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コツリ、コツリ。男の革靴から鳴らされる音が、暗い通路の中で規則正しく響いている。温度を感じさせない黒に身を包むその姿は人間を象る悪魔か、はたまた死神か。
音が途切れ、立ち止まった男が襖に手を掛け部屋に足を踏み入れた。
朱壁に囲まれた畳張の一室。点在した行灯が照らす暖色の光が唯一の光源で、広く暗い部屋の奥行きを見渡すことはできない。勝手知ったる様子で歩を進める度、行灯の数は増えていく。一際明るく照らされた部屋の中央には一人の青年がいた。青年を中心にして円を描くように取り囲む行灯の光は頼りなく揺れ、床に刻まれた独特の紋様が怪しく発光している。異質さが漂う空間はさながら何かの儀式のよう。弱い光とはいえ四方から照らされれば落ち着かないものだが、青年に反応は見られない。──できないのだ。
ぺたりと畳に膝を着いて座り込み、吊り上げられた両腕が頭上で一纏めにされている。不思議なことに天井から伸びる拘束具の類は存在せず、代わりに靄のようなものが両手首に纏わりついていた。禍々しい光を帯びた赤黒いそれは実体を感じさせないのに、手首を強く固定し青年の自由を奪っている。力なく伏せられた顔は何も表情を浮かべず、薄く開かれた赤い瞳も虚なまま。身動きしない様子は精巧な人形のようにも見えるが、米神から頬にかけて刻まれた大きな傷の存在が、唯一彼を人間たらしめる。
「千鉱」
暫し眺めていた男が青年──千鉱の側へ歩み寄り膝を着く。頬に添えた手で千鉱の顔を上げ、その瞳に己を映し込ませる。顔が近づき、音もなく唇が合わさった。下唇を甘噛みし、緩く閉ざされた隙間を舌で割り入り内側へ侵入する。力の抜けた舌を引き摺り出し、舌同士を絡めた水音が響き渡る。頬へ添えていた大きな手はいつの間にか千鉱の後頭部へ回され、より密着し喰らい尽くしていく。
「ぅ、ん…んっ」
生理的に漏れた嬌声と飲み込みきれなかった唾液が千鉱の口端から伝い落ちていく。唇を離し、それすらも逃さないというように男の舌がねっとりと首から拭い上げていった。顎を掬い見下ろした千鉱の頬は仄かに色付き、焦点の合わないぼんやりとした瞳は鏡面のように男だけを映していた。
操った千鉱をどこまで動かせるか、ついでに双城が身動きしやすいよう神奈備に千鉱を嗾けたあの日。千鉱の根幹に触れるあの二人の存在がトリガーとなり、自力で檻を破り目覚めようとした。結果的に淵天の試し斬りの良い機会となったが、それとは別に所有物を横から掠め取られては不愉快である。妖術によって拘束し暗示を掛けられた千鉱に男の玄力を注ぎ込み、魂ごと意識を染め上げ深く沈める。この部屋はまさしく牢獄。千鉱が屈するその日まで、決して出ることは叶わない。つい先日、神奈備が双城を仕留め刳雲を回収したようだが全て計画通り。男の興味は此方に傾いていた。
「名を」
「名を呼べ・・・・、千鉱」
男の指がするりと千鉱の下唇を撫でる。言い聞かせるように紡がれた言の葉は、逆らうことは許されない絶対的な命令。
「ゆ、ら……幽」
応えた千鉱に薄く微笑み、幽と呼ばれた男の瞳が弓形にしなる。男が指を向けると、千鉱の手首を拘束していた靄が瞬時に弾け跡形もなく消え去った。支えを失い前へ倒れ込む千鉱の体を受け止め、横抱きにして立ち上がる。部屋の奥にひっそりと存在していた寝台に乗り上げる。男にしな垂れかかる千鉱の肩に腕を回し、耳元で悪魔が囁く。
「脱げ・・」
羽織っていたコートが滑るように流れ落ちた。千鉱を守る防刃素材のコート。人前で決して脱がれることはない漆黒の纏いは、突けば崩れる千鉱の柔い心を覆い隠すための防壁でもあった。その下には、少年から青年への過渡期にある線の細い白い肌が眠っている。首元のファスナーに掛かった千鉱の指先が、最後の砦を自ら破ろうとして。不意に、動きを止めた。
凍りついたように動かなくなった千鉱に幽がその手を重ねようとした瞬間、乾いた破裂音が響いた。
「…さ、わるなッ!」
自我を取り戻した千鉱が鋭く幽の手を叩いた。首元を強く抑えて力の入らない体で必死に後退る。白いシーツの波を掻き分け断崖を滑り落ちたところで、その身を流し逃がしてくれる海など存在しないのに。光を取り戻した赤い瞳が、怯えと強い拒絶を滲ませているのを見て、幽は自身の口角がゆっくりと吊り上がっていくのを感じた。千鉱の足首を掴み強い力で引くと、バランスを崩した軽い体がシーツに叩き付けられる。抵抗する暇もなく引き摺られた体が幽の大きな影に飲み込まれ、首に大きな掌が掛かった。
「全く、想像以上に頼もしい理性だな」
「やめろッ!放せ!はな、ぁ…ぐ、」
首を押さえる力が少しずつ強くなっていく。気道を塞がれ、酸素不足の視界がチカチカと瞬き苦しい。
(たす、け)
誰にともなく願われた望みが聞き届けられる。
────ブツリ。電源が切れたテレビのように視界が真っ黒に染まった。
苦痛から逃れようと踠いていた千鉱の体が動きを止め、重力に従った腕がぼたりと落ちた。ひゅう、ひゅうと細く荒い呼吸音が鳴る。気絶した千鉱を見下ろした幽の表情が歪んでいく。酷く楽しそうに、歪な笑みが向けられる。
「逃すものか」
しなやかな尾を靡かせて、外へ飛び出した黒猫を逃がすつもりはない。炎の紋章が刻まれた手が千鉱の胸元の傷痕へ伸びた。
意識ごと落下した体が優しく受け止められる。目を開くと水に包まれた何もない空間が広がっていて、千鉱の整わない息遣いだけが響いていた。自身の体を掻き抱き蹲る千鉱の側へ、何処からともなく現れた三匹の金魚が近づいてきた。
「…淵天」
小さく掠れた声で呟いた千鉱の頬や首元に尾鰭が擦り付けられる。千鉱の心を慰めようと健気に寄り添う姿と、柔らかく擽ったい感触に徐々に呼吸が落ち着いていく。淵天が作り出した内なる領域に赴くことは多々あれど、こんな風に呼び出されたのは初めてだった。本能的な防衛反応か、千鉱の悲痛な叫びに応え強制的に連れて来たらしい。漸くまともに息を吸えるようになり、暴れていた心も幾分が鎮まった。両手を掬うように形を取ると金魚達が寄ってきてそこに収まった。そっと胸元へ抱き込み瞳を閉じる。今はただ、小さく温かい存在をもっと感じていたかった。
千鉱の細やかな願いはいつだって叶わない。
