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「蓮君、随分ご機嫌なんだね。シャワー室で何かいいことあった?」
念のためにと準備していた着替えに袖を通し、すっかり濡れてしまった服をカバンに突っ込んで稽古場にしているスタジオに戻ると、練習中だった雪之丞に開口一番そう言われた。
「あー……うん。凄く可愛いネコがいてね」
「猫? スタジオ内に猫が居るなんて……誰かのペットかなぁ?」
「違うんじゃないかな? 首輪してなかったし」
不思議そうに小首を傾げる雪之丞に曖昧に笑いながら蓮はシレっと嘘を吐く。
「野良か。俺も触りたかったなー」
「……もうすぐ会えるよ。嫌でも」
ぼそりと呟いた言葉は雪之丞には届いていないらしい。
「何か言った?」
と、尋ねられ慌てて首を振る。
「なんでもないよ。それより、この後の予定は――」
出来ればもうさっさと帰ってしまいたい。これが終わったらあの子と……めくるめく妄想に思いを馳せていると、凛が二人を呼び寄せる声が聞こえて来る。
「え、ボクも?」
「そうだ。早く来い」
一体なんだというのだろう? 後半は雪之丞と手合わせしろとか言うつもりだろうか?
二人は顔を見合わせ、仕方なく彼の下へと足を向けた。
「蓮、そして棗には今から海まで行って、殺陣をやってもらう」
「「……はい!?」」
「―――ち、ちょっと待って兄さん! もう一回言って貰える!?」
「だから、今からお前ら二人には海に行ってもらうと言ったんだ」
突拍子もない事を言われ、思わず聞き返すと、目の前の男は至極真面目な顔をしてもう一度同じ台詞を繰り返した。
「いやいや、意味わかんないんだけど。どうして急に海になんか……っ。それに今からなんて……雪之丞と手合わせするなら別にここでもいいんじゃ……」
「午前中と同じことをしたって意味が無いからな。次はスーツを実際に着用してより実践的な動きを思い出してもらう。その為の移動だ。もちろん私も同行する」
淡々と説明をする凛に困惑の表情を隠せない。
せっかく終わったらあの子と甘いひと時を過ごせると思っていたのに……。
しかし、凛は有無を言わさないといった態度で早く支度しろと促してくるばかりだ。
「行くならもっと早く言ってよ……」
「ハハッ、凛さんの無茶ぶりは日常茶飯事だよ」
「……嘘……」
知らなかった。自分の兄は普段からこんなに強引なのか。蓮は項垂れながら深い溜め息を吐き出した。
せっかく彼と色々出来ると思ったのに。海に行くなら午前中からでも良かったじゃないか……。
海に向かう車の中で、蓮は内心毒づいていた。練習が終わり次第ナギと合流し、ホテルへ行って……あわよくば最後まで……と、思っていたのに。
「……何を不貞腐れているんだ」
「……別に。何でもない」
バックミラー越しに感じる視線から逃れるように窓の外へと視線を移す。こんな事になるのならメッセージアプリのID位交換しておけばよかった。
移動するギリギリまで彼の楽屋を探してみたが見つからず、結局連絡先を交換することが出来なかったのだ。
せめて現在何に出ているのかとか、スタジオが何処か聞いておけばよかった。
約束した玄関前まで行ってみたものの姿は確認できずに、そのまま凛が準備した車に乗り込んだ為、彼の現在地さえ分からない。
怒っている、かな? 変に期待させて行かなかったら、冷やかしだと勘違いさせてしまったかもしれない。
大体、10月の海なんて絶対に寒いに決まっている。風は冷たいだろうし、濡れたら確実に風邪を引く。大体、雪之丞は今回の急な移動をどう思っているのだろうか? 誰かとデートの約束があったとしたら、迷惑以外の何ものでもないはずだ。
蓮はチラリと横を見た。雪之丞はずっと俯いてスマホを弄っている。
「なぁ、さっきから何やってるんだ?」
「えっ? ええっと……着くまで暇だし、アプリゲームを……」
「ふぅん」
視線を落としたまま答える彼の言動からは、特に焦ったり困っていたりする様子は見受けられなかった。 確かに、若干コミュ障の気がある雪之丞がリア充している姿は中々想像が付かない。
いつも一人でスマホを弄ってゲームをしていることが多いし、友だちと出かけたとかそう言った話も聞いたことがない。
少なくとも蓮が所属していた間は恋人が出来たという話すら無かったはずだ。
「……蓮君はやらないの?」
「僕はあんまり興味無いな」
「そっか。面白いのに」
そう言って再び黙り込む雪之丞を見て、蓮は小さく嘆息すると車のシートに背を預けた。
自分には、ゲームにのめり込む感覚がよくわからない。人の趣味っをとやかく言うつもりは無いが、画面と睨めっこしているくらいなら、アプリで適当な男を捕まえて、ホテルに連れ込んでしまった方が絶対に有意義だと思う。
まぁ、もっとも最近はナギ以上にそそられる相手もおらず、少々欲求不満気味ではあるのだが。
そんな事を考えながらぼんやりとしているうちに、車は高速に入り、しばらく行くとやがて目的地である海が見えてきた。
くねくねとした長い坂道を登りきると目の前には断崖絶壁が広がっている。
その景色を眺めているうちに、蓮は段々と憂鬱な気分が増長していくのを感じて小さく息を吐いた。
この景色を自分は知っている。この先に待っているであろう光景が容易に脳裏に浮かんできて、蓮は眉間に深いしわを寄せた。
あぁ、帰りたい。
だってこの場所は――。