テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
水の底は、変わらない。
冷たくて、暗くて、
何も求められない場所。
それなのに――
ここに来てから、
“選ぶ”という感覚だけが、戻ってきていた。
おかしな話だ。
上にいたときのほうが、
ずっと自由だったはずなのに。
服も、言葉も、進む道も、
全部自分で決めていた。
でも本当は、
決めているつもりで、選ばされていただけだった。
正しさ。
期待。
役割。
間違えない選択肢しか、
用意されていなかった。
⸻
ここには、何もない。
だから、
選ばなくてもいい。
そのはずだった。
⸻
また、揺れが来る。
あの声だ。
毎回、少しだけ違う。
同じ言葉なのに、
同じ温度じゃない。
焦っている日もあれば、
静かな日もある。
でも共通していることが一つある。
「諦めていない音」
それが、水を通して伝わってくる。
⸻
「……なんで」
泡が、いくつも浮かぶ。
なんで呼ぶんの。
なんで忘れないの。
ここにいると、
もう誰も傷つかない。
期待にも応えなくていい。
失敗もしない。
それなのに――
呼ばれるたび、
胸が、重くなる。
それは苦しさじゃない。
選択肢が増える重さだった。
⸻
戻る、という選択。
完全に消える、という選択。
そして、
もう一つ。
沈んだまま、存在し続けること。
⸻
上に戻ったら、
また正しさが待っている。
完全に消えたら、
この声も届かなくなる。
どちらも、
簡単だった。
だからこそ、
三つ目が一番、怖かった。
中途半端で、
未完成で、
誰にも説明できない生き方。
沈んだまま、
呼ばれ続ける存在。
⸻
「……ずるい」
誰に向けた言葉か、分からない。
助けないくせに、
忘れない。
引き上げないくせに、
名前だけは呼ぶ。
そんなの――
希望みたいじゃないか。
⸻
声が、また来る。
今日は、少し近い。
水の揺れが、
はっきり分かる。
「いむくん。」
名前。
それだけ。
それなのに、
胸の奥が、きつく締まる。
返事をしたら、
何かが始まってしまう。
でも、
何も返さなければ、
いつかこの声は消える。
その未来を想像して、
初めて分かった。
――それは、嫌だ。
⸻
僕は、
深く、息を吸った。
水が肺に入る。
それでも、
意識は途切れなかった。
ゆっくり、
手を動かす。
上に向かうわけでもない。
下に沈むわけでもない。
その場に留まるための動き。
泡が、
一つだけ、浮かび上がる。
⸻
「……ここに、いる」
声にならない声。
でも、確かに“選んだ”。
戻らない。
消えない。
沈んだまま、
呼ばれる存在でいる。
それが、
今の自分にできる、
唯一の選択だった。
⸻
水は、何も言わない。
でも、
揺れが、少しだけ変わった。
遠くの声が、
止まらなかった。
それで、いい。
救われなくてもいい。
完成しなくてもいい。
名前を呼ばれながら、
存在する。
それだけで――
壊れた自分は、
まだ物語の中にいる。
⸻
僕は、水の底で目を閉じる。
終わりじゃない。
でも、始まりとも違う。
選び続けるための場所で、
静かに、息をした。