ピシリ、とひび割れるような音が静寂を破る。弾かれるように顔を上げると、空間上部に小さな亀裂が入っていた。嫌な音を立てながら徐々に根を広げ、水中に落とされた一滴の黒いインクが染み渡るように空間自体が暗くなっていく。忙しなく千鉱の周りを泳ぎ回る金魚達も苦しそうに見えた。内なる絶対領域が何かに侵されようとしている。再び逸り出した心臓を止める方法も知らぬまま、千鉱はただその終わりを見ていることしかできない。
一際大きな音を立ててついに領域が破られる。硝子のように粉々になった空間の破片が降り注いだ。
『お前に逃げ場はない』
迫ってきた闇に視界を塗り潰され体の感覚を失った千鉱が唯一捉えたものは、冷たく嗤う男の声だった。
意識を取り戻した視界が見慣れぬ天井を映し出す。荒々しく起こされた体が倦怠感を訴えている。
「戻ったか」
視界に見たくもない顔が映り込む。片膝を立てて座る幽の間に収まり、背に回された腕が千鉱の上半身を起こし支えていた。纏わりつく違和感の正体を確かめようとした千鉱の身体を、凄まじい衝撃が貫いた。
「──ッあ!?」
びくん、と陸に打ち上げられた魚のように千鉱の体が大きく揺れる。何が起きたのか分からぬまま、混乱した重い頭を動かす。
千鉱の身体──鎖骨下辺りに刻まれた小さな傷痕。鞘として、その身に宿した淵天を納める境界線。封を破られた痕は大きな裂け目へと成長し、底の見えない金色の光を帯びた空間が千鉱の身体を縦断する。触れることさえ躊躇われるその領域を、幽が握る淵天の刀身が貫いた。
「あッ…!ぁ、ぐ…!や、ぁあ!」
幽の手が動く度、千鉱の身体に沈む切先にも振動が伝わる。ぐちゃぐちゃと、凡そ人体から響いてはいけないような音が鳴らされる。身体の中を掻き混ぜられるような苦痛が千鉱の身体を犯す。
「ゃ、あっ…!ん、ぁ…っ」
狂いそうな苦痛に脳が警鐘を鳴らしたのか、痛みが変換されじわじわと身体が快楽を拾い上げていく。弱火で表面を炙られているように、もどかしく焦らされるような微弱な電流が千鉱を襲う。勝手に溢れる嬌声とびくびくと痙攣する身体は、与えられた悦楽に善がっているよう。
千鉱の様子に満足したらしい幽がずるりと淵天を引き摺り出す。現れた刀身には一滴たりとも血は付いておらず、照明に照らされ美しい鋼の輝きを放っている。
「ぁ…」
「お前が誰のものか、身を以て理解したか?」
スーツの裾を捲り上げ、滅多に晒されることのない幽の肌が現れる。腕に淵天を当てがい鋭い刀身を滑らせた。肌を深く裂いた一筋の傷から血が溢れ出し、重力に従い腕を伝う。指先へ辿り着いた赤い雫が千鉱の裂け目へ流れ落ちていく。ポタリ、ポタリと玄力よりも濃い命の雫が、千鉱の身体に馴染み染め上げていく。与えられた血を飲み込みんだ傷痕が赤く変質した。
「恭順を。俺の所有物ものとして、生きながら死ね」
混濁した意識が主の命を拾い上げる。思考は止まり全ての感覚が遠ざかっていく。虚な瞳は凪いでいて、ただ鏡のように反射するだけ。
千鉱の体が起き上がり、幽の体に跨り両腕を首へ回す。華奢な腰に回された腕が両者の体を隙間なく密着させ、千鉱自ら口付けを送った。
恭順の意を示すように送られたそれを最後に、暗く深い闇へと沈んでいった。
夜の帳が下りた街中は、刀社会で物騒な世間であっても昼間の喧騒が嘘のように鳴りを潜める。表の住民は眠りにつき、裏に生きる者達が主役となって動き出す。野良犬の足音さえ気を遣われる静寂が支配する中、あるビルの一室では悲鳴と怒号が響き渡っていた。
黒い金魚が宙を泳ぐ。優雅に尾鰭を揺らし舞う姿は幻想的で、しかしその軌跡は血に塗れ切断された人間の首が転がっていた。金魚を従え通路を歩くのは一人の青年。その手に握られた刀は血で汚れているが、刃こぼれしている様子はない。余程作り手の技量が良いのだろう、白銀の刀身は強靭に輝きを放っていた。
広い部屋に辿り着いた青年を待ち構えていたのは、無数の荒くれ者達。各々が武器を持ち数の暴力で押そうとする中、青年は表情一つ変えることはない。惹きつけるような赤い瞳に気圧されたのか、声を上げながら複数の男達が武器を振り上げ襲いかかる。
「淵天」
刀に流し込まれた玄力が増幅し剥き出しとなったそれが形を成す。三色の美しい斑模様の金魚が何もない空間から跳び上がった。
「錦」
地を蹴った青年の姿が掻き消える。男達が武器を振り下ろす前に、その首が跳ね上がった。何が起こったのか分からぬまま絶命した胴体が崩れ落ちる。戦慄が走る残党達に、無情な赤目の怪物が襲いかかった。恐怖を叫ぶ悲鳴、理不尽への怒号。煩い雑音を背景に、神速の青年が廻る、廻る。全てを斬り捨て静寂が訪れた室内には、血で汚れていない場所など存在しない。ただ一人佇む青年も返り血を浴びているが、気にする様子もなく刀を振り血を払い落とした。握っていた刀の輪郭が揺れ、光に包まれ消えていく。自ら作り出した地獄絵図を感情の籠もっていない瞳で一瞥し、そのまま去って行った。
薄暗い部屋の寝台に座っている。最低限の調度品が備えられただけの窓一つない部屋は、時が止まったかのように静けさに包まれていた。ぼんやりと虚空を見つめるその先は固く厚い壁に遮られている。もし空に浮かぶ月が見えていたなら、闇を照らすその月明かりで夢から醒めさせてくれたのだろうか。
某日。一人の男がある建物へと足を踏み入れる。無断で正面から入り込んだ侵入者への荒々しい歓迎はなく、室内は不気味な程に静まり返っている。代わりに男を出迎えたのは、血臭漂う赤い絨毯と転がる生首。裏社会とは無縁の人間が見たら恐怖で叫び出しそうな光景だが、男が動じる様子はない。彼もその世界の住人であるということを裏付けしていた。やがて辿り着いたのは広い一室。大きな硝子張の壁は開放的な印象を与えるが、飛び散った血痕が硝子を曇らせ、ここから見える夜景を眺めさせてはくれない。夥しい血と転がる死体のせいで奥に進むのも一苦労だった。徐に携帯電話を取り出し、無機質な呼び出し音は数コールのうちに繋がった。
「当たりやった。…チヒロ君がここにいた」
