霧のように立ちこめた
水蒸気の帳を割くように
巨体の青龍が再び螺旋を描きながら
大地を薙ぐ。
風圧が樹々を倒し、地を削り
兵達の隊列はもはや形を保てていなかった。
だが──
その混沌の中心に、ただ一人
微動だにせず立つ男がいた。
黒衣の裾を濡らしながら
鯉口にかけた指を離さず
ただ静かに空を仰ぐように目を細めていた。
(⋯⋯やはり、並の剣ではない)
青龍の山吹色の瞳が
静かにその男を見据える。
剣を抜いてすらいない。
それでも
あの指先がわずかに動いた瞬間に
風の流れが変わった。
空気の密度が変質し、重さが帯びた。
あれは、能力によるものではない。
〝極限までに練り上げられた技〟の予兆。
肉体という鋳型を極限まで鍛え
呼吸一つ、足捌き一つに至るまで
無駄が削ぎ落とされた動き。
あれは──
斬るために生きてきた者の構え。
(⋯⋯放てば、命を断ち切るための太刀)
青龍の脳裏に
過去に交えた
幾多の剣士たちの姿が浮かんでは消えた。
だが
いずれも〝恐れ〟にまでは至らなかった。
しかし、この男は──違う。
「⋯⋯してはならぬのだ
貴様に⋯⋯抜かせることは」
蒼き龍の喉奥で
低く雷鳴のように唸りが響く。
尾を一閃、敵陣の残骸を吹き飛ばしながら
蒼く煌めく眼差しは
その一人の男だけに注がれていた。
兵たちの数はもはや意味を為さなかった。
風と水が絶え間なく吹き荒れ
地は泥濘に変わり、倒れた者の多くが動かない。
だが男は、ただ一歩。
ただ、一歩だけ前へ踏み出した。
「──っ!」
その瞬間、青龍の視界が脈動した。
世界が、弾けたように歪む。
それは男が抜いたわけではない。
まだ鯉口に手はかかったまま。
ただの〝一歩〟
だが、その重さが
まるで山が傾いたかのような圧となって
青龍の鱗を逆立たせた。
(⋯⋯足運びすら、型であり、殺意)
全身を練り上げた者にとって
もはや構えも技もない。
その存在が既に〝剣〟であるということ──
それが、今、目前にある。
風が止む。
水が凪ぐ。
月光が、男の濡れた髪に滲み、揺らめく。
そして
男の口角が、かすかに上がった。
まるで
ここからが〝本当の始まり〟
だとでも言いたげに。
青龍は次の瞬間
地を割るような咆哮と共に
一気に距離を詰めた。
爪が、牙が、風が、水が──
すべてが、その剣を抜かせぬための布石。
もう兵など、どうでもよい。
この男を──
この剣を、振らせるわけにはいかぬ。
それが、桜を守る者としての本能だった。
⸻
兵の足音が重なる。
数人がかりで一斉に跳びかかってくる。
青龍が尾を振るい
まとめて吹き飛ばそうとした──
その瞬間だった。
一人の兵の胴体が
ー不自然に裂けたー
まるで
それ自体が〝斬撃の幕〟であるかのように。
兵の影から、するりと現れた黒い影──
その男が、すでに抜いた刀を逆手に構え
低く突き上げていた。
(⋯⋯とうとう──っ!)
それは
まるで何もなかったかのような
滑らかさだった。
自然の流れに溶け込むように
抵抗も気配もなく
鞘から解き放たれたその刀身は
銀の線となって青龍の視界を裂いた。
「此奴⋯⋯兵を目隠しにしおった──っ!」
咄嗟に身体を捩じり
喉元の逆鱗を守るように身を翻す。
──間に合った。
そう思った。
だが。
(──⋯っ!?)
風が、赤く滲んだ。
皮膚が裂け、鱗が剥がれ
筋肉が剥き出しになる。
蒼い巨躯を
袈裟懸けに斜めの傷が走っていた。
躱したはずの太刀筋。
その余波だけで
皮一枚を越えて肉を裂いた。
「⋯⋯あと少しで、龍の首⋯⋯
落とせたねぇ?」
男の声は、まるで日常の挨拶のように軽い。
その刹那──⋯
「駄目だ!来るでないっっっ!!」
叫びと共に
白い影が喫茶桜の窓を突き破って飛び出す。
月明かりに照らされたその毛並みは
銀糸のように輝いていた。
ティアナ。
彼女の展開していた結界は
本来ならば喫茶桜を護るためのもの。
一つしか張れぬその力を
青龍を庇うために転用すれば
店の防御は消える。
だが彼女は迷わなかった。
空中で身を翻しながら
結界を無理矢理に拡張していく。
猫の身体では維持も困難。
それでも──
結界が、静かに広がった。
まるで春風のように優しく
しかし絶対の拒絶を湛えながら
喫茶桜と青龍
その両方を包むように展開されていく。
男の刃が青龍を貫かんと振り下ろされた
その瞬間──
術式が完全に張られ、刃先が弾かれた。
ビリ、と音を立てて光が跳ね
男の刀が空に火花を散らす。
ティアナの瞳が細く光った。
呼吸は荒く、四肢は震えていたが──
その足は、一歩も退いていなかった。
「⋯⋯ふふ。
その結界⋯⋯キミのかと思ってたけど
そこの、ふかふかちゃんのだったのか」
男は目を細め、楽しげに笑みを浮かべた。
足元に落ちた兵士の血を踏みながら
一歩下がる。
「それを展開されたら
どうしようも無いね。
まぁ、キミには深手を負わせられたから
ボクはここでお暇させてもらおうかな?」
まるで
〝遊びはここまで〟とでも言うように
男は刀を軽く払った。
返り血が霧のように宙を舞い
その姿ごと、月の影に溶けていった。
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家族を傷つけられた怒りに、不死鳥は目覚めた。 血に濡れた青龍を抱き、祈る時也。 燃え上がるアリアの怒りが空を裂き、 再び世界に、滅びの翼が広がっていく──