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屍使いの長フシュネアルテに事細かく事情を話すことはしなかった。
ともかく、いずればれるとしても魔導書のことなど率先して話す必要などないとレモニカは判断したのだった。兄ラーガにもまた魔導書のことなど詳しく話したわけではない。とはいえ当然ヘルヌスに聞き及んでいることだろう。しかしそれを協力者である屍使いの長に連絡していないということは、少なくともクヴラフワで魔導書を奪いに来ることはないはずだ。
そして己の呪いのことも無闇に打ち明ける必要はない。徒に警戒心を煽るだけだ。
かといって大王国の王女がクヴラフワを救うために行動しているというのも不自然な話なので、偶然再会した兄ラーガを助力するつもりでやってきたことになった。
それから暫くして、おおよそ昼だろうと見なされている時間が過ぎると大王国の調査団が調査を開始した。調査団もまたこのムロー市に到着したばかりで、まずはこの複雑怪奇な摩天楼と回廊の絡み合う街の全容を把握するのだという。レモニカとソラマリアもそれに随行することにした。
調査団は幾つかの班に分かれ、別々の通り、筋を進む。一つの班は地学や考古学に通じた学者、巨人や神話を究めんとする魔法使いの調査員といくつかの氏族出身者が入り混じったライゼン戦士やまさに故郷へと帰還した屍使いの護衛で構成されていた。どこの土地でも呪いや救済機構との遭遇を警戒して同様の方法で調査を行っていたらしいが、ムロー市では救済機構の僧侶は見当たらず、呪いの顕現たる歩く死者たちが襲ってくる様子もない。
レモニカたちはフシュネアルテとイシュロッテの班に随行することにした。調査はまだ一日目だ。まずは巨人の遺跡らしいものを見つけるべくムローの都全体を足で巡るしかない。
「折を見てこの地のシシュミス教団の神官のところに向かうわ。ハーミュラーさまがいらっしゃればいいんだけど」とレモニカは班の後方で一行を追いながらソラマリアに囁く。
「仮にいたとして、呪いを復活させたのは教団ですか、と尋ねて、答えてくれますでしょうか」
「何を言っているのよ。もちろん答えてくれるわけがないわ。それよりもシシュミス教団の長がわざわざこの時勢に中央を離れた理由を知ることが重要よ。今や暫定的な統治者であるシシュミス教団の長が直接動くということはそれなりの理由があるはず。彼女はクヴラフワの呪いを研究しているという話だったけれど、今となっては研究者も多数いるはずよ。工房のような施設も中央の方が充実しているはずだわ」
「なるほど。ではそもそも奴がムローの都に来ていなかったなら、いつも通り解呪するということでよろしいですね?」
「全然よろしくないわ」とレモニカはぴしゃりと否む。「少なくとも直ぐには解呪できない。見ていなかったの? 屍使いの中には死んでしまった親類と再会して泣いて喜んでいる方々もいたのよ? 水を差す気?」
「そうは言っても解呪しないわけではありませんよね?」とソラマリアは不安そうに身を屈めて囁く。身を屈めているのは不安だからではなく、レモニカとの身長差のためだ。
「そうね。一通り再会が終わったらね。あと、今回は出来ればわたくしたちが解呪したということを知られたくないわね。隣人を土に返したせいで恨みを持たれれば信仰心どころではないもの」
この街には死者に交じって生者も変わらず生活しているはずだ。でなければ信仰心も何もない。
時折街で見かける人々をレモニカはじっと見つめて観察するが振舞いだけでは全く生死の区別がつかない。しかし見た目には明らかに肌の色がくすんでいる者もいれば、内臓が零れ落ちている者、干からびている者もいる。その姿は千差万別だ。もしかしたら生者と変わらない者もいるかもしれないが。
姉フシュネアルテが妹イシュロッテを伴って、――とはいえイシュロッテがフシュネアルテを伴っているかのように姉の前を歩いているのだが――レモニカたちの元へ来る。
「レモニカ様。改めて先ほどの不躾な態度をお詫び申し上げます」とフシュネアルテがさすがに妹の背中から少しばかり身をさらけ出して頭を下げる。
「随分時間を空けてから改めましたね」と小声で呟くソラマリアをレモニカが小突く。
「だってイシュロッテがそうした方が良いって――」と言いかけたフシュネアルテを無表情の妹が小突く。
「お気になさらず、フシュネアルテさま」レモニカは班に遅れないように姉妹やソラマリアを促しつつ対話する。「そもそもわたくしが隠し……、勿体ぶったことが原因なのですから」
「何かお詫びをさせていただけませんか?」とイシュロッテに尋ねられる。
「別にそのような……」と呟くもレモニカは思い付きを話す。「では、良ければ姉妹仲の秘訣でも教えてくださいませんか?」
思いもよらなかったらしい問いかけに、常時無表情が貼りついているイシュロッテの方も珍しく感情を窺わせる物怪顔をする。
「姉妹仲ですか」とイシュロッテが姉を一瞥し、訥々と語り始める。「特に何かを意識しているわけでもありませんが。ただひたすら心の底から純粋にあね様を愛しているだけですよ。昼も夜も春も夏も秋も冬も病める時も健やかなる時も死にふたりが分かたれることなく永遠に永久に」
「レモニカ様。ラーガ様と喧嘩でもなさったのですか?」と妹からの溺愛ぶりに照れる様子もないフシュネアルテに尋ねられる。
レモニカはソラマリアの方を見ないようにして小さく頷く。「まあ、そのようなものですね。いえ、深刻な話ではありませんのよ? ただどう接したらいいか分からない、と言いますか」