雲に隠れていた月が顔を出し、月光に照らされ淡く輝く金髪を揺らしながら男──柴が端的に事実を述べる。幼い頃から成長を見守ってきた大切な子。狭く不自由な世界で、それでも確かな愛情を注いできた六平と父を慕う千鉱。穢れのない平和の象徴。温かく優しい世界ごと二人を守るため、薊と共に厳重に秘匿してきた筈だった。しかし、全てが壊されたあの忌まわしい日。妖刀を奪われ、傷付けられた六平と攫われた千鉱。七本目の妖刀、淵天と同化する唯一の存在に価値を見出され、自ら選ばせる形で父と引き離されてしまった。
毘灼の統領と名乗った男と邂逅したあの日。千鉱の身体から淵天を顕現させ本領に至る力の一端を見せつけられた後、目の前で取り逃す形となってしまった。事後処理を済ませた二人が真っ先に向かったのは拠点の一つ、新たに匿った六平の元だった。環境が変わっただけで依然自由に動くことができない中、たった一人の息子の生存を願い続ける六平に、あの日の出来事を詳細に伝える。千鉱が生きていたことに安堵したものの、男の支配下にある状況に苦しそうに顔を歪めた。
六平曰く、男と千鉱との間に結ばれた命滅契約は厳密には二つの性質を持つ。一つは淵天との間に結ばれた本来のもので、他の妖刀同様所有者が死なない限りその力は彼らにしか扱えない。もう一つ、妖刀と同化というイレギュラーな現象を起こしたことにより変質し、千鉱自身との間に主従関係のような契約が結ばされている。強制的に自我を奪い命に従わせるそれは、千鉱を縛る枷。襲撃に遭った日、六平との間に結ばれていた命滅契約を解除できたのはあくまで六平と千鉱が対等な関係であり、所有者である六平が千鉱の意思を抑えるようなことがなかったからだ。外部から干渉すると千鉱の身に影響が及ばないとは言い切れず、千鉱を取り戻しても本当の意味での解放とは言えない。傷が治ってからというものの、試行錯誤する日々が続いていた。
『…そうか。何か他に手掛かりになりそうなものは』
「玄力の名残りからして此処に来たのはチヒロ君だけや。…もう少し早よ来れてたら」
まだ乾ききっていない血痕。あの男の情報を再度神奈備のブラックリストから洗い出したが該当するものは何もなく、柴も独自の情報網で調査したが結果は不発だった。この建物を拠点にしていた極道の裏に毘灼の影を突き止め、急ぎ向かったものの既に制裁は下されていた。調子に乗った輩が毘灼に刃向かったのか、それとも用済みの荒くれ者達を始末したのかは分からない。だが、僅かに残っていた玄力の名残りが、千鉱が来たことを証明している。
『奴らが次に動き出すのは楽座市だ。直接来る可能性は低いが、どっちにしろ神奈備は真打落札のために動く。僕は動けないけど、お前はどうするんだ』
「行くに決まってるやろ。チヒロ君が来る可能性が1パーでもあるんやったら、俺は動く」
『……分かった。気を付けろよ』
薊との通話が切れ、一つ息を吐く。あの男との戦闘により、秘匿されていた七本目の妖刀の存在が明るみになってしまった今、一刻も早く千鉱を保護しなければならない。六平の息子であり、淵天と同化している千鉱の存在はまだ隠し通せているが時間の問題だ。何より、これ以上千鉱の手を血で汚したくはなかった。
(…チヒロ君)
ぐ、と拳を固く握り締める。脳裏を過るのは、虚な瞳で男の腕に力なく抱えられた千鉱の姿。
『千鉱はもう俺の所有物ものだ』
嘲るような薄い笑みと千鉱に向けられた深い執着の籠った昏い瞳。あの表情と声が忘れられない。焦燥感を抑えつけ冷静さを保つ。手印を結んだ柴の姿が瞬時に消えた。
楽座市は数日後に迫っていた。
ある一室で男が二人、テーブルを挟んで向かい合っている。優雅に足を組む壮年の男。漣家当主にして楽座市の競売人、漣京羅が眼前に置かれたアタッシュケースに目を向ける。中には掌で握り込める程の大きさの石、雫天石が黒く鈍い光を放っていた。
「これは?」
「双城厳一が遺した人生の成果だ」
対面に座るのは毘灼の統領である男。双城の名において京羅の元に出品を持ちかけられた真打。稀代の刀匠、六平国重の最高傑作とも呼べる妖刀が品として加わり、今年の楽座市は間違いなく歴史上最高のものとなるだろう。過去最大の客が参加を表明し、開催が迫る今裏社会の何処においてもその噂で持ちきりだった。一重に目の前の男のお陰だが、毘灼という組織自体が闇に包まれていて全容が分かっていない。その他にもいくつか手を貸してもらっているが、その目的が何なのか聡明な京羅にも掴めていなかった。
「使い所は選べ。一時的だ」
「謹んで受け取るとしよう。だがそれより、私が気になるのは其方の青年だがね」
男の斜め後ろに視線を遣り、静かに控える青年へ視線を遣る。まだ若く、息子の伯理と年齢は近そうだ。黒いコートに身を包んでいるが、まだ青年に成りきれていない線の細さが見える。唯一見える肌には大きな傷が刻まれており、危うい色香を放っていた。目を惹く赤い瞳は此方を向いているものの焦点は合わず、人形のように無機質だった。
「気になるか?」
「ああ。職業柄目は良くてね。わざわざ連れて来たんだ。妙な玄力といい、何かあるんだろう?」
「流石だな。貴方には教えてもいい」
男が背後へ視線を遣ると、此処へ来て初めて青年が動いた。持ち上げた左手に金色の光の粒子が集まり、一つの形を取る。握られていたのは一振りの刀。装飾的な照明を受けて白銀の刃が光を放ち、刀身の鋭さを強調している。競売人として数多くの商品を見てきた京羅の目が、目の前の刀が”本物”だと訴える。
「それは…」
「六平国重が戦後唯一生み出した、七本目の妖刀だ」
「…七本目?聞いたことがないな」
「これと共に秘匿されていたからな。得も言われぬ美しさがあるだろう?」
再び青年へと目を向ける。鞘から抜刀せず何もない空間から刀を取り出したのは気になるが、自身と同じ蔵のような能力を持っているのだろうか。妖刀契約者は自身の妖術を失う筈だと記憶しているが。だが、妖刀を手にする青年の姿は不思議とよく馴染んでいるように見えた。
「成程、納得したよ。それで?良いものを見せられたら欲しくなるのが商人の性だが」
「残念だがこれはやれない。千鉱これごと渡すわけにはいかないからな」
「……?」
京羅には分からない言葉を残し、立ち上がる男。青年の手から妖刀が光を帯びて消えていった。
「今回は荒れそうだな。祭典の成功を期待している」
