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時刻は朝の五時。日はまだ昇っていない頃、私は新藤さんの家からタクシーで自宅へ帰った。
送ってくれると言ってくれたけれど、万が一自宅近所の誰かに見られたりしたら、それこそ一瞬で地獄行きになってしまう。どのみち地獄へ堕ちるとは思うけれど、もう少しだけ新藤さんと一緒にいたい。
秘密の恋を誰にも見せずに守りたい。
本当は新藤さんのことを博人(はくと)と呼びたいけれど、迂闊に口に出してしまう恐れもあるため、今まで通り二人きりの時以外は新藤さんと呼ぶことに決めた。
彼の部屋を出る前、何度もキスを交わした。離れたくない。ずっとこの腕の中にいたい――胸を焦がすような焦れた恋は、今まで一度も経験したことが無かった。
狂おしい程に心の中が燃え上がる。
ただ、新藤さんとのことを光貴に悟られたりしないように、絶対に、上手く隠し通さなきゃいけない。
私は自宅前に立って深呼吸をした。
立派で大きな家を見据えた。本当だったらなんの悩みもなく、刹那な愛を知ることもなく、詩音と光貴と共に暮らしていたのだろう。
でも、そんな未来はもうない。不運が重なって失ってしまった。
唇を噛みしめて息を吐き出した。三月終わりの早朝の時間は寒い。指先があっと言う間に冷たくなっていく。
家に入るのを躊躇ったけれど、玄関先で立ち尽くせないので電子ロックを解除して自宅へ入った。
玄関に入ったら灯りが点いていた。ギターを抱えたまま階段付近に蹲るようにして座っている光貴が目に入った。
「あ、帰ったか……?」
私の気配に気が付いた光貴が私に向かって駆け寄ってくれた。ぎゅっと強く抱きしめられて「お帰り」と言われた。
「本当にごめん。無神経なことを言ってしまったと思って……いちばんに謝りたかった」
光貴の声が震えていた。
「傷つけたりするつもりはなくて……ただ、元気を出して欲しかったから……僕、サファイアのことでいっぱいいっぱいになっててさ……病室でそんなに辛い思いをしていたとか、体調のこととか、なにも気にかけてやれてなかったなって……反省してた。本当にごめん!! 許して欲しい」
止めてよ光貴。
「よく帰ってきてくれた。ありがとう。待ってたんや」
私のこと、一晩中待っていてくれたなんて。
「佐知さんといっぱい飲んだから、疲れたやろ。今日はゆっくり休み。お風呂沸いてるから入っておいで」
光貴の優しい言葉に、涙が止まらなくなってしまった。
昨日、さっちゃんと飲んだのは、半分本当で半分嘘になってしまった。
ごめん。
ごめんね、光貴。
私、最低なことをした。大事な光貴を裏切ってしまった――
きちんと向き合わずに辛いことから逃げ出してしまった私が一番悪い。
どんなに傷つけ合ってでも、もっと早くに想いを伝えるべきだったのに、それを放棄して怠ってしまった。じゃないと心が壊れそうだったから。
彼が玄関先で私を待っている間、私は、新藤さんと……。
人生を添い遂げることを誓い合ったあなたに背を向け、別の男性と戯れた裏切り者の私。
でも、もう戻れない。
十六年も前から好きだったひとと一夜を共にしてしまい、狂おしい程の愛を知ってしまった私は、もう、光貴と同じ未来を歩んでいくことはできない。
だって、気づいてしまった。
光貴のことは好きだけれど、それは家族とか親友みたいな、そんな風に大切に想う『家族愛』だったということに。
新藤さん――博人を愛する身を焦がすような気持ちとは別物なのだ、と。