「難しいことはありませんよ」とフシュネアルテは朗らかに励ますように言う。「ただ姉でいたい……あ、レモニカ様の場合は妹ですね。良き姉妹、良き兄妹の関係であり続けたいと思っているなら、その関係を保ち続ければ良いだけです」
姉妹と一口に言っても絶縁状態と良好な仲の間には様々な段階の関係があるはずだが、とレモニカは腑に落ちないが、顔にも口にも出さない。
「なるほど。含蓄に富みますわね」と答え、レモニカはソラマリアとイシュロッテに視線を向ける。「少しの間、フシュネアルテ様と二人きりでお話してもよろしくて?」
ソラマリアとイシュロッテは同意したが、フシュネアルテは尻込みする。
「どうかなさいました? 二人きりには抵抗がありますか?」と尋ね、レモニカはフシュネアルテの彷徨う視線に気づき、ソラマリアだけ先に行かせる。
フシュネアルテの縋るような手を振りほどいてイシュロッテもソラマリアに続く。
間に物理的な壁は無くなったが、相変わらずの物理的距離感を保ちつつ、フシュネアルテは告白する。「私、屍使いは特有の死臭を纏っているのであまり嗅がれたくない、というか……」
「そうですか?」と互いの間の空間を嗅ぎながらレモニカはフシュネアルテに近づく。「むしろ良い香りがしませんか?」
爽やかで甘やかな白檀のような香りがふわりと漂う。心地よくも、目が覚まされるような頭の中がすっきりとする匂いだ。それはフシュネアルテの胸元に揺れる、装飾が目を引く首飾りから漂っていた。豪奢な宝石に飾られた腰の護拳と違い、派手ではないが緻密な彩色の施された陶器の球体だ。
「素敵ですね。携帯用の香炉みたいなものでしょうか?」
「火は使っていませんが、そのようなものです。妹の、イシュロッテの贈り物です」
「やはり素敵な間柄ですわね」
あるいは運命の気まぐれな悪意がなければ、聖女アルメノンこと姉のリューデシアとそのような関係を築けたのだろうか。レモニカは今まで想像もしなかった夢想に内心苦笑する。
調査に随行しつつ、フシュネアルテと取り留めもない会話をしている内に、気が付けばその間にはほとんど距離がなくなっていた。
しかしハーミュラーどころかシシュミス教団の信徒すら見つからない。とはいえハーミュラーがいなくともレモニカには他にもやるべきことがある。最終的には『年輪師の殉礼』を解呪するとして、ならば祟り神と化しているだろう土地神について知っておきたい。解呪の最も大きな障害となるのは常に祟り神だ。
「そういえばシュカー領の土地神様はどのような御方なのですか?」
フシュネアルテは疑うような、探るような眼差しを隠しもせずにレモニカに向ける。
「我らの神はシシュミス神、ただ一柱です。そして今ではシュカー領に留まらずクヴラフワ全土で信仰されているようです。勿論我々もクヴラフワを離れてなお、かの天を這いまわる救いの神に祈りを捧げております」
そうだった、と前に確かに聞いていた話だったことをレモニカは思い返す。元々はシシュミスこそが屍使いの至尊の神であり、しかしクヴラフワ衝突以前から徐々に信仰を広げ、衝突後の今はシシュミス神への敬虔な信仰が全土を席巻しているという形だ。シシュミス教団の働きによるところが大きいのだろう。
レモニカはちらりと空を盗み見る。相変わらず八つの緑の太陽が朧げな光を降り注いでいる。とても大きな蜘蛛には見えない。緑の光の球体も眼球には見えない。神秘の帳はあまりに分厚く、その向こうに隠された聖なる秘密を見破るにはそれ相応の資格がいるのだ。決してユカリを疑うわけではない、とレモニカは心の中で弁解する。
もしも今までと同様に事が進むとしたら、そのシシュミス神とこの場で対決することになるのだろうか。天を這い回るような圧倒的存在と事を構えるなど、無謀などという言葉では言い表せない。レモニカは誰にも知られずに震え上がる。
「すみません。失念していました。確か、シシュミス神に屍使いの御業を授かったのが屍使いの興りだとか」
「ええ、その通りです。そして悪辣なる死の獣から多くの同胞を救い給うたことが我らの信仰の始まりだったのです」
「だとすると、シシュミス教団は、巫女ハーミュラーは……」
レモニカとフシュネアルテはまるで視線が反発したかのように、それぞれ同時に別方向の何かに気づく。
フシュネアルテが気づいたのは屍使いの誰かが寄越した屍の使いだ。品の良い女性で優雅な衣服を纏っているが、しかし全力疾走でやってくると息を乱すことなくフシュネアルテに耳打ちした。
「どうやら我ら領主の一族の居城を救済機構が寺院に改装して占拠しているらしいですね……。レモニカ様?」
「え? どうかなさいましたか?」レモニカはいつの間にか現れたもう一人の人物に気づいて目を丸くする。「え? その方はどちら様ですか?」
「私の屍の一体。二号です。伝令に使っていたのですが、どうやら救済機構と小競り合いが起きているようです。丁度私たちの終結予定地点に陣取っているらしく」
「急ぎますか?」
「ええ、レモニカ様はどうなさいますか?」
「そうですねえ」と呟き、レモニカは思い悩むふりをする。「実は救済機構とはあまり関わり合いになれない事情があります。申し訳ありませんがわたくしたちは調査を優先することといたします」
「お気になさらず。それでは」
一行を見送った後、ソラマリアが尋ねる。「それで、本当は何をするんですか?」
レモニカが再び視線を向けた先、路地の奥に、ムローの都に数多立ち並ぶ多くの塔と違って、廃れ方の年季が浅い塔があった。
「そこの塔に入っていった人がいたわ。歩く死体じゃなくてハーミュラーさまだった」
それがレモニカの気づいた何かであった。