ユカリ達は泥濘族の素朴な集落に再び歓迎されることとなった。
彼らの誰もがユカリたちと再び初めて出会った。昨夜のことどころか、ユカリたちのことも隊商のことも覚えていなかった。あの宴もバダロットの襲撃も何もかもを覚えていなかった。まるでそのような出来事は初めからなかったかのように。
そこら中に飛び散っている昨夜の惨劇を伝られるはずの血を彼らは不思議そうに掃除するのだった。家畜を狼か何かに襲われたのだろうか、と懸念するにとどまった。そうであったとしても大変な事態には違いないだろうに、彼らは疑問を飲み込み、傾げた首を正して生活に戻っていく。余りにも不自然な光景だ、とユカリは思った。
ユカリもパディアもビゼも再び昨夜の出来事をお互いに話し合い、そこに齟齬がないことを確認した。確かにバダロットが屍の軍団を率いてこの集落にやって来て、ユカリが賊の長を捕えた。にもかかわらず泥濘族の戦士たちは奮起し、結局屍の盗賊たちに蹂躙された。そして盗賊王の下僕たちは集落に雪崩れ込んだのだと言う。
趨勢が決まった時、もはやパディアとビゼだけではどうにもできないと悟り、ユカリを見つけていたパディアをビゼが見つけ、共に魔術で隠れたのだった。
確かに丘の向こうの村から怒りに猛る叫び声や怨嗟の悲鳴を聞いた、とパディアとビゼは語る。しかしその丘があったために、集落が襲われる姿を確かに見たわけではなかった。かといって盗賊たちが村に雪崩込み、泥濘族と共に各々好き好きに叫び声をあげてそのまま帰った、などと考えるのも馬鹿々々しい。
三人は広場に据えられた赤い岩を彫り刻んだ長椅子に座る。まだ朝早いのに、この季節の太陽はすでに岩の長椅子を温めていた。
ユカリたちは変わることのない人々の幸福と労苦に満ちた生活を眺めた。痩せた家畜とひ弱な畑の世話に追われ、星釉の材料調達や水場に出かける。大人も子供も働いて、遊んで、笑っている。
「夢か幻なんでしょうか」とふとユカリは呟く。
ビゼが答える。「その可能性も捨てきれないね。いや、今の段階ではありとあらゆる可能性が混在しているよ」
これが可能な魔法はどれくらいあるのだろうか、とユカリは考える。それこそありとあらゆる魔法があるのだろう。
「それにバダロットじゃなかったんですね。この気配は」
ユカリはパディアとビゼの顔をそれぞれ見る。
「魔導書のこと?」とパディアは確認する。
頷くユカリにビゼも同意する。「確かにこの状況が魔導書によるものだとしたら、バダロットたちには何の益もないはずだ。この村に魔導書の力を使っている者がいると考えるべきだろうね」
ユカリもパディアもその言葉に頷く。
「つまりこういう事ね」とパディアが確認する。「バダロットは集落を襲って、殺しても復活するこの集落に魔導書があるのだと考え、昨夜も襲った。これが何度目かは分からないけど、昨夜も見つけられず去っていった、と」
ユカリも初めは同じように考えていた。しかし首を横に振る。
「だけど、それなら集落を燃やすはずでは?」ユカリは怖ろしい想像にも臆さず、疑念を口にする。「魔導書を探すときに最も残虐で手っ取り早い方法です。バダロットが知らないわけがありませんし、その手段を選ばない慈悲を持ち合わせているとも思えません」
「確かにそれについては説明がつかないね」と言ってビゼは目を瞑り、唸りながら考える。「いや、おかしな状況にどう整合性をつけるかと考えるべきではないな。それはいつだって誤りの始まりだ。僕らの知らないことがまだあるんだろう。それに、彼はもう死んだ」
ユカリの胸がちくりと痛む。何もない地面を見つめる。ビゼはユカリの心境を察した様子だった。
「すまない。ユカリさん。中々割り切れるものではないかもしれないけど、何度目か分からない繰り返しが断ち切られたんだ。君がこの集落を救ったのかもしれないんだ。あまり気に病まない方が良い」
「ありがとうございます」と言ってユカリは集落を眺め、ビゼの方に視線を戻す。「何とか、切り替えます」
ビゼは頷き、語調を変えた。
「とにかく、だ。魔導書を探すしかない。ユカリさん。心当たりはあるかい?」
うーんと考えるふりをするが、心当たりは一つしかなかった。
「ユーア」とユカリは呟く。
「どうして?」と言うビゼはさほど驚いていない様子だった。
パディアは目を丸くするが何も言わなかった。
「今朝、丘の上に現れたことに説明がつきません。ただ現れただけ。他の泥濘族のみんなはいつもの仕事をしているという風だけど。彼女だけ生活の輪から外れている気がします」
それを受けてビゼは答える。「余所者だからゆえにかもしれない」
ユカリも同意する。確信があるわけではない。彼女だけが引っかかるということでしかない。
