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あの日の夜から弦は、少しずつ――本当に少しずつ、元の生活に戻っていった。
ある朝は、訓練場に顔を出すだけで終わった。
木刀を握り、構えただけで、汗をかく前に引き上げる日もあった。
それでも、来た。
誰も「まだ早い」とは言わない。
誰も「もっとやれ」とも言わない。
弦は、自分の歩幅で戻ってきていた。
食事も同じだった。
一膳を食べ切れない日もあれば、
途中で箸が止まる日もあった。
それでも、膳の前に座るようになった。
温かい飯を、逃げずに見るようになった。
夜は、布団に入る。
すぐに眠れなくても、横になる。
目を閉じる。
満月の日は、相変わらず月を見ない。
だが、部屋の灯りは消さなくなった。
——戻ってきている。
そう言葉にしなくても、
六年生全員が感じていた。
訓練の合間、
弦がほんの一瞬、息を整えるように立ち止まったとき。
「……弦、飯はちゃんと食えよ」
留三郎が、何気ない調子で言う。
弦は一瞬きょとんとしてから、
小さく鼻で笑った。
「……誰かに言われた気がするな、それ」
その場にいた全員が、顔を見合わせる。
——ああ。
「絶対言うな」
文次郎が低く言う。
「死んでも言う」
仙蔵も静かに頷いた。
「……世話焼きだよな」
小平太が、ぽつりと呟く。
長次は、何も言わずに視線を逸らした。
英二郎が、
あの夜、弦に何を言ったのかは分からない。
叱ったのかもしれない。
慰めたのかもしれない。
それとも、ただ聞いていただけかもしれない。
けれど。
訓練に来る弦。
飯を口に運ぶ弦。
眠ろうとする弦。
それらすべてを見て、
六年生は同じことを思っていた。
——あいつ、死んでも世話焼きだな。
胸の奥で、
誰もが同じ名前を呼びながら。
弦は、まだ完全には戻っていない。
笑顔も、前みたいにはならない。
それでも。
今日も、生きている。
食べて、動いて、眠っている。
それでいい。
それだけで、十分だった。
それでも、完全に元に戻ったわけじゃなかった。
訓練中、ふとした瞬間に弦の動きが止まる。
敵役の動きを見失ったわけでも、疲れたわけでもない。
——隣が、空いている。
それに気づいた瞬間だった。
「……っ」
ほんの一瞬。
それでも、六年生は全員見逃さなかった。
小平太が何も言わずに前に出る。
文次郎が位置を詰める。
仙蔵と留三郎が、自然に間を埋める。
誰も「大丈夫か」とは聞かない。
弦も「大丈夫だ」とは言わない。
ただ、訓練は続く。
終わったあと、弦は地面に座り込み、息を整えていた。
額から汗が落ちる。
「……前より、無茶しなくなったな」
留三郎が言うと、弦は少し間を置いてから答えた。
「……怒られてさ」
誰に、とは言わない。
「死ぬつもりでやるな、って」
その言葉に、伊作がわずかに目を伏せる。
「……それ、言いそうだな」
弦は小さく息を吐いた。
夜。
弦は一人で部屋にいた。
灯りを落とし、布団に横になる。
眠れる日もあれば、眠れない日もある。
眠れない日は、天井を見つめてじっとしている。
「……英二郎」
声に出す日もある。
出さない日もある。
答えが返らないことは、分かっている。
それでも、呼ぶことをやめなかった。
——やめる必要が、ないから。
廊下の向こうで、六年生の誰かが起きている気配がする。
見張りじゃない。
心配でもない。
ただ、起きているだけ。
弦はそれを感じて、
ほんの少しだけ、目を閉じた。
完全に立ち直る日は、来ないかもしれない。
前みたいに笑うことも、ないかもしれない。
それでも。
訓練に行く。
飯を食う。
眠ろうとする。
そして、時々立ち止まる。
六年生は、そのたびに何も言わず、位置を変える。
英二郎がいなくなった場所は、
誰も埋めない。
ただ、
弦が倒れないように、
周りに立つだけだ。
その日々が、続いていった。