意味深な薄い笑みを浮かべ立ち去っていく男に続き、此方を一瞥することなく青年も後に続く。一人残された京羅が先程の言葉を反芻する。乱入者など些末なこと。やることは変わらず、当主として務めを果たすだけだ。
楽座市当日。十二時を知らせる鐘の音が、楽座市開幕を告げた。
漣家について調査を進める柴が偶然出会った、京羅の息子の一人、漣伯理。”あの糞みたいな祭典をぶっ壊したい”そう語る伯理を当初は警戒していたが、話を聞くうちにその必要がない存在だと認識を改めた。それどころか、当主である京羅の蔵の能力や緊急搬出用扉の存在、蔵に入ったことのある伯理の存在は重要だった。
今回の目的は二つ。一つは、神奈備の手に渡る前に真打を回収すること。これは六平からの頼み事だ。もう一つは、此方は可能性は低いが千鉱と接触したら連れて帰ること。七本目の妖刀の存在が明るみとなり、薊から神奈備の最高戦略の一つである香刈緋雪が派遣されることを知った。万が一接触した場合千鉱の意思とは関係なく戦闘になってしまうだろう。六平国重の息子であること、毘灼の手の元にあることを知られてしまった場合、命を狙われることになる。まずは真打回収のため、柴は伯理と共に扉がある地下へと向かっていた。
壇場に立つ京羅が今回の目玉である真打と斉廷戦争の歴史を語り始める。会場が熱狂に包まれ盛り上がる中、観客席の出口付近に静かに立つ青年。京羅の口から六平国重の名が出た瞬間、何も見つめていなかった瞳が瞬きし、音の出所を静かに見つめる。
「千鉱」
背後から現れた大きな掌が千鉱の目元を覆う。視界が暗くなり周囲の音が遠ざかった。僅かに波打った心も凪いでいき、浮かび上がった思考も散っていった。千鉱の殺された心情を察したように、大きな手がゆっくりと離れ、そのまま何か言葉を発しようとした男の動きが不意に止まる。
「……」
その視線が会場全体へと移り、何かを探るように昏い瞳が一点を見つめる。ゆったりと口角を上げた男が、千鉱の肩へ手を置き、耳元へ唇を寄せた。
「遊んでくるといい」
耳朶に口付けを落とした男が離れていく。千鉱が後ろを振り返ると、先程までいた男の姿は消えていた。与えられた命のままに、ゆっくりと会場を後にした。
地下へと辿り着いた柴と伯理。最も厄介な宗也を引き付けた伯理が立ち去り、残る濤を柴が相手取っていく。途中転送された雫天石を手にし強化された天理だったが、タイムリミットによって命を落とした。残る二人も気絶させ、そのまま通路を進んで行く。伯理の話通りなら、この先に京羅の蔵へ繋がる扉があるはずだ。一際大きな扉を開けた柴の瞳が見開かれる。
広い部屋の奥、階段を上がった先に一人の青年が立っている。背後には開け放たれた扉。厳重に閉ざされていただろうが破壊され地面に転がった錠は役目を失い、侵入者の存在を許してしまっていた。柴の存在に気付きゆっくりと振り返った男──千鉱の瞳が柴を捉えた。
「チヒロ君…!」
開いた扉の先、小さな部屋の床に備え付けられた扉のようなもの。伯理に聞いていた大方の装飾はあっているが、無惨にも破壊され瓦礫と化していた。千鉱が破壊したことは想像に易かった。
「涅」
刀を構えた千鉱の側で、黒い金魚が宙に踊り出す。振り抜かれた斬撃が柴へ向かって飛んでいくが、横へ飛び退き回避。玄力で肉体を強化し、駆け出した柴に逆に距離を詰められた千鉱へ手が伸ばされる。
「錦」
三色の斑模様の金魚が二人の間を遮るように顕現し、玄力を纏い加速した千鉱が距離を取った。片足を軸に体を反転させた勢いのまま淵天が黒い玄力を帯び、数十匹の小さな黒い金魚の群れが空間を埋め尽くす。
「涅、千」
威力を抑えた分広範囲に繰り出された斬撃が再び柴を襲う。逃げ場がないと判断したのか、手印を結んだ柴の姿が消え去る。瞬時に千鉱の背後へ飛んだ柴の重い蹴りは咄嗟に庇った右腕に受け止められたが、勢いは殺せず吹き飛ばされた。体勢を立て直すも痺れた右腕に意識が逸れた隙を見逃さず、再び距離を詰めた柴の手が今度こそ千鉱に触れた。両手首を掴み足を掛けて床に引き倒し、体重を掛けて全身を拘束した。
「チヒロ君!頼むから目ェ覚ましてくれ!」
「……」
必死な声で訴え掛けるも、千鉱に反応はない。無機質な瞳は冷たいまま、鏡のように柴の苦しげな表情を映すだけ。
「チヒロ君、自分を見失うな。自分の声を聞くんや。六平の、六平国重のことも忘れんといてくれ…!」
六平の名を聞いた千鉱の瞳が、微かに揺れる。奥底に沈んでいた自我が呼び起こされている。
「…君を守れなかった俺らが言えることやないけど。必ず君を縛る鎖を解き放つ。だから、今度こそ側で守らせてくれ」
拘束していた右手がそっと千鉱の頬へ添えられ、壊れ物を扱うように優しく撫でた。その感触に、どくりと千鉱の心臓が脈打つ。
(なつか、しい)
千鉱の意識が遠い昔へ飛んでいく。ずっと昔、自分がまだ幼い頃、目の前の男に同じように触れられた気がする。温かい場所で、よく訪ねて来たこの男と黒髪の男を迎えていた。小さな自分に合わせるように蹲み込み、大きな掌で頬を優しく包み撫でてくれた。
『チヒロ君、またデカなったな〜』
『この前会ったばかりじゃないか』
呆れたように笑う黒髪の男も、優しい眼差しで此方を見つめている。
『よかったなぁ、チヒロ!今日も遊んでもらおうな!』
後ろから聞こえてきた大きな声に、頬を撫でる大きな手に自分の手を重ね止めさせ、音の主へと振り返る。
そこには、自分と似た色彩を持ち笑顔を浮かべる一人の男が立っていた。
「ぁ、」
『お前の全てをよこせ』
ズキズキと頭が痛み、頬に付けられた傷が熱を帯びている。この傷はいつ、誰に付けられたのだったか。
「あ、ぁあう…」
『俺の所有物ものとなれ』
──五月蝿い。奥底から響いてくる男の声が、痛む頭をさらに刺激する。
『お前に逃げ場はない』
「チヒロ君、」
「ああぁあ!ぅぐ、ぐ、ああ…!」
割れそうに痛む頭痛に耐えきれず、叫び出し暴れる千鉱。我を失い玄力を纏った体が柴を強く弾き飛ばした。頭を抑え、固く瞳を閉じ苦しむ姿は、あの時の光景を思い出させた。
「チヒロ君…!」
「うる、さい…!うるさい!出ていけ!」
子どものように感情のまま叫ぶ千鉱。薄らと開いた赤い瞳が呼び掛ける柴の姿を捉えた。左手に光の粒子が集まり淵天が再び顕現する。揺れる視界のまま、苦しみから逃れようと刀を構え走り出す千鉱。向かって来た千鉱を止めようと手印を構えかけた柴だったが、一瞬の思考の後腕を下ろした。静かな瞳で千鉱を受け入れようとする、その姿に千鉱の瞳が見開かれた。
