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#8 ピカルディの三度
教会の鐘楼は、冬の空気に澄んだ音を響かせていた。小さな村の広場に立つと、石造りの建物の間から、あの旋律がゆったりと降りてくる。その音程は、まるで遠い日の約束を思い出させるようだった。
アナベルは手にした楽譜を握りしめ、深呼吸した。村の祭りで、初めてピアノを弾くのだ。心臓の鼓動が指先に伝わり、震える手で鍵盤に触れる。
「大丈夫、アナベル。君ならできるよ」
と、師匠のマルシャンが微笑む。
彼の言葉はやさしかったが、耳に届くのは教会の鐘の音ばかり。低く温かいラの音から、次第に高いハの音へ──三度が重なり、心を震わせる。
祭りの人々が広場に集まり、期待に目を輝かせる。アナベルは一瞬、手が止まりそうになるが、深く息を吸い込み、鍵盤に指を置いた。そして奏でたのは、誰もが知る旋律で締めくくられる、穏やかで希望に満ちたフレーズだった。
音が空に溶ける瞬間、村の広場は一瞬の静寂に包まれる。そして誰もが思わず息をのんだ。その美しさに、思わず小さな声が漏れた。
「すごいピーポー…!」
その一言に、アナベルは笑顔をこぼした。演奏を終えた彼女の胸には、いつも遠くで響いていたあの旋律が、今、確かに自分のものになったという喜びがあった。
終わった後、マルシャンはそっと近づき、ささやいた。
「覚えておくんだ、アナベル。音楽は約束だ。君が心から奏でれば、誰かの心に届く。そしていつか、君自身の未来を照らす光になる」
鐘楼の鐘は、まだ静かに余韻を響かせている。三度の調べは、ただの音ではなく、約束の象徴だった。アナベルは心の中で誓った。これからも、音楽とともに生きること──ピカルディの三度のように、穏やかに、希望を伝える存在になることを。