ホッとした香りと温かさに、また涙が滲んだ。
(何に泣いているんだろ……)
別れたことで泣いているのか、浮気されたことが悲しいのか、今後のことが不安なのか、芳也に言われたことに傷ついたのか……。
広い浴槽でギュッと自分の膝を抱きしめて、膝に頭を埋めた。
着る服装に悩んだが、どうせ自分の部屋に閉じこもるし……と、お気に入りのもこもこのパーカーに、同じ素材のショートパンツを履いてバスルームから出た。
「出たのか? それと、どこに行くんだ?」
リビングから芳也に声をかけられ、その方向を見た。
「え? 自分の部屋……」
「いいから、こっち来い。飲むの付き合ってやるから」
「いいです」
(これ以上、また何か言われたら今はちょっときついよ……付き合ってやるとか偉そうに!)
自分の部屋のドアに手をかけたところで、腕を掴まれて、グイグイとリビングへ引きずられるように連れてこられた。
少し照明の落とされたBARのような雰囲気のリビングには、先ほどの缶チューハイやおつまみが置いてあり、
そして芳也の手にも、ウイスキーの入ったグラスが握られていた。
「こっちからの夜景の方が綺麗だぞ」
グラスを持ったまま窓を指さすと、カランとグラスの氷が音を鳴らした。
そのまま芳也に促されてソファにおそるおそる座ると、麻耶は夜景を眺めた。
(うわー本当にキレイ! 宝石箱みたい!)
ちらりと芳也に目を向けると、大きなテレビの画面で昔の洋画を見ていた。
「今日は……悪かったな」
「いえ……」
(謝らないでよ。私が悪いみたいじゃない。ただふざけただけのことを、真に受けるなって言えばいいじゃない)
急に芳也に謝られて、麻耶は気まずくなり、また夜景に目を移した。
「風呂、ちゃんと入ったのか?」
「ありがとうございます。入浴剤まで……」
「貰い物だから気にするな」
「はい……」
(もうっ、本当に急にそんな思いやり見せないでよ)
麻耶は落ち着かなくなって、グイッとチューハイを飲み干した。
「俺……」
ふと言葉に詰まった芳也の言葉に、麻耶もテレビの画面に目を移した。
そこには、10代の男の子と女の子が、木々の茂った小さな教会で将来を誓うシーンだった。
「私この映画知ってますよ。『Little Kiss』でしたっけ? このシーン見てこの仕事に就きたいって思ったぐらい」
「え?」
驚いたような芳也に、麻耶は複雑な表情をすると、空になった缶チューハイをテーブルに置いた。
「え? って……この映画を私が知ってたらおかしいですか? かわいいですよね。『お口へのキスは大人になって本物の結婚式の時ね』って、この男の子のセリフ」
「いや……マイナーな映画だし」
「社長だって見てるじゃないですか? この映画の影響もあるのか、よくご新婦様に誓いのキスの話をするんですよ。どこにキスするか悩む方多いので」
「やっぱり多いんだ」
映画を見ながら、芳也も疑問に思ったことを尋ねた。
「知り合いも多くいるし、恥ずかしがるご新婦様も多いですよ。聞かれたら一応意味は答えるようにしてますけど。
だって、額のキスって友情のキスでしょ? だから頬へのキスを推奨してます」
「何を偉そうに言ってるんだよ。推奨って……頬のキスは厚意のキスか」
芳也はくすりと笑うと麻耶を見た。
初めて見る素の笑顔に、麻耶はドキンと胸が音を立てた。
「そうです。恥ずかしがらず堂々と口へキスしてくれていいですよね! ご新郎様はもっと強引に……」
「バカ? お前」
呆れたように言った芳也に、麻耶は「どうせバカですよ」と少し拗ねた表情の後、じっと映画に見入った。
「この映画って……昔は可愛い映画って思ってましたけど……」
「うん」
「でも……今思うとすごく切ない映画ですよね。大人の恋」
麻耶もじっと映画を見つめながら、言葉を発した。
「ああ、この2人は将来別の人と結婚するんだよな……。いろいろな障害に遭って。初恋は実らない……か」
なぜか意味深に聞こえたそのセリフを、麻耶も心の中で繰り返していた。
「私はやっぱりハッピーエンドが好きです……」
ぼそりと言った麻耶に、芳也はふっと笑みを漏らした。
「バカにしてるんですか?」
「いや」
(いいもん。どうせ初恋じゃないけど、私の恋も終わったし)
そんな麻耶に気づくこともなく、何も言わずに芳也は立ち上がると、キッチンに行き何かを作っているようだった。
グラスを持って戻って来ると、さっきより麻耶に近い場所に座ると、グラスを麻耶に渡した。
「なんですか?」
「なくなったんだろ? 酒弱そうだからこれにしとけ。ビール少しとジンジャーエール多めのシャンディガフ」
真面目な顔で言った芳也に、麻耶も素直に「ありがとうございます」とそのグラスを受け取った。
口に含むと、炭酸が心地よく口の中に広がった。
そして、なぜかまた涙が溢れそうになり、慌ててグラスを机に置くと、膝を抱えて頭を埋めた。
「おい。隠れるなよ」
額をデコピンのようにはじかれ、麻耶はイラッとして顔を上げた。
「やっぱり泣いてる」
優しい顔でくすくす笑いながら、黒い瞳が麻耶を覗いていた。
「……うっ……だって……4年も一緒にいたら……やっぱり寂しい」
「そうか。本当に悪かったな。つい、お前見てるといじめたくなるな」
「いじめたくなるって……」
涙を流しながら睨みつけた麻耶の涙を、そっと芳也は指で拭うと、髪を撫でた。
その行動に、麻耶は驚いて目をまん丸くしたが、撫でられる手が優しくて、また涙が溢れた。
「ほかに好きな人ができたことすら気づかなかった。すれ違っていたことには気づいていたのに、気づかないふりをしてた。仕事がおもしろかったの」
「それはありがたいな」
「そうよ! 社長のせいで……」
そこまで言って、麻耶は「ごめんなさい……」と呟くように言うと、涙が頬を伝った。
「悪かったな。おもしろい仕事をして。でも……いい仕事だろ? いろいろあるだろうけど」
悪びれた様子もなく言った芳也だったが、麻耶の頬の涙を拭う指は優しかった。
「お前は幸せになれるよ。いつも仕事で人の幸せを願っているんだから」
「そう……かな……」
なぜか優しい芳也に、戸惑いが隠せず、麻耶は一気にシャンディガフを流し込んだ。
「おい! そんなに一気に飲むと……」
カーッと頬が一気に熱くなるのを感じて、麻耶は慌てて、
「行き倒れしないためにも自分の部屋に行きます! 今日は迷惑はかけられない」
その言葉に、芳也は笑いながら、
「じゃあ、今日はお詫びだ」
「え?」
そう言うと、そっと麻耶は芳也に抱きしめられていた。
「ちょ……社長?」
「大切な物がなくなった時は、誰かに甘えたいだろ? 甘やかしてやる。その代わり、また明日から働けよ」
耳元で優しくささやかれ、酒のせいか、この状況のせいかわからないが、心臓の音がうるさく麻耶の耳に響いた。
(イジワルなのか、優しいのか……どっちよ……)
そんなことを思いながら、一気に飲んだアルコールがまわり、芳也の腕があたたかく、久しぶりの熱に体を預けると、そのまま優しい眠りに吸い込まれた。
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