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#ほのぼの
206
英二郎のいた場所を、誰かが無理に埋めることはしなかった。
代わりになる者なんて、いないと分かっているからだ。
けれど——
弦の心に開いた穴の“縁”には、
いつの間にか、誰かが立っていた。
訓練場では、気づけば隣に伊作がいる。
弦が一歩踏み込めば、同じだけ前に出る。
留三郎は、背中側を空けない。
弦が振り向かなくても、そこにいる。
文次郎は、言葉少なに視線を送る。
「見ているぞ」と、それだけで伝えるように。
仙蔵は、何も言わずに全体を見る。
弦が崩れそうな瞬間を、誰よりも早く察して。
長次は、弦の呼吸が乱れたときだけ、
ほんの一歩、距離を詰める。
小平太は、何も考えずに笑っている。
それが、弦を現実に引き戻す。
誰も、
「代わりだ」
「俺たちがいる」
なんて言わない。
ただ、隣に立つ。
弦が気づいても、気づかなくても。
手を伸ばしても、伸ばさなくても。
夜、満月が雲に隠れた日。
弦は一人で廊下に出て、座り込んだ。
月は見えない。
それでも、胸がざわつく。
「……」
名前を呼びかけそうになって、
口を閉じる。
そのとき、足音。
「……ここ、冷えるぞ」
仙蔵だった。
それだけ言って、
弦の隣に腰を下ろす。
距離は、拳一つ分。
弦は、何も言わない。
仙蔵も、何も聞かない。
それでも、弦は思う。
——ああ。
英二郎の場所は、空いたままだ。
でも。
自分は、ひとりじゃない。
埋めるんじゃない。
忘れるんじゃない。
ただ、
そばにいる。
その積み重ねが、
弦の呼吸を、今日も止めずにいた。
弦は、何も言わなかった。
立ち上がるでもなく、
視線を合わせるでもなく、
ただ——そのまま、仙蔵に腕を回した。
ぎゅっと、強く。
逃がさないように、
離れないように。
仙蔵の体が、一瞬だけこわばる。
予想していなかったわけじゃない。
けれど、受け止める覚悟を作る前だった。
「……」
仙蔵は、何も言わない。
弦の額が、仙蔵の肩に触れる。
布越しに伝わる体温に、
弦の呼吸が、少し乱れた。
暖かい。手は冷たいくせに、
震えている。
声を殺している。
泣いているわけでもない。
ただ、
必死に“ここにいる誰か”を確かめている。
仙蔵は、ゆっくりと息を吐いてから、
そっと、弦の背に手を置いた。
抱き返すでもなく、
突き放すでもなく。
支えるように。
「……大丈夫だ」
低く、短く。
慰めでも、約束でもない。
今この瞬間の事実だけを、口にした。
弦の指に、少しだけ力がこもる。
それから、
ふっと力が抜けた。
弦は、仙蔵の肩に顔を埋めたまま、
動かなくなる。
泣き疲れたわけでも、
眠ったわけでもない。
ただ、
しばらく、そうしていた。
——今は、これでいい。
仙蔵は、弦が完全に落ち着くまで、
その場を動かなかった。
英二郎の場所は、埋まらない。
埋めてはいけない。
それでも。
こうして、
誰かのそばにいることは、許される。
弦は、やがて小さく息を吐いた。
そして、ほんのわずかに、
肩の力を抜いた。
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