肉を貫く感触が伝わる。ぼたり、と赤い雫が地へ落ちた。
「ぁ」
何人も斬り捨ててきた筈なのに。もっと濃い返り血を浴びてきた筈なのに。自分が握った刀に視線を落とす。柄から鍔、刀身へと辿っていき、最後の切先は目の前の男の右肩を貫いて見えなかった。じわじわと、傷口から広がる赤い血がシャツを染め上げていく。
──自ら刺したのだと、遅れて実感が伴った。
「しば、さ、ん」
その表情が絶望に歪んでいく。自我を取り戻した瞳が柴をしっかりと映し出している。泣き出しそうに揺れているが涙は溢れていない。泣き方を忘れてしまった迷子の子どものように見えた。
「あ、おれ、しばさんを、さ、刺し、て」
「…落ち着き、チヒロ君。これくらい大丈夫やから」
刺された刀はそのままに右腕を持ち上げ、震えて離すことができない千鉱の手に柴の大きな手が重なった。そっと動かし、柴の体から刀を引き抜いた。ガシャン、と音を立てて地に落ちた淵天が消えていく。崩れ落ちた千鉱を支え、共に膝を着いて抱き締めた。
「ご、めんな、さい。ごめん、なさい…!柴さん、」
「チヒロ君、大丈夫。大丈夫や」
とんとん、とあやすように背を軽く叩く。久しぶりに抱き締めた体は華奢で、それでも最後に触れた時より確実に大きくなっていた。こんな形で成長を感じたくはなかったが。壊れたように言葉を繰り返す千鉱が漸く落ち着いた頃、体を離し肩へ手を置いた。
「チヒロ君、落ち着いた?」
「…は、い。柴さん、傷は」
「ほんまに大丈夫やから。気にせんでいい」
千鉱の頭に大きな手が乗せられる。父とは異なる撫で方が酷く懐かしかった。
「此処は一体…俺はどうして、」
「…記憶無いんか」
「はい。ずっと眠っているような感じでした。最後に何をしていたのかも分からないんです」
この様子だと恐らく薊と共に邂逅した日のことも覚えていないだろう。戦闘になったと知ったら目の前の子どもはまた気に病むだろうから、告げるようなことはしないが。
「此処は楽座市っていうイカれた祭典や。俺は真打を回収するため侵入してたとこ。その真打を出品したのが毘灼で、君が此処にいるのは恐らく奴に連れ出されていたから」
「真打…!ッそうだ、父さんは?父さんは無事なんですか!?」
父の存在を思い出し、焦燥感に駆られた千鉱を安心させるように柴が微笑む。
「大丈夫や。六平は傷も治って今は別の場所に匿われてる」
「っ良かった、父さん…」
安堵したように僅かに表情が緩む。一人囚われたままの千鉱にとって何よりも確かめたかった答えだっただろう。
「この件が片付いたらすぐに会いに行こな。…六平も、ずっとチヒロ君のこと心配してたんやで」
「…はい。ありがとうございます」
「っと。これ以上の話は悪いけど後や。今は真打回収するのに一人待たせてる子がおってな。そっちに向かわないかん。疲れてるとこ悪いけどチヒロ君も一緒に来てくれ」
これ以上千鉱と離れるわけにはいかなかった。目の届く範囲で、今度こそ守り切らなければならない。
「分かりました」
「ん。ほな行こか。手離したらあかんで」
差し出した柴の手に千鉱のものが重なる。戻って来た存在を確かめるように強く握り締め、二人の姿は消えていった。
見慣れない天井が目に入る。暫くぼんやりとしていたが、鮮明になった意識が見知らぬ環境に警戒を促し勢いよく体を起こした。そのまま立ち上がろうとして、体に走った痛みと倦怠感によりバランスを崩し、どさりと床へ崩れ落ちた。
「う…」
固く冷たい床の感触が幾分か千鉱の思考を冷静にさせる。白を基調とした壁とベッドから、恐らく病室で寝かせられていたのだと察せられた。向こうに囚われていた間は薄暗い部屋で過ごしていて、不本意にも慣れてしまった体がこの部屋の白さに違和感を感じている。
随分と久しく純粋な覚醒を経験した。いつからかは分からないが、男によって眠らされていた間は記憶がなかったから。そこまで考えて、あの男の存在が浮かび上がってくる。背筋を走った悪寒が全身に広がり手足が冷えていく。乱れそうな呼吸を必死に整え直前の記憶を呼び起こそうとするが、ぐるぐると混乱する頭がそれを許してくれない。
その時、ガラリと音を立てて病室の扉が開かれた。冷や汗をかきながら下がっていた頭を持ち上げると、音の主である柴と薊の驚いた表情と目が合った。
「チヒロ君!?」
血相を変えた柴が千鉱へ駆け寄り、倒れていた千鉱を抱き起こす。
「チヒロ君、どないしたん!?」
「柴、落ち着け。チヒロ君、僕達のことは分かる?」
扉を閉め鍵をかけた薊も駆け寄り、青褪めた表情をした千鉱の目線に合わせるよう膝を着いた。何度か瞬きを繰り返し、二人の姿をしっかりと捉えた。
「…柴さん、薊さん」
名を呼ぶと安堵の表情を浮かべた二人。柴の腕が千鉱の膝裏と背に回され、抱き上げられた体がそっとベッドに戻される。離れていった温もりに思わず縋りそうになり、伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
「チヒロ君、何があったん?…嫌な夢でも見た?」
「いえ、大丈夫です。…少し、知らない場所だったから、気が動転して」
僅かに俯き目線が逸らされる。無理もない。千鉱の心に巣食う闇は相当根深く、完全に助け出せたわけではないのだから。体調が万全ではない今の状況で、真っ先にそこを突くことは憚られた。視線だけで会話した大人二人が音もなく頷く。
「此処は一般の病院だよ。この部屋は僕と柴しか入れないようにしてあるから安心して」
「今は昨日から一夜明けたとこ。楽座市のことは覚えてる?」
「はい」
あの後妖術を習得した伯理と合流し、真打奪取のため漣京羅の蔵へ転送された千鉱は戦闘に入った。途中神奈備の最高戦略である香刈緋雪も混ざり共闘となったり、真打の力の一端を目撃したが、京羅を止め長きに渡り続いていた楽座市は幕を下ろした。無理が重なり意識を失った千鉱を即座に回収し、今に至る。
「…それにしても無茶しすぎや、チヒロ君」
