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午後の授業が終わっても、頭の中は霞がかったままだった。黒板を見つめているはずなのに、視線はどこにも焦点を合わせられず、ペン先がノートの端を何度も往復した。
耳の奥では、あの声がまだ残響している。
『――氷室に似合うのは、俺のほうだと思わない?』
柔らかく笑いながら、それでいて逃げ場のない間を空けて放たれた健ちゃんの声。音の輪郭まで、今もはっきりと覚えている。
帰りのチャイムが鳴り、クラスの空気が一気に解放されても、その言葉だけは色のついた埃のように視界から離れなかった。
廊下の向こう、扉の窓越しに氷室の姿を見つけた瞬間、胸が跳ねたことで反射的に足が彼を追いかける。声をかければ――氷室はきっと聞いてくれるだろう。「そんなこと、気にするな」と笑ってくれるかもしれない。
(でも、それを聞いた蓮はどう思う? 健ちゃんの声に潜んだ境界線を、蓮も感じ取ってしまうのだろうか)
まとまらない考えが頭の中を支配して足が自然と止まり、手のひらが汗ばんでくる。急いでいた足を突如止めたせいで、上靴から変な音が鳴った。
「あ……奏?」
物音に振り返った氷室が、不思議そうに首を傾げる。変わらぬ低い声、変わらぬ距離感――なのに、今日はそのすべてがどこか怖かった。
「蓮……いや、なんでもない」
そう答えた瞬間、情けなさが胸を締めつける。話すべきだとわかっているのに、言葉にしたらなにかが壊れそうで――。
氷室はそれ以上追及せず、俺の肩を叩いて歩くことを促した。重たい足を動かしたら、俺の歩幅に合わせて氷室も歩き出す。夕陽が廊下を橙に染め、伸びたふたりの影が床を滑っていく。その影が、ほんの少しずつ離れていくように見えた。
(俺……このままで、本当にいいのかな)
問いだけを胸に抱えたまま、下駄箱へ。靴を履き替える間も、氷室の横顔を盗み見ては迷いを繰り返す。結局、切り出せぬまま夕暮れの校門をくぐった。
秋の帰り道。夕陽の色は橙から紫に変わり、落ち葉を踏むたびにざくりと乾いた音が響いた。氷室と並ぶこの時間は、いつもなら心地よいはずなのに、今日に限って息が詰まった。
「奏……やっぱり、なにかあったんだな」
氷室が不意に足を止めた。夕陽が彼の横顔を金色に縁取り、その瞳だけが真っ直ぐに俺を射抜く。
「顔に出てる。隠すのが下手なのは、奏のいいところでもあるけれど」
冗談めいた氷室の口調の奥に、張り詰めた糸のようなものが混じっているのを感じた。このまま笑ってごまかせば、いつもどおりに歩き出せる。でも真摯に注がれる瞳を前にしては、鍵が自然と外れてしまった。
「……昼休み、健ちゃんと話をした」
口にした途端に、胸が熱くなる。氷室は黙って続きを促す。
「氷室に似合うのは俺だって、また言われた」
夕方の風がぴたりと止まる。氷室の目が僅かに細まり、その奥に普段は隠している感情が揺れる。
「……そうか」
低い声。穏やかに聞こえるのに、その奥に鋭い影があるように俺の耳が捉えた。
「それで、奏はどう思った?」
どう思った――そんなの整理できていない。ただ、胸に残ったざらつきだけは消えずに、未だに居座っている。
「うっ……すごく嫌だった」
答えた瞬間、氷室は一歩近づく。夕陽の光が、彼の輪郭をさらに濃くする。
「奏は……俺の隣にいるのは自分じゃないと嫌か?」
顔を寄せて訊ねられた、息が詰まる距離に慄く。けれど視線を逸らしたくなかった。
「……嫌だ。俺じゃないと嫌だ!」
その瞬間、氷室の瞳が大きく揺れて、俺の手を取った。
「じゃあ、自分を信じろ。俺は君を手放す気はない」
指先から伝わる熱が、胸の奥のざらつきをゆっくりと溶かしていった。
その後、氷室の手のぬくもりを感じながら歩き出す。夕暮れの街は、色を失いはじめた水彩画みたいに淡く、どこか現実感が薄かった。
曲がり角をいくつか過ぎたところで、氷室がふと歩みを緩める。どうしたんだろうと思い視線の先を追うと、薄闇の中に健ちゃんの姿があった。
「やあ、今帰りなんだな」
笑顔は相変わらず柔らかい。けれど、今の俺にはその奥にある温度の低さが、はっきりと感じられた。
「神崎……」
氷室の声は低く、感情を削ぎ落としたような平坦さだった。
「夕暮れのこういう時間、すごくいいよな。それを共有する相手がいるっていうのも。俺には、そういうのは手に入らないからね」
軽く笑いながらの言葉なのに、その一文が空気に小さな裂け目を作る。氷室の眉が、ほんの僅かに動いた。
「……どういう意味だ」
「深い意味はない。ただ……ふふっ、氷室、君は知らないだろ? 奏が幼なじみの俺のために、どれだけ無茶をしたのか」
健ちゃんの目が俺を捕らえる。その視線は穏やかに見えて、まるでなにかを引きずり出すような圧を確かに持っていた。
「健ちゃん、そんな話いつの――」
制止しようとしたけれど、健ちゃんはゆっくりと言葉を重ねる。
「君が大事にしてる奏は、俺が一番よく知ってる。君よりも、ね。だから俺にとって奏は、ただの“幼なじみ”じゃないんだ」
淡々とした声なのに、氷室の隣にいるはずの地面が一瞬ぐらついたように感じた。氷室の手に力が入り、俺の指を強く握りしめる。氷室の手の温かさを確かめるように握り返したけれど、胸の奥ではまだ健ちゃんの声が静かに反響していた。
「……くだらないな」
氷室の低い声が、夜の気配を震わせる。
そのまま氷室は俺の肩を抱き、小さく耳元で「奏は渡さない」と囁く。健ちゃんに背を向けて歩き出したら、背後から笑い声が静かに追ってきた。
握られた肩越しに、氷室の鼓動が少しだけ伝わる。その速さが逆に、俺を不安にさせたのだった。