「確か彼女は喋ることができないんだね?」ビゼはユカリに確認する。「であれば観察するしかないね。まさか目の前で魔導書を使い始めるとも思えないが、力づくで奪うなんてこともできないだろう?」
ユカリは静かに頷く。広場の端の方でただ一人、人形を揺らして口笛を吹いているユーアを見ながら、ユカリは涙ぐむ。この集落が魔導書で維持されているのだとすれば、それをユーアが一人でやっているのだとすれば、その小さな胸の中には想像も及ばない思いが言葉として吐き出されることなく渦巻いているのかもしれない。
「死者を蘇生する魔法はあるんでしょうか?」とユカリはどちらにともなく呟いた。
物語の中では英雄が蘇ったり、死の世界から帰ってきたり、という話はありふれている。
でも物語だ。義母が帰ってくることはない。
それに対してビゼが答える。「蘇生をどう考えるかだね。屍使いのあの魔法だって死者蘇生と言える。生前の精神が戻ってくるわけではないが、肉体は確かに動いている。肉体が再生したら蘇生なのか。精神が取り戻されれば再生なのか。記憶はどうか、魂はあるのか。答えは出てない」
「記憶?」とユカリは呟き、ビゼと目を合わせる。「それが命と関係があるんですか?」
「大いにね」と言って、ビゼは座り直し、ユカリの方に体を向ける。「例えば、ある死者の記憶以外の全てが元に戻ったとしよう。命も心もだよ。そうすると、その人の心は赤ん坊にまで戻っているわけだろう? 何せ人生経験の全てを失っているんだ。そんな人を、その人が実際に経験したものとは違う環境で育てれば、まるで別人になるんじゃないかな。全く同じ人格になるとは考えにくい。それを復活と見なすかどうかはまた意見が分かれると思うし、検証できない無意味な仮定かもしれないが」
ユカリは少しずつ噛み砕くようにして理解する。
「なるほど。たとえば、この村の人々が記憶まで元通りになっているかは私たちには分かりませんね。本当に自分の記憶に従っているのか。少なくとも私たちのことは忘れているようですし」
「いい着眼点だ」と言ってビゼは掌を広げて村を指し示す。「僕たちは今、この村のいつもの朝の風景を眺めているのだ、と考えてしまっていた。しかしそうとも限らない。この村のいつもの朝の風景なんて僕たちは見たことがないんだからね」
これがいつもの朝の風景だとすればユーアはいつも朝から独りぼっちなのだろうか、と考える。昨日、泥濘族の子供と話した限りでは、他の子供たちと遊ぶこともあるようだった。それに眺める限り、幼い者には幼い者なりの仕事をしている。いくら余所者だったとはいえ、このような貧しい土地で働かないことを許すとも思えない。それほどに余所者を疎んでいるとすれば、そもそもこのようにユーアを受け入れることもないだろう。
ユカリは勢い込んで立ち上がる。ユーアと話したくて仕方がなかった。会話はできなくてもそばにいたくて仕方がなくなった。パディアもビゼも何も言わずにユカリを見送る。
「ユーア」とユカリは言って、しかし次の言葉は思いつかなかった。
それ以上何も言わずに隣に座る。寂しげな口笛は止んだが、人形はユーアの手に掴まれて踊っている。
「ユーアはその子のことが好きなの?」とユカリは尋ねる。ユーアの横顔を覗き込むようにして。
ユーアの瞳は鳥のような黄色の嘴の少女に注がれているが、ゆっくりと首を縦に振った。ユカリの胸が躍った。これだって会話だ。嬉しい気持ちが言葉になって溢れてくる。
「大切な友達なんだ。その子もきっとユーアのことが大好きなんだろうね。私、ユーアのことをもっと知りたい。私と友達になってくれる?」
ユーアは人形に顔を埋めて、ゆっくりと首を横に振った。ユカリはユーアの耳が真っ赤になっていることに気づく。
「そう。でも私はユーアと仲良くなりたい。駄目?」
今度もまたユーアは首を横に振った。基準がいまいち分からなかったが、完全に拒絶されたわけではないようだった。
それから色々なことを話した。ユカリの方から一方的にではあるが、ユーアのことを多く知ることができた。
嘴少女の人形が好き。菓子が好き。毛布が好き。子犬が好き。花が好き。
馬のいななきが怖い。爆ぜる火が怖い。月のない夜が怖い。
何の変哲もない普通の子供だ。
神々を戴く市と同様に、荒野の集落においても長く平和な一日が過ぎ、想像の果ての土地から流れ出てきた薄闇が垂れ込め始める。北の森林が深い溜息をつき、その息吹が荒野の乾いた砂を巻き上げた。廃れた大地に息づく魔は未だ微睡みに浸っているが、邪なる人間は太陽の眼差しの届かない塒を這い出て活動を始める。
火灯し頃になって、ようやく話すことの無くなったユカリは一息ついた。気が付けば自分の半生を語ってしまっていた。さすがに前世の話はしなかったが。ユーアは隣に座ったまま、どこにいくこともなく、時折頷き、時折微笑んでいた。ビゼとパディアは昼前には魔導書を探すついでに何か仕事はないかとどこかへ行ってしまい、昼頃に色々な食べ物を持ってきてユーアと四人で一緒に食べると、またどこかへ行ってしまった。さすがにユカリもずっと喋っているだけの一日に罪悪感を感じてしまった。
