テラーノベル
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春だった。
あの日のことを、今でも妙に細かく覚えている。
駅前の古びたライブハウス。
割れた階段の端。
雨上がりの湿った空気。
客は少なかった。
今思えば、
あんな売れもしない地下バンドを追いかけていたあいつは、相当物好きだったんだろう。
ライブ終わり、
僕は裏口で煙草を吸っていた。
汗で張りついた髪を掻き上げながら火を点ける。
その時。
「……あの」
小さな声がした。
振り向くと、
女が一人立っていた。
黒いパーカー。
少し大きめのバッグ。
前髪を三つ編みにして横に流した髪型。
歳は、多分僕より少し下。
「あ、えっと……ライブ、すごく良かったです」
言いながら、
彼女はぎこちなく頭を下げた。
「どうも」
僕が短く返すと、
彼女はなぜか少し慌てた。
「あっ、すみません、引き止めちゃって……!」
逃げるみたいに離れようとする。
その背中が、
妙に必死に見えた。
「…名前」
思わず呼び止める。
彼女が振り返る。
「……え?」
「名前、教えて?」
口が勝手に動いたような…そんな感じで。
何故か名前を聞き出そうとしてしまった。
彼女は少し目を丸くしてから、
照れたみたいに笑った。
「……葵生、です」
どこか遠くで、
電車の通る音がした。
⸻
それから、
葵生は頻繁にライブへ来るようになった。
最前列で騒ぐタイプじゃない。
いつも後ろの方で、
静かにこちらを見ていた。
ライブが終わると、
決まって差し入れを置いていく。
缶コーヒーとか。
コンビニのお菓子とか。
ある日なんか、
何故か肉まんを二個持ってきた。
「寒そうだったから…良かったらどうぞ!」
「……ライブハウスに肉まん持ってくる奴初めて見た」
「えっ、もしかしてダメだった!?」
「いや別に」
そう返すと、
葵生は安心したみたいに笑った。
ころころ表情が変わる人だった。
見ていて飽きなかった。
⸻
「零くんって、普段なにしてるの?」
「バイト」
「夢のない答え!」
「じゃあ何て言えばよかった」
「暗黒の支配者、とか」
「痛いな」
「ひど!」
夜の公園。
ブランコに座る葵生が、
アイスを片手に頬を膨らませる。
知り合って数ヶ月。
気づけば、
ライブ後にこうして会うのが当たり前になっていた。
「でもさ」
葵生が空を見上げる。
「零くんの曲、好きだよ」
不意打ちみたいに言われて、少し黙ってしまった。
「……どの曲」
「“Loneliness”」
「暗い曲じゃん」
「でも好きなの」
街灯が、
彼女の横顔を照らしていた。
「零くんってさ」
「ん」
「本当は寂しがり屋でしょ」
「急に何」
「だって、一人で平気な人って、あんな曲書かないもん」
図星だった。
だから、
何も返せなかった。
沈黙が落ちる。
でも葵生は、
気まずそうにはしなかった。
静かな空気すら、
この人はちゃんと受け止める。
不思議な人だった。
⸻
雨の日。
ライブ終わり、
駅までの道を二人で歩いていた時。
「うわっ」
葵生が滑った。
反射的に腕を掴む。
そのまま、
数秒。
距離が近かった。
濡れた髪。
雨の匂い。
驚いたみたいに揺れる目。
「……危な」
言いかけて、止まる。
葵生も動かなかった。
触れた手が熱い。
心臓の音が、
嫌になるくらい響いていた。
「ごめん…」
自分でも驚く程に掠れた声。
互いに気まずくなって目を合わせずに沈黙していたが、その沈黙を破るように葵生が喋った。
「零くん」
小さな声。
「……私ね」
葵生は少しだけ笑う。
でもその顔は、
泣きそうにも見えた。
「零くんのこと、好きだよ」
雨音だけが聞こえる。
僕はしばらく何も言えなかった。
こんな風に、
真っ直ぐ好意を向けられたことがなかった。
怖かった。
でも。
離したくない、と思った。
手を、ゆっくり握る。
「……知ってる」
「何それ!」
葵生が笑う。
その笑い声を聞いた瞬間。
ああ、
もう駄目だと思った。
多分、
この先ずっと。
この人を好きなままなんだろうな、と。
コメント
1件
うわぁ〜〜〜〜っ!!無理!尊い!!😭💕💕💕 雨の日の告白シーンが本当に胸に来ました…!!!「零くんのこと、好きだよ」って葵生ちゃんが泣きそうな顔で笑うところとか、零くんが「知ってる」ってツンデレっぽく返すのとか、全部エモすぎて心臓バクバクしました…!!最初は距離があった二人が、何気ない会話や沈黙すらも受け入れ合う関係になっていく過程が丁寧に描かれてて、すごく沁みます…。「この先ずっとこの人を好きなままなんだろうな」ってラストの一文で完全に持ってかれた…!✨ トマチンさんの書く空気感がめっちゃ好きです!続きも絶対読みたい…🥺🎀