蔵に残された囚われの身である人達を救い出すため、反対する柴を押し切り崩壊する蔵へと舞い戻った。無事間に合ったものの、命を落とす危険性だってあった。無事やったからええけどさ、とふるふる震えながら溢す柴に、素直に謝る千鉱。囚われていた人達と自分を重ねたから、なんて言ったら今度こそ黙ってしまいそうだったから何も言わずに留めた。
「囚われていた人達は全員無事だ。チヒロ君のおかげだよ、ありがとう」
「真打も、…あー、業腹やけど神奈備に回収させたったわ」
六平からの頼まれごとは完遂できなかったが、収まるところに収まったと考えるべきだった。
「それで、これからのことなんだけど、」
薊が言いにくそうに言葉を止める。柴は眉を顰め口元を歪めていた。
「チヒロ君にはこの後神奈備の本部に来てもらいたい。楽座市での戦闘でチヒロ君の存在が明るみになった。上は君と淵天の処遇を決めるつもりだ」
漣京羅との戦闘は激烈を極め、映像化されたそれは真打の価値を更に高め会場を熱狂させた。真打回収任務を下された神奈備の構成員により、六平国重の息子であること、七本目の妖刀契約者だと情報が渡ったのだ。これ以上千鉱の存在を隠し通すことは不可能だった。
「君と淵天を巡って議論は白熱するだろうけど、今の状況で唯一妖刀が使えるチヒロ君を悪いようにはしない筈だ」
「何かあったとしても薊が守ってくれる。話が拗れるから俺は行けへんけど、いざとなったらすぐ飛んでくから」
最後に呼び出されたのはいつだったか。戦後六平と妖刀の当たりが強くなり、喧しく吠える上層部数人を殴ったのは全く後悔していない。
「…すまない。本当はゆっくり休ませてあげたいのに」
「ごめんなぁ、チヒロ君。これが終わったら、今度こそお父さんに会いに行こな」
「……!はい」
自身の置かれている状況が決して良くないことを理解している。沢山の人間を殺め、その手が血に濡れていることも。それでも、早く父に会いたかった。遠ざかってしまった、懐かしい声と表情、温もりをこの身で感じたかった。
薊に連れられ、同じく病院で療養していた伯理や緋雪と共に神奈備本部へ連れられた。懸念していた通り、六平国重と妖刀を中心に議論が白熱していく。緊張感が走る会議の場に水を差したのは、慚箱襲撃の知らせだった。自身の存在に賭けるよう訴え、一時の信用を得ることに成功した千鉱。伯理と共に下された任務に覚悟を決め、足を翻した。父との再会は、暫く叶いそうになかった。
妖刀契約者殺害のため次の手を打って出た毘灼。酌揺の契約者である漆羽を護衛すべく、伯理と共に無事合流した千鉱。しかし、慚箱の守護者を破り三人の前に姿を現したのは一人の年若い男。見覚えのない目の前の刺客は襲撃を受けたあの日にはいなかったし、囚われてからも唯一接したのは千鉱を連れ去ったあの男だけ。毘灼の拠点に居ながらも他の構成員と顔を合わせたことは一度もなかった。そもそも千鉱はあの狭い部屋から滅多に外に出されることはなかったし、何より男が仲間にさえ千鉱の姿を見せなかったというのが正しいのだが、それを千鉱が知る由もない。
毘灼の象徴である手の甲に刻まれた炎の紋章が視界に入り、千鉱の心臓が嫌な鼓動を立てる。暗く冷たい檻の中と千鉱に向かって伸ばされる大きな掌。男によって深い所まで刻み込まれた苦痛は千鉱の心身を蝕み、自我を奪われる恐怖にも似た感情が染み付いて離れない。父の命を奪った奴らへの激しい憎悪よりも先に、無意識にそれらが呼び起こされていた。
襲って来た野良の妖術師を切り伏せていくも、攻め続ける刺客達に対し護衛対象を守りながら戦う千鉱達。狭い車内と確かな実力を持つ毘灼によって、徐々に身動きが制限されていく。漆羽もそれを感じ取ったのだろう。駅で目にした守護者達の最期と託された思いを抱えた強い瞳が千鉱を突き動かす。刀で貫いた男ごと窓を突き破り、空中に身を投げた。仙沓寺にいるもう一人の契約者と合流し、伯理の妖術で妖刀を転送する。時間を稼ぐためにも目の前の男を相手取る必要があった。
着地した二人が相対する。腹部を貫かれたというのに痛みを感じる様子すらない。それどころか嬉しそうに笑顔を浮かべて千鉱を見つめてくる。
「やっと会えたね、六平千鉱!今日をずっと楽しみにしてたんだ」
「……?」
「幽が気にかけてるからね。ずっと君とは遊びたいと思ってた!なのに全然会わせてくれないんだもん」
「…は、」
「迎えに来たよ、千鉱。一緒に帰ろう」
ドクン、と心臓が大きく脈打った。こいつは今何と言った。血の気が引いていく。千鉱の内に広がる動揺を知らずして、目の前の男は構わず話し続ける。
「幽も千鉱の帰りを待ってるよ」
“帰りを待っている”。その一言で脳裏を過ぎるのは一人しかいない。幽と呼ばれた男が、千鉱にとって最も忌むべきあの男と同じ存在であることを悟った。背中に嫌な汗が伝う。地に足が縫い付けられてしまったかのように体を動かすことができない。ゆっくりと、ねっとりと大きな掌が千鉱の首元に回されるような錯覚を覚える。それは蛇のように千鉱の首を這いずり、酷く優しく不気味な感触で包み込むように締め付けていく。
『お前に逃げ場はない』
千鉱の背後から囁かれた、何度も聞いた低い声が耳元から侵入し脳に染み渡っていく。額から冷や汗を流しながら、はく、と細く息を吐くことしかできない。男が植え付けた執着という名の鎖が、視えない手の形を取り千鉱を縛り上げていく。振り払えない。拒絶できない。地に足を着けているのに、深海に溺れてしまったかのように息が苦しい。
「…かえ、らない。帰らない!俺はあそこに居たくない!」
何とか声を搾り出し拒絶する千鉱。左右に振られた首は視えない拘束から逃れるためか、それとも嫌々と拒否を示す子どもの姿か。胸を巣食う暗い感情を必死に追い出し、硬直した体を叱責して構えた淵天から水滴が迸り、美しい金魚が舞う。仇への憎しみを思い起こし強い瞳で睨み付ける。淵天を握るその手が僅かに震えていることに、気付かぬふりをして。
「えー、帰らないの?じゃあここで遊んでいこう!二人きりじゃないのは残念だけどさ」
雫天石によって強化された妖術師達に囲まれる。千鉱が地を蹴り飛び出したと同時に一斉に襲いかかって来た。
「俺とおんなじ。お前となら友達になれる」
昼彦と名乗った男が、千鉱の太刀筋を避けながら笑う。その瞳は純粋さを帯びていて冗談を言っているようには見えなかった。妖術で編み出した無数の紙によって姿を眩ました昼彦。
(逃すか…!)
