『新谷………』
低い欲望を含んだ声。
やはり、この音声は、あのときの音声だ。
篠崎は黒く広がる画面と、赤いラインが進んでいく進捗バーを睨んだ。
「俺、篠崎さんのことが、好きだ」
すでに泣いているような新谷の声。
そこに画像が映し出されるわけではないのに、篠崎は思わず目を閉じた。
『……知ってるよ』
衣擦れの音。ベッドがゆっくりと軋む音。
「篠崎さん以外と、こういうこと、したくない……」
新谷の弱々しい声が響く。
『今更?』
牧村の笑いを含んだ声が響く。
シーツの擦れる音。
また衣擦れの音が続く。
チュッと唇の音がする。
右手の指が勝手にマウスを弄り、一時停止ボタンを押そうとする。
ぐっとこらえて、篠崎はまた真っ黒な画面を睨んだ。
何かを舐めるような音と、切ない息遣いが聴こえてくる。
篠崎はいたたまれなくなって、目を激しく擦った。
『一応聞くけど……。お前がネコでいいんだよな?俺はタチもネコもできるけど』
牧村の問いに、新谷は答えなかった。
ただ彼の愛撫に堪えるように荒い息遣いと、泣いているのか、鼻をすする音が繰り返された。
聴いているうちに、だんだんマグマのような黒く重い怒りが湧いてきた。
牧村はこれを篠崎に聞かせてどうしようというのだろうか。
セゾンに来ないかという、自分の誘いを爽やかに断った彼を、見直したばかりだったというのに――。
『あッ…!』
突如、新谷の声が響いた。
何か争うような息遣い、ベッドが軋む音。
『……電源が……落ちてる……!』
新谷の掠れた声が響く。
『……電源、切った?』
新谷の声に続き、暴れるような音。
『……あ……!』
ドンッ!!
激しい衝撃音。
硬いものが硬いものにぶつかったような―――。
『牧村さん……。やめて……!』
新谷の懇願するような声。
ベッドが激しく軋む。
『や……だ……っ!』
『もう遅いって』
牧村の低い声が聞こえてきた。
『心配すんな、新谷。――今頃、篠崎さんも、同じことをあの女にやってるよ』
その直後、新谷の悲鳴が響いた。
◇◇◇◇◇
篠崎は情事のすべてを聞き終わると、【11月28日】のファイルを閉じた。
思った以上に身体と精神に与えたダメージは大きく、髪をかき上げながらため息をついた。
「あいつ。こんなことしなくても。もう俺は新谷を縛り付けたりしねぇのに……」
いい加減に疲れた。
篠崎は立ち上がると、ネクタイを緩めた。
「……あ」
音声ファイルはもう1つあった。
【11月29日】
「………」
篠崎は再度椅子に腰を下ろし、そのファイルをクリックした。
◇◇◇◇◇
『おはよ』
28日のファイルとは打って変わって優しい牧村の声が聞こえる。
『無理すんなって』
ドン。
鈍い音。その後、ベッドが大きく軋んだ。
『お前を抱いたこと、俺は謝らないよ。誘ったのはお前だろ』
牧村が言葉とは比べ物にならないほど弱々しい声色で言った。
『でも携帯の電源を切ったこと。その一点については、全面的に悪かった』
どうやら新谷の電源の入っていなかった携帯電話は、この男の仕業らしい。
今更咎める気もなければ、それによって自分の感情が変わることもないが――。
『やめとけよ。ノンケなんて』
牧村が静かに優しく言う。
『俺は恋とか愛とか、もうしないって決めてるけどさ。お前のことは好きだし可愛いよ。無理に口説く気はないけど、俺は、冷めるとか裏切るとかはないから。お前が望むだけそばにいてやれる』
ぶっきらぼうだが気持ちが伝わる言葉と声で、牧村が言う。
『篠崎とは、別れろよ。……会社に居にくいなら、ミシェルで働くって言う選択肢も……』
『俺……』
黙っていた新谷が口を開いた。
『篠崎さんが、好きなんです』
泣きはらした掠れた声。
『それはわかるけど』
『でも、俺は篠崎さんに、嘘はつけません』
牧村がため息をつく。
『いいよ。全部正直に言って。俺に無理やりヤラれたって言っていいから……』
『無理矢理じゃない。無理矢理なんかじゃなかった』
新谷の声に涙が混ざっていく。
『篠崎さんは、俺をきっと許さない。フラれると思います』
『新谷……』
牧村の声と自分の声が混ざる。
(……もう泣くなよ……)
篠崎はファイルの向こうで泣き続ける新谷に話しかけた。
(……お前が悪いんじゃないんだ)
『それでも、俺は………』
新谷が声を絞り出す。
『俺は………!篠崎さんが好きだ……!これからも、ずっとずっと!振られても、嫌われても、そばにいられなくなっても、会えなくなっても、それは一切変わらない……!』
『新谷……』
『だから、俺は誰とも付き合えません。これからも、ずっと、篠崎さんを想い続けるから……!』
(……………)
篠崎は音声ファイルを切った。
両手で両目を覆い、椅子に凭れかかる。
新谷。違うよ。
お前は俺を想い続けちゃいけない。
それじゃお前は、いつまで経っても、幸せになれないんだ。
篠崎は眼球を握るようにして深く息をついた。
自分は自分なりに努力をしてきたつもりだった。
ゲイである彼が、不安を抱えないように。
自信を無くさないように。
声の限り愛を伝え、許す限り時間をかけて、できる限り不安要素を払拭してきたつもりだった。
――それでも、ダメだった。
根本的に新谷は、篠崎のことを信じられない。
それは、新谷が悪いわけではない。
篠崎が悪いわけでもない。
ただ自分たちには不可能だっただけだ。
心の底から信用させることが。
心の底から信じきることが。
今、あの一夜を乗り越えたとして―――。
必ず2回目の疑惑が来る。
3回目、4回目の不信が来る。
そのたびに新谷は心を痛め、信じられない自分を責め、篠崎に許しを請う。
そんな2人の人生が、幸せであるはずがない。
――お前は俺を想い続けちゃいけない。
お前じゃなくて、俺が、お前を愛し続けるんだよ。
俺が、お前を想い続けるんだよ。
でもお前は――――。
他の奴を選べ。
信頼できる相手と、
今度こそ、幸せになるために――。
あの朝から堪えていた涙が、眼球を掴んだ指の間から漏れて、頬を伝った。
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