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夜の警察署は,ほぼ無人だった。
照明は落とされ,フロアの端だけが淡く灯っている。
私は立ったまま,ロッカーに書類をしまっていた。
「……まだ帰らへんの?」
すぐ後ろ。
振り向かなくても分かる。
「中野」
「この時間で名前呼ばれるの,ちょっと嬉しいんやけど」
「気持ち悪い」
「ひど」
そう言いながら,距離を詰めてくる。
「なぁ」
「何」
「恵ってさ」
一拍。
「俺のこと,安全圏やと思ってるやろ」
「思ってない」
「即答は怪しい」
中野はロッカーの扉に手をつく。
私の肩の横。
完全に逃げ道が塞がれる。
「……中野」
「下がる?」
「下がれ」
「嫌」
即答。
「理由は?」
「今の顔,見せたくないから」
「意味が分からない」
「分かってるくせに」
視線が絡む。
近すぎて,息の温度まで分かる。
「なぁ恵」
低い声。
「ここで触れたら,どうなると思う?」
「投げる」
「せやな」
少し笑う。
「でも今」
一拍。
「触れてへんのに,その反応はアウトやろ」
「……反応してない」
「してる」
中野は,私の手首のすぐ横に指を置く。
触れない。
でも,逃げられない距離。
「そのまま睨むのやめ」
「何で」
「キスしたくなるから」
「……!」
「冗談」
すぐに言う。
でも,目は冗談じゃない。
「顔良くなかったら,今ので即終わってる」
「自覚あるなら言わないで」
「恵が一番分かってるやろ」
中野は,さらに顔を近づける。
唇まで,数センチ。
「ここで止まってる俺,褒めてほしいわ」
「誰が」
「せやんな」
ふっと距離を取る。
「でもな」
振り返りざまに。
「この距離,覚えとき」
「何で」
「次は」
一拍。
「逃げ場作らん」
私は言葉を失う。
中野は背中越しに手を振った。
「おやすみ,恵」
静かになったフロアで,
心臓の音だけが,やけに大きかった。
……完全に。
顔が良くなかったら,即逮捕。
それでも一線を越えないのが,
一番タチが悪い。