錦によって加速した千鉱を追うように次々と湧き出てくる刺客達。光に群がる蛾のように現れる邪魔者を斬り捨て駆け抜けた。
昼彦を追い辿り着いた演劇場で、逃げ惑う市民の存在が千鉱の切先を鈍らせる。昼彦の妖術により全身に深い傷を負うが、身を盾にして反撃し昼彦の両腕を斬り落とした。毘灼の情報を吐かせ、さらに伯理によって飛宗の転送に成功したことを知る千鉱。しかしその後、昼彦の口から紡がれたのは座村と毘灼が協定を結んだという衝撃の事実だった。信頼していた大人の裏切りに動揺する千鉱の隙を突き、距離を取った昼彦が酌揺を捉える。
「酌揺」
込められた玄力が増幅し、二体の遊女が具現化する。優雅に舞うそれらを見た千鉱の脳裏に、先程別れた漆羽の姿が過る。目を見開いた千鉱の周りから、ポココと音を立てて黒い泡が浮かび上がる。伯理の蔵の能力によって呼ばれているのだ。大きく膨らんだ泡はやがて視界を黒く塗り潰し、まだ慣れない浮遊感が千鉱を襲った。
黒い視界が徐々に晴れていき、外気に触れたことを感じる。最初に目に映ったのは、辺りを覆い尽くすほど宙を舞う黒い羽。血を流し地に伏せる漆羽と倒れている伯理。そして。
「随分と血生臭くなっちまったなァ、千鉱」
まるで千鉱が来ることを分かっていたように、静かに佇む座村の姿だった。
「なんで…ッこれ、座村さんが……?」
座村と初めて出会った日の記憶が呼び起こされる。たった一度の邂逅だったけれど、少し変わった人柄で印象的だったのを覚えている。千鉱の狭い世界の中に現れた、父や旧友二人とはまた違う方向で尊敬できる存在だったのだ。千鉱の瞳が大きく揺れる。目の前の光景を受け入れられない頭が激しく混乱している。意識して呼吸をしないと揺らぐ視界の中で立っていられなくなりそうだった。
千鉱に向かって一歩足を踏み出した座村の体がピタリと止まる。スン、と鼻を鳴らし彼にしか嗅ぎ取れない匂いを感知し、固く眉根を寄せた。
「…どういうことだ。何故お前から、」
僅かに動揺したような声色が千鉱の耳に届く。サングラス越しの視線が千鉱を捉える。二度と開くことのない閉じられた瞼の奥から強い眼差しを感じた。
「…そういうことかよ。お前は…」
何かを悟ったように、凪いだ声で紡がれる。それが千鉱の耳に届いた時には、瞬時に距離を詰めた座村が目の前に立っていた。
「さ、」
鴉の鳴き声が響き渡る。漆黒の羽が優雅に宙を舞う。
背後からキン、と鍔鳴りが響いた。遠ざかっていた全ての音が戻ってきたと同時に、千鉱の体は鋭く重い衝撃に貫かれていた。抜刀する瞬間さえ、ましてや刀身さえ見えなかった。父が賞賛していた瞬速の剣技で、千鉱は無音の居合で殺されたのだ。
千鉱の体が膝から崩れ落ち、握っていた淵天と共に地に倒れ伏す。出血は見られない。だが、”何か”を斬られた。指先一つ動かせず、狭まってきた視界が近付いてくる座村の姿を捉える。その手が淵天に伸ばされる。
(いや、だ…)
座村の手が触れる直前、淵天の輪郭が解け光の粒子となり千鉱の身体に吸い込まれていった。
「……」
屈み込んだ姿勢のまま空を切った自身の手を見つめ、その視線が千鉱の身体へ移る。見えている筈がないのに、その目は正確に胸元へ向けられていた。うつ伏せに倒れている千鉱の側へ膝を着き、座村の大きな手が千鉱の体を抱き起こした。
「き、らなきゃ…毘灼も、あなた、も」
「…あとは俺がやる。お前はもう何もしなくていい」
絞り出された小さな声は泣き方を忘れた慟哭のようで、座村の指先が見えない涙を拭うように千鉱の目元を撫でる。手探りで千鉱の首元にあるファスナーを掴み、するすると下げていく。急所を守っていた一枚の薄く黒い壁がいとも簡単に破られ、滅多に晒されない白い首が表に引き摺り出された。全身を包む黒の中で、まだ青年の域に足を踏み入れたばかりの線が細い白色が浮かび上がり、コントラストを生み出している。何かを探るように座村の指が千鉱の開かれた身体を滑る。やがて胸元の傷痕へ辿り着いた指が労るように撫で上げ、軽く爪先を立てた。
「や…ぃや、だ」
むずがるように逃げようとする千鉱。弱々しい抵抗を物ともせず、千鉱の背と膝裏に腕を回し抱え上げた。立ち上がり、静寂に包まれた慚箱を見渡す。短くはない時を過ごした要塞は破壊の爪痕を残し、多数の護衛も傷付き命を散らした者もいる。もう止まらない。終わらせる。六平国重の名の元に罪深き契約者と毘灼を殺し、清算する。
千鉱を抱え去ろうとした座村の耳が、僅かな音を捉える。目を閉じた故に超人的に研ぎ澄まされた聴覚が、風を切り裂き此方に向かってくる存在を知覚した。
「鴉」
瞬間。目の前に現れた柴が座村を、否、千鉱を取り返そうと手を伸ばす。しかし、二人の間から無数の鴉の羽が溢れ出し、伸ばされた手に触れたのは一枚の立派な黒塗りの羽だけ。
周囲を覆う黒が舞い落ちる中、背後を振り返る柴。視線の先で音もなく着地した座村と、その腕の中でぐったりと身を預ける千鉱の姿があった。意識はかろうじてあるのか、薄らと開いた赤が覗いていた。
「遅せぇな、柴」
「…座村ッ、どういう…」
動かない護衛と血塗れの漆羽。この惨状を起こしたのが目の前の友人であることを悟るも、その腕の中に囚われている千鉱の存在に意識を持っていかれる。かつて薊と共に対峙した、毘灼の統領に抱かれ力なく目を閉じていた千鉱の姿と重なる。
「どうもこうもねえよ。契約者も毘灼も皆殺しだ。悪を滅し妖刀を巡るしがらみも全て清算する」
腕の中の存在を見下ろす。噂に聞いていた七本目の妖刀、淵天の契約者。先程の感覚からして、他とは違いどうにも特殊な事情があるようだが。初めて邂逅した日を思い出す。懐かしい匂いを嗅ぎ取り足を向けた先で六平が健在なことを知り、そしてこの小さな存在に出逢った。座村にとって千鉱はあの日の記憶のまま、戦争も外の世界も知らない守るべき存在だった。
