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夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
瞳子さんに彼氏がいたら?
夫がいたら?
そんな可能性を考えたことはある。
でも、二十歳になった僕には、もう迷いなどなかった。
初恋を実らせたい。
その純粋な気持ちだけで、この五年間を頑張ってきた。
僕は自分に自信があった。
きっと、瞳子さんに相応しい男になれている。
そう信じていた。
二十歳になったある日。
僕は晴れ晴れとした気持ちで、一菱証券・静丘支店のビルを見上げていた。
ようやく、たどり着いた。
僕の女神が待つ神殿に。
胸の奥から、嬉しさがこみ上げてくる。
思わず目を閉じて、深呼吸をした。
あの富士登山で出会ってから、五年。
生きる力をもらった瞳子さんに釣り合う男になるためだけに、努力してきた五年間だ。
我ながら、よく頑張ったと思う。
僕は胸元から、一枚の名刺を取り出した。
可愛い富士山のイラストが描かれた、少し古びた名刺。
何度も手に取ったけれど、傷まないように桐の箱に大切にしまってきた。
僕と瞳子さんを繋ぐ、大切なもの。
「……行こう」
名刺を胸元に戻し、僕は一歩を踏み出した。
店内に入る。支店の一階には営業窓口がある。
窓口の前に立つと、お客様対応のスタッフから声をかけられた。
「こんにちは。今日はどのようなご用件で?」
「口座開設をしにきました」
僕は胸ポケットから名刺を取り出し、スタッフに差し出した。
「担当は、この方でお願いします」
「牧野でございますね。かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
スタッフが立ち去っていく。
僕はその背中を見送りながら、胸の鼓動を抑えた。
(ついに……再会できる)
しばらくすると、
「お客さま、お待たせしました」
五年ぶりに聞く、女神の声。
(忘れもしない。この人が、死にかけていた僕を救ってくれた人)
僕は頬が緩みすぎないように、必死に表情を引き締めて顔を上げた。
そこには、変わらず美しい瞳子さんがいた。
あの日と同じ、柔らかな笑顔。
「担当させていただきます。牧野瞳子と申します」
僕は嬉しくなって、瞳子さんの顔から視線を外せなかった。
「名刺をお返ししますね」
瞳子さんが、先ほどスタッフに渡した名刺を差し出してくる。
その指に、指輪はなかった。
結婚はしていない。
僕は、心の底から安堵した。
(瞳子さんは変わらず綺麗だ。雰囲気もそのまま。何も変わっていない)
(ああ……僕の女神)
「あのっ、朝倉さま……手を……」
「え?」
気づけば僕は、名刺を返そうとする瞳子さんの手を両手で握っていた。
「……ああ。失礼しました」
名残惜しく手を離す。
しまった。いつも妄想の中で瞳子さんに会っていたから、つい距離感を間違えてしまった。
ここはリアルな世界だ。
僕たちは、今ここで初めて会ったことになっている。
(自制、自制……)
そう言い聞かせても、胸のドキドキは止まらなかった。
それから、口座開設の手続きや株の売買について説明を受けた。
「二十歳で……この金額を投資に?」
瞳子さんが驚いている。
当然だ。
僕は海外で学んだ金融知識を生かし、これまで自分の資産を運用してきた。
「もっと資金を増やしましょうか。牧野さんに手数料が入るなら、僕は構いません」
僕がそう言うと、瞳子さんの表情がすっと引き締まった。
「いいえ。それはお気になさらず」
「え?」
「投資には、絶対に利益が出る保証はありません。何かあっても生活を続けられるように、半年分の生活防衛費は確保してください」
その言葉に、僕は目を見開いた。
自分の利益より、僕の生活を心配している。
(……これだ)
五年前、富士山で僕を助けてくれたときと同じ。
自分が大変でも、誰かを放っておけない。
困っている人を見れば、手を差し伸べる。
(僕が瞳子さんに惚れた理由は、顔じゃない。この人の、こういうところなんだ!)
胸の奥が熱くなる。
「……さすがです」
「はい?」
「ご自身の利益より、他者への思いやりが勝るんですね」
「恐れ入ります。でも、投資で生活を苦しめてしまっては意味がありませんから」
そう言って、瞳子さんは少し照れたように微笑んだ。
「……可愛い」
「え?」
「あ……いえ」
危ない。思わず本音が漏れそうになった。
でも、五年ぶりに会っても、やっぱりこの人だった。
僕が命を救われた、あの瞳子さん。
何も変わっていない。
「……本当に、昔と何も変わっていないんですね」
「え?」
瞳子さんが不思議そうに僕を見る。
「私と、お会いしたことがありましたか?」
僕は、聞こえなかったふりをした。
(過去の僕は思い出してほしくない!)
あの泣きべそをかいた、もやしっ子の姿だけは……絶対に知られたくない。
「牧野さん。一点だけ、お願いがあります」
「はい。どのようなご要望でしょうか?」
「売り買いは頻回にしてもらって構いません。そのかわり、こまめに僕へ連絡を入れてくださいませんか?」
「こまめに、と申されますと?」
「毎日、だって構いません」
「……毎日はご迷惑になるかと」
「牧野さんなら、構いません」
「え?」
抑えきれなかった。
僕の口から、心の奥底にしまっていた言葉が飛び出した。
「僕と結婚してください」
「…………」
瞳子さんの笑顔が、完全に固まった。
「……ご冗談、ですよね?」
「……はい。もちろん、冗談です」
僕は、完璧な営業スマイルを浮かべる。
……危なかった。あまりにも嬉しくて、気持ちが先走ってしまった。
それでも、困惑した瞳子さんの頬が、ほんのり赤くなっている。
(……やはり、可愛い)
「では、値動きがあればその都度、しばらく動きがない時は今後の展望について連絡を差し上げることにしますね」
「はい! ぜひ、待っていますっ!!」
「ええ」
瞳子さんが、可愛らしい笑顔を向けてくれた。
僕は胸がいっぱいになった。
こうして、五年前は遠くから見上げることしかできなかった女神と、同じテーブルを挟んで話している。
僕は、ここまで来たんだ。
瞳子さんと対等に話せる男になれたことが、誇らしかった。
それと同時に、安堵していた。
瞳子さんは気づいていない。
僕が五年前の、泣きべそもやしっ子だということに。
((あの姿だけは見せられない!!))
そして、僕には次の目標ができた。
一菱証券に入社して、瞳子さんの隣で働く。
年下の子供ではなく、同じ目線に立つ男になる。
そして──彼女にも、僕を好きになってもらう。
恋に落ちてもらうんだ。
これが、僕と瞳子さんの運命のロマンスの始まりだった。
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