テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
鳳凰富士ホテルのチャペルは、ホテルから少し離れた場所に独立して建っている。
最大の魅力は、祭壇の向こうにある大きな窓だ。
そこからは、遮るもののない富士山が見える。
今日の富士は雲ひとつなく、青空の下に堂々とそびえていた。
控え室からチャペルへ向かい、衣装担当のスタッフと歩く。
扉の前まで来たところで、私は足を止めた。
「姉さん」
片手を挙げ、李人が立っている。
見慣れないスーツ姿のせいか、いつもよりずっと大人びて見えた。
(衣装に負けてない。立派な男性になったんだ)
誇らしさが込み上げ、胸の奥がふわりと軽くなる。
もう、私が手を引かなくても大丈夫。
李人は自分の足で、しっかり立っている。
「お待たせ」
ドレスの裾を整えると、隣の担当者が確認するように尋ねた。
「お父様の代わりに、弟様と歩かれるということでよろしいですか?」
一瞬、胸の奥が痛んだ。
「はい。……私には、弟しかいませんから」
「かしこまりました」
担当者はそれ以上何も言わず、静かに頭を下げた。
私は李人の腕に手を回す。
重厚な扉の前に、二人で並んだ。
「李人にリードされて歩くなんて……なんだか変な感じね」
「姉さんの中では、今でも子供のままなんだね」
「そうでもないわ」
私は隣の李人を見上げた。
「さっき、遠くから李人を見たときね。胸の奥がすごく軽くなったの」
「どうして?」
「ああ、この子はもう、私がいなくても大丈夫なんだって思えたから」
李人は少し目を細めた。
「俺のことは、もう心配しなくていいよ」
「俺……」
思わず、その一人称に反応してしまう。
いつの間に変わったのだろう。
昔はずっと「僕」と言っていたのに。
たった一言なのに、胸の奥が熱くなった。
担当者が控えめに声をかける。
「では、扉が開きます」
いよいよだ。
緊張で息を止めた私を見て、李人が微笑んだ。
「今度は、姉さんが幸せになる番だよ」
その言葉が、胸の奥に深く響く。
私はずっと、李人を送り出すつもりでいた。
けれど、いつの間にか私のほうが送り出される側になっていた。
涙が込み上げる。
まだ泣かない。
ここで泣いたら、きっと止まらなくなる。
唾を飲み込み、どうにかこらえた。
(私、頑張ってきて……よかった)
「では、参ります」
扉がゆっくり開く。
私はまっすぐ前を見て、李人と一歩を踏み出した。
祭壇の向こうには、祐二が待っている。
大きな窓から差し込む陽光が、チャペルを柔らかく照らしていた。
その向こうには、今日も美しい富士山がある。
私はその景色を見つめながら、祐二のもとへ歩いていった。
ゆっくりと、けれど迷いのない足取りで。
祭壇の前で立ち止まる。
李人が私の手を取り、祐二へ差し出した。
「姉を、よろしくお願いします」
「ご安心ください。必ず幸せにします」
李人から祐二へ。
大切なものを託すように、私の手が渡される。
祐二の温かな手に触れた瞬間、涙が溢れそうになった。
見上げると、愛おしさが込み上げて指先まで震える。
祐二は、そんな私の手をそっと包み込んだ。
こんなに誰かを好きになるなんて。
その人と、こうして結婚式を挙げる日が来るなんて。
少し前の私なら、夢にも思わなかった。
ただ一緒にいられる。
これからも同じ時間を過ごせる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
讃美歌が流れ、神父の聖書朗読が続く。
その間、私たちは時折目を合わせながら、祭壇の向こうの富士を見つめていた。
祐二が、周囲には聞こえない声で囁く。
「僕は初めて瞳子さんに会ったとき、絶対にあなたと結婚すると決めていました」
「初めて会ったのは、本当に支社だったの?」
以前から、そこだけは引っかかっていた。
「……そうです」
祐二の返事には、わずかな間があった。
(やっぱり、何か隠しているのよね)
けれど、今はそれ以上追及しなかった。
「そういえば、黒川さんに祐二の写真を見せてもらうのを忘れたわ」
「残念ですが、ネガごと処分しました」
「処分!?」
思わず肩が跳ねる。
「そこまで見られたくない写真なの?」
「僕は、瞳子さんと七つも年齢差がありますから」
祐二は真剣な顔で続けた。
「その差を克服するために重ねた努力を、すべて無にする写真です。処分は妥当です」
「そんなに?」
思わず笑ってしまう。
(どんな祐二だったのか、見てみたかったのに)
「もう一生、見られないの?」
「ええ」
祐二は少し寂しそうに笑った。
「瞳子さんが僕を変えたのですから。あの頃の僕を見ることは、もうできません」
その言葉の意味を考えているうちに、神父が誓いの言葉を告げた。
「新郎、祐二。新婦、瞳子を一生愛すると誓いますか?」
「はい。一生、瞳子さんに愛を注ぎ続けます」
あまりにも祐二らしい答えに、会場から小さな笑いが起こる。
けれど祐二は気にしない。
周囲の反応など、最初から存在しないかのように、私だけを見つめている。
その自信に満ちた瞳が、今はたまらなく愛おしい。
私は、彼の素直で一途な愛に何度も救われてきた。
だから私も、彼を一生幸せにしたい。
「私も、誓います」
言葉にした途端、幸福が胸いっぱいに広がった。
目の奥が熱くなる。
祐二の目元が、嬉しそうに柔らかく下がった。
私たちは永遠を誓い、口づけを交わす。
その瞬間、これまでの時間がすべて、この日のためにあったように思えた。
私は祐二の手を握り返す。
もう、私たちは一人ではない。
これからは、どんなときも二人で歩いていく。
だって私たちは──お互いのトリコなのだから。