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「……うるさい。放っておいてよ」
私は顔を伏せたまま、震える声で言い返した。
せっかく『恋が叶うリップ』を塗って、あんなに勇気を出してテニスコートまで行ったのに。
現れたのは、私なんて足元にも及ばないくらい綺麗で、先輩と同じ世界に立っている成瀬先輩だった。
「放っておけるかよ。お前の泣きっ面、うちの親に見られたら俺が泣かせたと思われるだろ」
遥の声がすぐ隣でする。見ると、彼は私の隣の壁に背中を預けて、地面に落ちている小石を蹴っていた。
「……あんな人、いるなんて知らなかった。先輩、あんな顔して笑うんだね」
「……あいつらは中学からずっと一緒にやってきてんだよ。今さらお前が割って入る隙なんてねーよ」
追い打ちをかけるような遥の言葉に、こらえていた涙がポタポタと地面に落ちた。
すると、遥が「……ほら」と、乱暴に自分の制服の袖を差し出してきた。
「え?」
「ハンカチ持ってねーんだろ。貸してやるから、それで拭け。……お前のその、変な色の口紅も取れかかってて、余計に見苦しいぞ」
「……これ、変な色じゃないもん。ピンクだもん……っ」
私は文句を言いながらも、遥の袖に顔を埋めた。
遥からは、いつも通りの少しだけ落ち着くシャボンの匂いと、放課後の教室みたいな匂いがした。
「……紗南。兄貴は、お前のこと『隣の妹』としか見てねーよ。でも、」
遥がそこで言葉を切り、私から少しだけ目を逸らした。
「……でも、俺は一回もお前のことを『姉貴』だなんて思ったことねーから」
その言葉の意味を考える余裕なんて、今の私にはなかったけれど。
遥の手が私の頭に一瞬だけ触れて、すぐに離れていったことだけは、はっきりと覚えていた。