「律さん。どうされましたか?」
こわばった私を新藤さんが不審に思って聞いてくれた。
「あ、あの……」
言葉がでなかった。詩音の胎動のことが思い出せない。
今まで忙しくて詩音を気に掛けることを忘れていた。
いつもあんなに元気だったのに。どうして今、動いていないの?
どうだった?
最後に鼓動はいつ感じた?
朝は?
昼は?
思い出そうにも記憶になかった。
どうして私、なにも覚えてないの――……
「なにか心配事でもあるのですか? もしかしてお腹になにかありましたか!?」
私の異変に気付いてくれた新藤さんの声が荒くなった。
「あの、今、お腹が少しチクっとして……それで…………そういえば今日、この子の鼓動をちゃんと確認して聞いたかなって…………忙しかったので覚えが無くて…………そう思ったら急に不安になりました」
「病院へ行きましょう!」
「あ…でも……」
「お腹の子に何かあったらどうするのですか!」新藤さんが遂に大声を張り上げた。「取り越し苦労ならそれでいいのです! 病院まで送りますからっ。早く準備を!!」
「はっ、はいっ」
新藤さんのあまりの剣幕に不安が一気に煽られた。
どうしよう。どうして私、ちゃんと詩音のことを気にかけなかったんだろう。
マイホームが出来たからって、浮かれて大事な詩音の事、そっちのけになっていた。
ボロボロと涙が零れた。
どうしよう。詩音にもし何かあったらどうしよう……。
「律さん、泣いている場合ではありませんよ。先ずは病院へ連絡を。受付時間外でも緊急だと伝えて診てもらいましょう。車を回して来ます。さあ早く」
新藤さんに言われた通り病院に連絡を入れた。数コールのあと、いつも私を担当してくれる看護師の二階堂(にかいどう)さんの声が聞こえてきた。こちらの様子を伝えたら、待っているから来てくださいと言ってくれた。
電話を切って母子手帳と財布と保険証、スマホに印鑑なんかを手近なハンドバッグに放り込んで外に出た。玄関先には既に新藤さんの高級車が停められていて、早く乗って下さいと急かされた。
社用車ではなく愛車できていたということは、彼は今日仕事が休みだったに違いない。
変だと思った。他にも担当している仕事があるはずなのに、荒井家にだけ時間を割くことはできない。家の引き渡しが終わったら監督と同じように退散するはず。
それなのに私と一緒にいてくれて、色々手伝ってくれた。臨月で思うように荷物も運べないし、一階から三階へ複数往復しないといけないから、業者への対応は新藤さんが引き受けてくれたのだ。
光貴が家にいないことを見越してくれたのだろう。
こんなに遅い時間まで私のために。
今も的確に指示してくれる。私一人だったら、オロオロして泣くしかできなかっただろう。
「律さん、前にお話ししたでしょう」
助手席へ乗り込み俯いて涙を堪えている私に新藤さんが話しかけてきた。
「妹が同じ状態だったのです。大丈夫と言いながら無理をする。だから母体にも影響が出るのです。律さん、光貴さんにきちんと話をしておられますか? 光貴さんのメジャーデビューがかかっている大切な時だとはいえ、律さんだって出産という大きな舞台を控えたアーティストです。それなのに光貴さんは、今日も律さんを置いて行かれてしまった。行くなら行くで、もう少しフォローをするべきです。大変な引っ越し作業や梱包作業、妊婦の律さんがお一人でされたのでしょう? 段ボールの箱の書き込み、全て貴女の達筆で綺麗な字でした。今日もいつ子供が産まれるかもわからないのに配慮が足りなさすぎます。律さんやお子さんになにかあったら、どうするおつもりなのでしょうか。ご家族も来ていただけないようですし」
「すみません……。家族も来てくれる予定だったのですが、インフルエンザにかかってしまったり、予定が合わなかったので断念したのです。出産予定日は明日ですけどまだ産まれないと聞いていましたし、こんなことになるとは思いもよらなくて……」
「申しわけありません。律さんを責めている訳ではないのです。ただ、私だったらきちんとフォローをするか伴侶の傍にいます。自分の夢も大切ですが、家族以外に大切なものはこの世にありません。いなくなってからでは遅いのです」
新藤さんは妹さんを亡くされているから、辛い気持ちや私の僅かな異変に気が付いてくれたのだろう。
経験した人にしかわからない重圧のようなものを感じた。
「とにかく急ぎましょう」
青信号になった途端、新藤さんはグッとアクセルを踏み込んだ。
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