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明るかった空がみるみる鈍色になり、灰色の厚い雲が立ち込め夕立からの豪雨となった。そうなると金沢駅のバス停は延々の待ち行列、新幹線の運休などでタクシーは入れ食い状態だった。停車する暇もなく次々と客が乗り、観光客を金沢駅に運べばその場所から地元客が乗るといった具合でタクシードライバー間で互いの売上実績を自慢し合う、そんな日だった。
西村の売り上げも23:00の時点で80,000円を超え、1日の稼ぎとしては充分だった。あと3時間、片町から金沢駅の三桁営業(1,000円前後)を繰り返すのも面倒だ。
(今日はもう上がるか)
そう思った矢先、ダースベイダーのテーマが助手席で鳴った。朱音だった。
「朱音ちゃん、今日はもう|上がろう《帰ろう》と思ってたんだわ」
「え、そうなの?」
「ギリギリセーフ」
「良かったぁ」
赤いワンピースの小さな胸を押さえて心からほっとした表情をしている。
前回、予約が重なり西村ではなく加賀営業所のドライバーに配車が回された。その時の朱音の様子は以前と同じで虚な目でぼんやりしていたかと思うとペラペラと喋り出す情緒不安定ぶりで、そのドライバーは運転しながらいつ首を絞められるかとハラハラしたという。
多分に朱音も同様に緊張していたのだろう。
「じゃあさ、朱音ちゃんの勤務日教えてよ」
「え」
「朱音ちゃんの仕事が有る日はこの時間に迎えに来るよ」
「え、嬉しい!」
「でも1日置きだからね、それでも良い?」
「うん」
建前としては彼女の希望に応えたいというスタンスだったが、人間は容易く生きる方に流れてしまうのか、深夜に他社と競い合って三桁営業に血眼になるくらいならば、朱音の勤務日にはさっさと片町の営業を切り上げていつもの牛丼屋で彼女を待てばそれだけで23,000円が手に入る。旨い話だと思った。
「お待たせ」
「本当にお待たせしましただわ、待った待った。待ちました」
「ひどぉい」
落ち合う場所は決まって加賀市賀茂交差点のすき家に24:30、朱音はチーズ牛丼を頬張りながら俺を待っている。時々、思いついた様に一緒に牛丼を食べないかと誘われたが勤務中だからと断ったら料金メーターは回して良いと言うのでお言葉に甘えさせてもらった。
そしてこの《《定期便》》を繰り返すうちに朱音はすっかり西村に心を許したらしく加賀市から金沢市西泉まで送る1時間、感情の激しい起伏は殆ど感じさせなかった。リストカットを繰り返し精神科病院に通院している不安定な子で有るとは到底思えなかった。いや、思えないというよりもすっかり忘れてしまっていた。
《《タクシー乗車客》》としての山下朱音、赤い金魚の朱音。それまでは自分の中ではある程度の|境界線《ボーダーライン》を引いていたつもりだった。
1:15
行灯を消したタクシーが表示板を|回送《運行終了》にして本社車庫に帰って来た。その日は”ハズレ”で繁華街も駅近の飲み屋街も閑散としている。
最後の配車も金沢駅東口(駅前)の割烹居酒屋からの依頼で”一発長距離”かと期待したが最悪な事に金沢駅西口(駅裏)のマンションまでの三桁営業、深夜料金に迎車料金を合わせても2,000円に満たなかった。
「こんなん、やってられるかよ!」
苛々としながらアクセルを踏んで葛折りに近い坂を上がり、白枠に黒文字で112とペイントされた位置にタクシーを停めた。エンジンを切る。薄暗い車庫にキュルキュルと響くみすぼらしい音で本日の営業は終了だ。
2階から見下ろすと、社屋横の平面駐車場で革靴を黒い長靴に履き替え愚痴をこぼしながら洗車をし始めている者も居る。
「おう、太田。お前どうだった?|高崎《店名》の迎えだったんだろ、内灘の医科歯科大学くらいは行けたか?」
「何も、駅西のマンションまでさ」
「あの社長さんかヨォ、近いんだから歩けよってな」
「それな」
売り上げの入った茶色い革のセカンドバッグを抱えてSDカードを抜く、運行管理表のバインダーを手に休憩室に入ったところで忘れ物に気付き、慌てた様子で車庫の階段を上り112号車のドアを開けた。
「あっぶね、コレ忘れるところだったわ」
ケースから抜いたのは乗務員証だった。それは助手席のサイドボード上に掲げられている証明書で、ドライバーの顔写真と名前、乗務員登録者番号が記載されている。
|太田和彦《おおたかずひこ》40歳、西村と年齢も同じならば入社時期も同じ月の”同期採用”、140人中14位をキープしている深夜勤の《《出来る》》面々の1人だ。
太田は前職が陸上自衛隊員らしく屈強な体付きをしている。上背もあり色黒の坊主頭、横に細長い黒縁眼鏡を掛けた強面、にも関わらず細かい事にこだわる性質で他人のその日の実績が気になってしょうがない。
特に同期である西村の動向には過敏に反応していた。
「お疲れ」
「今夜は最悪だったな」
「暇で暇で、売り上げ25,000円だぞ。信じられるか?あ?」