「──悪いが、千鉱は連れて行く。こいつも解放してやらないといけねぇ」
「…ッ!チヒロ君!」
「飛宗」
柴が手印を結ぶ素振りを見せた瞬間、轟々と激しい風が吹き荒れる。抜刀せずとも主の命に応えた飛宗が、敵を排除しようと牙を向く。風に乗った漆黒の鋭い羽が柴を無遠慮に切りつけ、空間を支配する。
「しば、さん」
柴の呼び声が聞こえたのだろう。千鉱が重い体を必死に動かし、声の方へ顔を向ける。黒い羽に埋め尽くされた空間を見遣る千鉱の瞳は、大きな掌に覆われた。分厚くて少しかさついた、刀を握る人の手。頭を撫で表情を見ようと掴まれた大きな手の感触を思い出し、温かく懐かしい記憶と共に千鉱の意識は沈んでいった。
拠点の一つ、廃墟のように瓦礫が散らかった室内に男が佇んでいる。部屋の中央、テーブルの上には立派な花瓶が置かれ鮮やかな花々が生けられていた。窓から夜空を眺めていた男の視線が、ふと室内へ向けられる。何もない空間から突如鴉の羽が湧き上がり、ひらひらと優雅に舞う。瞬き一つした時には座村と、その腕の中に抱えられた千鉱の姿があった。
「おい、どういうつもりだ。何故千鉱が毘灼こっちにいる」
「言う必要があったか?あんたとの協定には含まれていないしな」
冷たい声で男──幽が素っ気無く答える。互いに一致した目的のため協定を結んだ両者。罪人悪党と毘灼悪党。相容れない者同士、言葉を交わすことはあっても心の内が交わることは決してない。
「…千鉱をどうするつもりだ」
「またその問いか。奴らと同じことを言う。千鉱は俺の所有物ものだ。あんたには関係のないことだ」
昏い瞳が千鉱へ向けられる。底の見えない深い水晶は千鉱だけを映し出していて、その姿が中へ閉じ込められる。ゆっくりと掌が差し出された。
「戻れ・・、千鉱」
幽の命が沈んでいた千鉱の意識を僅かに掬い上げる。固く閉じられていた瞼が震え、虚な赤い瞳が開かれた。座村の腕の中から抜け出した千鉱が、ゆっくりと幽へ向かって行く。差し出された掌に己のものを重ね、流れるような動作で腰を抱かれ両者の体が密着した。
「…お前、千鉱に何をした」
低く唸るような声で問い掛ける。慚箱で転送された千鉱と相対した時、座村が嗅ぎ取ったのは血の匂いだけではない。それを掻き消すほどの、目の前の男の匂いを強く感じたのだ。千鉱自身の匂いさえ分からなくなるほど体に纏わりつく様は、まるで呪いのようだと思った。
「何も。…ああ。強いて言えば、あんたとの”指切り”みたいなものか」
両者の小指に巻かれた糸のようなそれは、契約の証。互いが提示した条件を守り、履行するための一種の妖術だ。破れば相応のリスクを負い、信頼関係も何もない者同士が均衡を保つための保険でもあった。
幽の手が千鉱の目元にかかり、瞳を閉ざさせる。力の抜けた体を抱き留め掌印を結んだ。炎が二人を包み込み体が欠けていく。
「あんたは契約者殺しに集中すればいい。結界や人員配置の全容を把握したら伝えさせる」
そう言い残し完全に消えていった二人。再び静寂を取り戻した室内で、座村の息遣いだけが響いている。
「……」
楽座市に出品された真打が神奈備の手に渡った後、毘灼の一人、伝言役を務める構成員が計画と共に伝えてきた言葉。”逃げ出した黒猫が其方に向かうようだから、ついでに連れて帰れ”と。言われた当初は何を指しているのか怪訝に思っていたが、千鉱と対峙した時その意味を理解した。あれは呪縛だ。千鉱の意思さえ捻じ曲げて従わせる、頑丈な首輪。全容が見えない以上、不用意に手を出すことは憚られた。
悪党は皆殺し。統領であるあの男も間違いなく地獄へ屠る。だが、千鉱は地獄こっちに来なくていい。何も知らないままでいい。もし、あの男と結ばされた契約で千鉱が苦しむことになるのなら。
「…その時は、俺がこの手で解放してやる」
その命の終わりを以て永遠の安寧を。誓うように飛宗をきつく握り締めた。
コツリ、コツリ。幽の革靴から鳴らされる音が、死んだように眠る千鉱の僅かな息遣いを殺している。千鉱は気づいているのだろうか。大層短かった脱走劇は敢えて見逃されたものであることを。幽と千鉱の間で結ばれた契約に物理的な距離の制限はなく、幽の気まぐれで自我を保てていたことを。離れられたと安心した千鉱を操って、千鉱を案じていたあの二人を殺すよう命じても面白いものが見れたかもしれない。自我を残したまま体の自由だけを奪い、大切な存在に刃を向ける千鉱は果たしてどのような表情を魅せてくれただろう。絶望に染まった顔で、涙を流しながら泣き叫ぶのか。一層磨かれた憎悪と殺意を此方に向けることができたかもしれない。そこまで考えて、存外千鉱に向ける執着が深いことを知る。愛で甲斐のあるこの黒猫のこととなると、案外耐え性がないらしい。
辿り着いた薄暗い部屋に足を踏み入れると、背後で襖が一人でに閉まった。抱き抱えた千鉱を寝台へ下ろし、そのまま幽も乗り上げる。四方を覆う天蓋は二人の姿を包み込み外の世界と隔てる檻のようにも見えた。
千鉱の体を組み敷き、憎悪の象徴である炎の紋章を刻んだ幽の手と千鉱の手が絡み合う。
「目を醒ませ・・・・・、千鉱」
水底に沈む千鉱の覚醒を促す。奥底から呼び覚ます主の声を聞き、意識が水面へと浮上していく。瞼の裏に隠されていた、惹かれて止まない赤色が徐々に姿を現していく。まだ覚醒しきれていないぼんやりとした瞳に、冷たい現実を突きつけるように幽の空いた手が千鉱の頬へ添えられる。触れられた感触が最後の引き金となり、光の灯った大きな瞳が目の前の男を映した。
「おかえり、千鉱。束の間の自由は楽しかったか?」
その先には一条の光もない。優しく、残酷に微笑む悪魔が見せる悪夢は、まだ終わらない。