちの倉庫を半分で済ませた?」
「え……?」
報告していた男の喉がひくりと鳴る。
「全部持っていけたはずだ。時間も人員も足りてる」
静かに、淡々と、まるで確認作業のように言葉が続く。
「なのに半分残した。おかしな話だ」
白亜はゆっくりと立ち上がった。
「舐められてるな」
その一言で、空気が変わるのが分かった。
「……汐恩」
「何だ」
いつの間にか、背後の壁際に立っていた。
気配すらなかったのに、そこにいるのが当たり前のように喋り始める。
「痕跡を全部拾って。人でも癖でも匂いでもいいから」
「了解」
短く答えた。
「龍牙」
「おう!」
勢いよく手を上げる声だけは場違いなくらい明るい。
「倉庫の残り、回収しといて。ついでにその周辺も」
「任せとけ!」
「躑躅はどう?」
「もう調べてるよー」
ソファの背に寝転んでスマホをいじりながら飴の棒をくるくる回している。
「防犯カメラ、3つ壊れてた。で、1つだけわざと残してあるみたいだね」
「挑発かな」
「たぶんねー」
「花恋」
「はいはい、分かってるわ」
キッチンから顔だけ出して、ため息まじりに返す。
「残された映像はこっちでも解析してみる。どうせ一筋縄じゃいかないんでしょうから」
「頼む」
短いが、信頼のこもった一言だった。
花恋は肩をすくめて引っ込んだ。
「俺たちにも…」
報告役の男が一歩前に出る。
「何か出来ることは、」
もう1人の男も言う。
「君たちはもういいよ。お疲れ様」
「は、はい…」
「…失礼します」
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……で、どう動くんだ?」
静寂を破ったのは、龍牙だった。
白亜はすぐには答えず、小さな窓を開放し、内ポケットからボックスを取り出す。慣れた手つきで煙草を口に咥え、ライターで煙草に火をつけた。
千愛の前ではケースを見せることすらしないものだ。
「こっちの縄張りの線引きを教えなかったっけ」
空気がひりつくのが分かった。
沈黙が流れる。
「前にも同じことがあったような…まあ、俺らが試されてるのか」
白亜は振り返らずに言い、煙をはく。
龍牙がにやっと笑った。
「なあ、潰していいんだろ?」
「だめ」
即答だった。
「えぇ!?」
「まだ」
白亜は短く言い直す。
「尻尾を掴むまでは遊ばれてあげよう」
「趣味わりぃ〜……」と躑躅がぼそっと呟く。
「で、汐恩」
「もう目星はついてる」
壁にもたれたまま、低い声が返る。
「倉庫周辺、靴跡が3種類だ。うち1つは右足だけ外側に流れてた」
「顔割れる?」
「時間の問題だな」
短い会話だが、それだけで十分すぎるほど状況は進んでいた。
「いいね」
白亜は、ほんの少しだけ笑う。
「じゃあ___見つけたら連れてきて」
「生け捕りか?」
龍牙が聞く。
「うん」
一拍置いて、「話をしたい」と言った。