ティアナの大きな声が──響く。
何度も、何度も
必死に、何かを呼ぶように。
時也の鳶色の双眸が
眠りから大きく見開かれた。
心臓の音が、ひときわ強く響いた。
部屋の扉を開け放ち、すぐさま走り出す。
同じように、別の部屋からも音が重なる。
「⋯⋯何事ですかっ!?」
「ティアナが
あんな鳴き方するの、初めて聞くわ!」
「わかんねぇよ!とりあえず行くぞ!」
時也、ソーレン、レイチェル──
三人が階下へ駆け降りると
リビングの中心で
ティアナが立ち尽くしていた。
その白く長い毛並みには
血が付着していた。
誰のものか、問いかける暇もない。
ティアナは三人を認識すると
鋭く鳴いて振り返り、裏庭へと駆けていく。
その仕草は、導くように──
誘うように──「来て」と訴えていた。
裏口を開け放った瞬間
風が血の匂いを運んだ。
そして──そこに、居た。
血塗れの幼子。
袈裟懸けに斬られ、土に伏す小さな身体。
「──っ!?青龍っっ!!」
急いで駆け寄り膝をつくと、
掠れそうな声で時也が呼びかける。
「青龍!僕です⋯⋯っ、聞こえますか!?」
睫毛が、微かに震える。
その下から覗いた山吹色の瞳が
ゆっくりと細められるように開かれた。
「⋯⋯時也、様⋯⋯」
か細い声。
けれど
確かにその瞳には意識の灯が戻っていた。
「何があったのです⋯⋯!?
なぜ⋯⋯こんな⋯⋯!」
時也の声は揺れていた。
普段、何が起きても冷静で在る男が
明らかに動揺を滲ませていた。
だが、青龍は首を横に振った。
その動きさえ
苦痛に耐えるように震えていた。
「⋯⋯覚えておりませぬ⋯⋯
兵の姿は、見えましたが⋯⋯
他は⋯⋯まるで⋯霧のように──」
記憶を辿ろうとする度に
眉根が痛みで歪む。
思い出すことはできない。
ただ、戦った。
それだけが身体に刻まれている。
そして、生き延びたのは──
「ティアナ⋯⋯」
時也の視線が
傍らに寄り添う白猫へと向く。
ティアナは
小さな身体で、血に濡れた青龍の傷口を
懸命に舐めていた。
唸り声を喉に震わせながら
まるで「ここに居て」と
繰り返し伝えているかのように。
その毛は風に舞い
結界の余波がまだ周囲の空気に残っていた。
喫茶 桜と青龍──
両方を包むために
無理をして展開した結界の名残。
それがなければ、青龍の命は──
レイチェルは唇を噛み締め
ソーレンは拳を握りしめる。
誰もが言葉を失っていた。
ただ一つだけ、確かなことがある。
〝何者か〟が、また喫茶桜に手を伸ばした。
そしてそれに
青龍は、ただ一人で立ち向かった。
命を懸けて。
それが、眼前の事実だった。
⸻
施設を焼き尽くし
瓦礫と化した大地を背に
アリアは静かに空を渡っていた。
しかし
喫茶桜の屋根が見えた瞬間
彼女の鼻先をかすめるように──
血の匂いが届いた。
それは、生き物の終わりを告げる鉄の匂い。
しかも
見慣れた、傍にあって当然の──
家族のもの。
アリアの瞳が細く鋭く光った刹那
空気が一閃し
彼女の姿は喫茶桜の裏庭に降り立っていた。
そして、目に映る。
土の上に膝をつく時也。
その腕の中に
意識を手放しつつある幼子の姿。
血塗れの青龍。
「⋯⋯アリアさんっ!!」
時也が顔を上げた。
鳶色の瞳には涙が滲み、声が震える。
その瞬間──
アリアの中で、何かが〝切れた〟
無言のままドレスの袖を乱暴に引き裂き
露わになった白い肌へ
容赦なく爪を立てる。
爪の跡に沿って
鮮血が滾るように流れ出した。
そのまま
迷いなく、青龍の身体へと振り撒く。
淡い紅が蒼い鱗に落ち
染み込んだ刹那──
青龍の傷口が
わずかに、確かに収縮した。
裂けた肉が寄り
止まらなかった出血が減速し
命の火が再び、小さく、灯るように。
「良かった⋯⋯式神にも⋯⋯効いた⋯⋯」
時也が震える声で
ようやく言葉を吐き出す。
肩が落ち、胸の奥から、深い息が零れた。
その腕の中で、青龍の身体が微かに動く。
意識はまだ戻らぬまでも
呼吸が安定し始めていた。
アリアは何も言わない。
ただ膝を折り、傍らに膝をつき
青龍の小さな額に手を添える。
その手は冷たく、静かで
だが確かに、祈るように優しかった。
青龍は──
時也を護るものであり、時也のもの。
ーならば、私のものだー
その想いが、脳裏を焦がすほどに
アリアの心を満たしていた。
だが、それは静かな炎ではない。
湧き上がる灼熱。
内なる不死鳥が共鳴するように
全身を焼き焦がす〝怒り〟だった。
彼女の足元の草木が
言葉なく焼かれてゆく。
彼女が何も言わずとも
周囲の空気が、震え、揺らぎ
悲鳴をあげていた。
時也は、青龍の傍に膝をついたまま
アリアの心が揺れるのを感じ取る。
彼女の瞳がわずかに動き
無表情のままでも
その深紅の奥に熱が灯っていることを
彼だけが理解していた。
「──っ!アリアさん、いけません!
そのように感情を動かされては⋯⋯っ!」
声が震える。
ただの焦りではない。
彼は知っている。
彼女が怒るということが
どれほど危険なことかを。
怒りは、痛みを喰らい、やがて絶望へ至る。
絶望すれば、不死鳥は力を増す。
そして──アリアの心が焼かれてしまう。
だからこそ、彼女は感情を殺したのだ。
だからこそ、時也はその心が揺れぬよう
誰よりも穏やかに在り続けた。
だが。
彼女は
知らぬ間に
時也が傷付けられていたのを知った。
昨夜は奇襲を受け
今また、青龍が斬られ
時也がその命を抱き締めている。
それは、時也の悲しみ。
彼の心に、陰を差した者がいるということ。
アリアにとって──
それだけで
殺意に至る理由としては、充分だった。
「アリアさん⋯⋯っ!」
時也が手を伸ばす。
だが、もう届かない。
その姿は、まるで残された煙のように
ふっと炎へと変わった。
熱の残滓だけを残し
アリアはそこから姿を消した。
「アリアさん!戻ってくださいっ!
アリアさん──っ!!」
その叫びは、空に吸い込まれていく。
燃えるような光が
遠く天へと昇っていくのが見えた。
怒れる女王──
不死鳥の化身は
今まさに天を翔び
再び、炎の審判を下すために飛び立った。
もう、誰にも⋯⋯
止めることはできない。
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時也を傷つけた者を追い、天翔るアリア。 しかし彼女は、街の無辜を盾にした罠に堕ち、 その身を裂かれ、意識を深淵へと沈められる。 名も知らぬ男の冷笑の中、 彼女の心に歪んだ記憶が刻まれようとしていた──