「コレじゃ日勤と変わらねぇよな」
休憩所の長机で、コンビニエンスストアの弁当をかっ喰らいながらギシギシとパイプ椅子を鳴らして米粒を飛ばす北のじーさんは相変わらずガサツで汚らしい。
「太田、飲むか?ん?」
もうすっかり温くなったオレンジジュースのペットボトルが目の前に差し出された。ほれ、早く受け取れよといった口の中で、今まさにトンカツが咀嚼されている。想像するだに悍ましい。
「あ、すんません。あざーす」
北の手からペットボトルを受け取った途端、ぬるりとしたカツ丼弁当の油が太田の指を滑らせた。机の上でオレンジ色の液体がペットボトルの中で波打っている。太田は思わず顔を逸らして制服のジャケットの裾で指先のそれを拭き取った。
ふと辺りを見渡すが西村の姿が見当たらない。街中でも106号車を見掛ける事は無かった。
「西村、戻ってないんすか?」
「あ?西村か。誰か見たヤツいるか?」
「見てねぇなぁ」
すると喫煙室で煙を燻らしていたドライバーが壁に寄り掛かりながら上目遣いで辺りを見回した。
「なぁ、最近の西村の売り上げおかしくねぇ?」
「何が」
「此処んとこずっと60,000円超えてるぜ」
「まじか、気ぃつかんかったわ」
「良い客見つけたんじゃねぇの?」
「|片町《繁華街》以外でか?」
「そういや深夜帯になると106消えるよな」
「確かに、見ねぇなぁ」
弁当を食べ終わり爪楊枝でシーハーと満足げな北が椅子から立ち上がり、それまで拷問を受けていたパイプ椅子はホッとしたが、その座面にはぐちゃりと潰した桃の跡が大きく残った。輪ゴムで空の発泡スチロールの小箱をパチンと止めるとゴミ箱に捨てた。
「コレじゃねぇかなぁ?」
北は意気揚々と胸ポケットから萎びた革の運転免許証入れを取り出し、ピンク色に真っ赤なハートマークが乱れ飛ぶ《《名刺》》をひらひらさせた。
太田は見た事のないそれを怪訝そうな顔で受け取った。
「・・・・金魚?」
「あぁ、山代温泉のデリヘル嬢ちゃんだ。ちょっと頭がコレなんで、誰も配車行きたがらねぇ。西村はそうでもない様だがな」
「営業範囲外じゃないすか」
「太田、お前以外と堅物なんだな」
黒縁眼鏡の表情がみるみる険しくなり、太田はピンクの名刺を握りつぶすとそのまま踵を返して2階への階段に向かった。
「・・・・あ、ちょ。それ・・・俺の!」
その声も虚しく《《金魚の名刺》》は鳶に油揚げの如く太田に持ち|攫《さら》われてしまい、呆然とする北のじーさんは周囲のドライバーからポンと肩を叩かれた。
ガツガツガツガツ
革のポーチの中で三桁営業を嘲笑うかの様に小銭がジャラジャラと音を立てている。今夜は《《誰も彼も》》が”ハズレ”の散々な夜だった。
誰も彼もだ、その筈だ。何がそこまで太田を突き動かすのかは自身でも理解不能だったが階段を蹴り上げるように上った。
”同期入社”で実績順位では常に|14位《太田》と|15位《西村》、正々堂々と競い合うライバルだと持っていた。
(山代温泉への迎え!?営業範囲外だ、加賀のナワバリじゃねぇか!)
事務所のカウンターにはもやしみたいな運行管理者が椅子でうたた寝をしていた。電話の鳴らない配車室に移動するタクシーのGPSを追う音だけがピッピッピッピッと響いている。
「山田、起きろ!」
「・・・は、はい!」
もやしの山田は机の上の銀縁眼鏡を掛けると声の方向に向かって椅子に座り直した。太田の剣幕に気圧される。
「お、お疲れさまです〜、今、上がりですか。アルコール検知お願いします」
太田は持ち帰りの物一式をカウンターの上に投げつけるように置くと、その隣のすりガラスのドアノブに手を掛け、ずいっと事務所内に足を踏み入れた。本来、ドライバーは金銭取り扱いや運行管理表等の重要書類が保管されている為、事務所内への立ち入りは禁止されている。
「ちょ、ちょっと。太田さん!何するんですか〜!駄目ですよ!」
ヒョロヒョロとした腕で山田が制止しようとするが力で敵う筈も無かった。 太田は山田の手を振り払ってパソコンの配車画面を食い入るように見る。
片町、金沢駅周辺、内灘町、かほく市、津幡町、鶴来町、白山市。マウスを動かして灰色の画面を移動させるがGPSは”営業範囲内”の106号車を探し出す事が出来ずにいた。
「・・・・・|8号《国道》」
パソコンの画面上に太く表示される幹線道路を右に右にとマウスを進める。野々市市、松任市、美川町その先は”手取川”に架かる”手取川大橋”営業範囲外の小松市、辰口町、加賀市。
(・・・・・西村、お前)
パソコンの配車画面には丁度、”手取川大橋”を渡り切った106号車が赤く塗りつぶされた状態で金沢市に向かって走行していた。赤、実車、《《誰か》》客を乗せている。
「山田、お前106号車に加賀市への配車依頼したか?」
「えっ。まさか、加賀営業所の管轄じゃないですか〜、そんなルール違反、僕しませんよ〜」
太田は右手の中でくしゃくしゃになったピンクの名刺を広げて見た。そこには金魚と源氏名が印刷されていた。