グリュエーに話しかけると、また昨夜と同じようにこの村の子供たちと遊んでいたようだった。いつの間にかパディアが現れ、いつの間にかユーアがいなくなった。
「私たちを歓迎する宴を開いてくれるらしいわ」とパディアが困った様子で言う。
「また?」と思わずユカリの口からついて出たが、彼らは昨日のことを覚えていない。今日初めてユカリたちと出会い、一日の終わりに歓迎してくれる。無下に断るわけにもいかない。
「このままじゃ、魔導書を手に入れて立ち去るまで毎日宴ですね」
「それは、悪くないわね」とパディアは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「良くないですよ」
パディアは酒のことを考えているのだとユカリには分かった。
パディアは大きな手でユカリの頭を撫でた。義母の手にも義父《ルドガン》の手にも似ていた。
「ビゼ様と一緒に泥濘族に話を聞いて回ったんだけど、やっぱり誰も魔導書なんて知らなかったわね。知ってたとして、それを明かすかは甚だ疑問だけど。そもそも魔導書というものについて知っている人が少なかったわ」
「正直に聞いて回ったんですか? もしも魔導書を持っているのがユーアじゃなかったら、その誰かを警戒させることになりませんか?」
「なるでしょうね」とパディアは何の悪びれもなく肯定した。「それでボロが出るかもしれないわ。何にせよ、ある程度当たりをつけて行動しないことには何も変化しないもの。ユーアが魔導書を持っているのなら、私たちの行動で何か影響を与えられればいいんだけど。今日一日どうだった?」
「いっぱい話しましたよ」とユカリは答える。
驚いた様子でパディアは言う。「あの子、口が利けたの?」
ユカリは首を横に振る。
「違います。私が一方的にずっと話してました。でもユーアは首を縦に横に振ってくれました。会話としては十分ですよね?」
「そうね」とパディアは優しく答えたが、次には冷徹に尋ねる。「それで何か有力な情報は得られた?」
うーん、と言ってユカリは唇を尖らせて考える。
「人形がとっても好きみたいですね」
「見たらわかるわ。有名な人形よ。あれ」
「そうなんですか? 知らないです。どういう人形なんですか?」
「たしかクチバシちゃんっていう名前よ。同名の人形劇の主人公ね。あらすじは……あまり覚えてないけど。確かどこか遠い国を目指して旅をする話だったわ」
ユカリは有明月のような笑みを見せる。
「パディアさん。ありがとう」
ユカリは居ても立っても居られなくなった。もっとユーアと話したい気持ちが膨れ上がった。
ユーアは昨夜と同じく、篝火の多い広場から少し離れた薄暗い軒先の長椅子に座っていた。同じように人形で遊び、夜闇に溶ける口笛を吹いていた。しかし今夜吹いているのは昨夜ユカリが教えた『羊の川』だった。ユカリの中にどろどろと溶けて渦巻いていた疑念が凝結し、氷のように確信へと変じる。
ユーアだけ昨日の記憶がある。彼女が魔導書を行使したのだと思って間違いない。
ユカリはユーアの前に立って尋ねた。「ユーア。その人形の名前知ってる?」
ユカリの影に隠れ、ユーアの肌に施された星釉の煌めきが失われる。ユーアは向かい合うのが居心地悪いのか、座ったまま体を横に向けて、恥ずかしそうに頷く。
「そっか。知ってたんだね。クチバシちゃんっていうんだってね」
ユーアは頷く。広場の別の端で子供たちとグリュエーと篝火の火の粉が遊んでいる。
「ユーアは魔導書って知ってる?」
ユーアは首を振って否定する。
人々がぞくぞくと集まる。今夜も再び、宴が始まった。古くから集落の夜を見守ってきた焚火台に火が熾される。また同様に古くから集落の外に目を光らせていた篝火台も鋭い眼光の如く炎を輝かせる。美味しそうな匂いが漂い、楽し気な音楽が奏でられる。口笛が止む。
「ユーア。クチバシちゃんを少し貸してくれない?」
ユーアはぎゅっとクチバシちゃんを抱きしめて、拒否を示した。
「少しだけでいいの。少し調べれば直ぐに返すから」
ユーアの意志は固かった。ユカリとて無理強いするつもりはなかったが。
そして今夜も再び、荒野を走る馬の蹄の音が聞こえてくる。丘の上に五十人ほどの人影があり、青毛の馬が集落へと走ってくる。
ユカリはため息をつく。思いもよらなかったと言えば嘘になる。盗賊の軍勢の中にバダロット以外の生者、屍使いがいたとしても何もおかしくはない。
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