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英二郎のいた場所を、誰かが無理に埋めることはしなかった。
代わりになる者なんて、いないと分かっているからだ。
けれど——
弦の心に開いた穴の“縁”には、
いつの間にか、誰かが立っていた。
訓練場では、気づけば隣に伊作がいる。
弦が一歩踏み込めば、同じだけ前に出る。
留三郎は、背中側を空けない。
弦が振り向かなくても、そこにいる。
文次郎は、言葉少なに視線を送る。
「見ているぞ」と、それだけで伝えるように。
仙蔵は、何も言わずに全体を見る。
弦が崩れそうな瞬間を、誰よりも早く察して。
長次は、弦の呼吸が乱れたときだけ、
ほんの一歩、距離を詰める。
小平太は、何も考えずに笑っている。
それが、弦を現実に引き戻す。
誰も、
「代わりだ」
「俺たちがいる」
なんて言わない。
ただ、隣に立つ。
弦が気づいても、気づかなくても。
手を伸ばしても、伸ばさなくても。
夜、満月が雲に隠れた日。
弦は一人で廊下に出て、座り込んだ。
月は見えない。
それでも、胸がざわつく。
「……」
名前を呼びかけそうになって、
口を閉じる。
そのとき、足音。
「……ここ、冷えるぞ」
仙蔵だった。
それだけ言って、
弦の隣に腰を下ろす。
距離は、拳一つ分。
弦は、何も言わない。
仙蔵も、何も聞かない。
それでも、弦は思う。
——ああ。
英二郎の場所は、空いたままだ。
でも。
自分は、ひとりじゃない。
埋めるんじゃない。
忘れるんじゃない。
ただ、
そばにいる。
その積み重ねが、
弦の呼吸を、今日も止めずにいた。
弦は、何も言わなかった。
立ち上がるでもなく、
視線を合わせるでもなく、
ただ——そのまま、仙蔵に腕を回した。
ぎゅっと、強く。
逃がさないように、
離れないように。
仙蔵の体が、一瞬だけこわばる。
予想していなかったわけじゃない。
けれど、受け止める覚悟を作る前だった。
「……」
仙蔵は、何も言わない。
弦の額が、仙蔵の肩に触れる。
布越しに伝わる体温に、
弦の呼吸が、少し乱れた。
暖かい。手は冷たいくせに、
震えている。
声を殺している。
泣いているわけでもない。
ただ、
必死に“ここにいる誰か”を確かめている。
仙蔵は、ゆっくりと息を吐いてから、
そっと、弦の背に手を置いた。
抱き返すでもなく、
突き放すでもなく。
支えるように。
「……大丈夫だ」
低く、短く。
慰めでも、約束でもない。
今この瞬間の事実だけを、口にした。
弦の指に、少しだけ力がこもる。
それから、
ふっと力が抜けた。
弦は、仙蔵の肩に顔を埋めたまま、
動かなくなる。
泣き疲れたわけでも、
眠ったわけでもない。
ただ、
しばらく、そうしていた。
——今は、これでいい。
仙蔵は、弦が完全に落ち着くまで、
その場を動かなかった。
英二郎の場所は、埋まらない。
埋めてはいけない。
それでも。
こうして、
誰かのそばにいることは、許される。
弦は、やがて小さく息を吐いた。
そして、ほんのわずかに、
肩の力を抜いた。