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水の底で、名前を思い出す
水は、思っていたより静かだった。
落ちた瞬間の衝撃も、
息が苦しくなる感覚も、
すぐに遠ざかっていった。
ここには、音が少ない。
正しさも、評価も、ない。
「楽だ」
最初に浮かんだ感情は、
それだった。
苦しみから解放された、
というより――
やっと何も考えなくていい場所に来た、
そんな感じだった。
⸻
時間の感覚は、もうない。
上が朝なのか夜なのかも、分からない。
誰にも見られない。
誰にも呼ばれない。
……そう思っていた。
⸻
最初に聞こえたのは、声じゃなかった。
振動だった。
水が、
ほんの少し揺れる。
その揺れが、
胸の奥に触れてくる。
不思議と、嫌じゃなかった。
⸻
名前だった。
はっきり聞こえたわけじゃない。
水越しに、
輪郭だけが残る音。
呼ばれるはずのない場所で、
呼ばれた。
「どうして」
口に出したつもりはなかった。
でも、泡が一つ浮かんだ。
ここに来た理由は、
分かっている。
正しく生きた。
間違えなかった。
誰も困らせなかった。
それでも、壊れた。
だから、沈んだ。
それで、終わりのはずだった。
⸻
「戻ってこい、とは言わない」
また、揺れ。
その言葉は、
引き上げるためのものじゃなかった。
命令でも、説得でもない。
ただ――
存在を認める音だった。
沈んだままでいい。
壊れたままでいい。
それでも、
いなくなったわけじゃない。
そう言われている気がした。
⸻
胸が、少しだけ痛んだ。
痛みがある、ということは、
まだ感覚が残っている、ということだ。
水は優しい。
でも、
何も返してくれない。
声は、違った。
返事を、求めていないくせに、
確かにこちらを向いている。
それが、
どうしようもなく、怖かった。
⸻
「……呼ばないで。」
そう思った。
呼ばれ続けたら、
ここが“終わりの場所”じゃなくなってしまう。
それなのに。
声が来るたび、
胸の奥が、
わずかに温かくなる。
忘れていた感情が、
少しずつ、浮かび上がる。
⸻
上に戻るつもりは、ない。
それでも、
このまま消えるつもりもない。
沈んだまま、
息をする。
名前を、覚えている。
それだけで、
世界は、完全な闇じゃなかった。
⸻
これは、救われた話じゃない。
でも、
呼ばれ続けた話だ。
水の底で、
僕は、今日も存在し続けている。