実家に帰ったのは、優斗との結婚の挨拶のとき以来だ。
父は喜び、母は優斗に対してよそ行きの笑顔を向けていた。
そして今日、私は神妙な面持ちの父と不機嫌な母の目の前にいる。
母が大きなため息をついて私を睨みつけてきた。
「破談ですって? あなた、いったい何をしたの?」
「私じゃないよ。やらかしたのはあっちだよ」
「言い訳なんか聞きたくないのよ。ああ、洋ちゃんがこの状態であなたまで……どうしてお母さんを困らせるようなことをするのよ」
洋ちゃんとは兄のことだ。
どうやら兄は仕事を辞めてここ数か月ひきこもりらしい。
母はせっせとお世話をしていたようだが、最近兄がキレることが多くなり、母は相当参っているようだ。
「親戚になんて言えばいいのよ。破談を報告しなきゃいけないお母さんの気持ちがあなたにわかる?」
母の言葉にただ「ごめんなさい」と言うしかなかった。
だけど、ほんの少しでも、大変だったねって言ってもらえるかもしれないなんて無駄に期待してしまった。
私はいつだってこんな扱いだ。
わかっていたはずなのに、胸が苦しくて泣きそうになった。
「ま、まあ、母さん。落ち着いて……」
「落ち着けるわけがないでしょ!」
父がなだめようとしたが、母はぶち切れて声を荒らげた。
「だいたい、あなたのせいで洋二があんなことになったのよ! せっかく高い学費払って大学まで出してあげたのに、一流企業をこんな簡単に辞めるなんて!」
「そ、そうだな……」
父は母に強く言えない。
困惑しながらなんとかなだめようとするが、毎回失敗している。
母はヒステリックに叫び続ける。
「いつもそう! 洋二は習い事もすぐに辞めてしまうわ。あたしがこんなに愛情こめて育てたのに、いつもあの子は裏切るのよ!」
「お、落ち着いて」
「あたしがパートで働いたお金をぜんぶあの子のために使ったのよ! あなたの稼ぎが少ないせいでね!」
「うっ……それは、申し訳ないと」
「それなのに、あの子は私に向かってお前って言ったのよ。お前って! 親に向かって! 恩を仇で返す子になってしまったのよ!」
母は恐ろしい形相でまっすぐ私を見つめて訴える。
「どうしてこんなことになったの? 洋ちゃんは反抗期のない良い子だったのに、どうして?」
母はわああっと泣きながら手で顔を覆った。
父は狼狽えながら、私を見てごめんごめんと手を合わせる。
私はただ、無言で母を見つめるばかり。
今、私の話をしているのに……。
だけど、こんなの慣れてる。大丈夫。
私は傷ついたりしない。
拳を握りしめて涙が出ないように歯を食いしばる。
すると、母は険しい表情のままひとつの提案を口にした。
「あなた、家事をするなら戻ってきてもいいわよ。もう洋ちゃんの世話は疲れたのよ」
どくんっと胸の鼓動が大きく鳴った。
母は真顔で続ける。
「月に10万入れてくれればいいわ。家賃だってそれくらいかかるでしょ。洋ちゃんがいつ社会復帰するかわからないのよ。あなたには自由にさせてやったんだから、そろそろ家族のために尽くすべきよ」
自由!?
中学高校はずっとこき使ってきたくせに呆れる。
それとも大学で寮生活をしたことが自由なの?
「あと、あんまりご近所を歩かないでよ。恥ずかしいから。あぁ……どうしてうちの子はこんなに親不孝なのかしらね」
逆に訊きたい。
どうすれば私はお母さんを満足させられるの?
どうしよう。このまま黙って出ていったほうがいいのかもしれない。
だけど、私の胸の内はどろどろしたもので渦巻いている。
『お前、性格悪いよ? 人としてサイテーだよ?』
という優斗の言葉がよみがえる。
母は額に手を当てて険しい表情で苛立ちを口にする。
「ああ、もう、どうしてこんなにうまくいかないの? これ以上あたしを困らせないでちょうだいよ。よそのうちの子は問題なくうまくいってるのに。どうしてうちだけ、ふたりともこんな……失敗したわ」
頭の中に母の「失敗したわ」の声が何度も鳴り響く。
軽いめまいがして、胸に渦巻くどろどろしたものが静かに爆発した。
「どうすれば成功だったの?」
私が真顔で訊ねると、母は眉をひそめた。
「もういい加減にしてよ。私はあなたの都合のいい子どもじゃない」
父が驚愕の表情になり、母の顔色をうかがった。
でも、もう遅い。
母はつかつかと私に近づいて、手を振り上げると思いきり私の頬を引っぱたいた。
優斗のときは避けられたのに、母のときは固まって動けなかった。
「親に向かってなんてこと言うの!」
ああ、もう怒りの感情もない。
ただただ、失望感が襲ってくるだけ。
悲しい。悔しい。寂しい。苦しい。
大声で泣きたい。
でも、そんなことは今までに散々やってきた。
それでもすべて無意味だったから、もう親の前で涙なんか出ない。
報告すべきことを終えたので長居は無用だ。
いまだ怒りが静まらない母をリビングに残して私はさっさと玄関で靴を履いた。
すると父が慌てて出てきた。
「紗那、母さんはなんとか説得しておくから……」
「もういいよ。住むところは見つかったから」
「ああ、そうか。じゃあ……」
安堵したように笑みを浮かべる父に向かって、私は言い放つ。
「場所は教えないよ」
「え?」
父はあからさまに困惑の表情になった。
私は今までずっと言いたくて仕方なかったことを口にした。
「ねえ、お父さん。どうしてお母さんと離婚しないの?」
「え? そ、それは……ほら、母さんは俺がいないとだめじゃないか」
父は母に逆らうことができず、八つ当たりされてもずっと我慢してきた。
自分が我慢すれば丸く収まるからだ。
私も父に似て、自分さえ我慢すればとりあえず収まると思ってやってきた。
けれど、誰かが我慢し続ける関係は、うまくいくはずがないんだ。
父はとても優しかった。
母に怒鳴られた私にこっそりお菓子をくれたり、テストでいい成績を取れば褒めてくれた。
ただ、それだけ。
父は決して私の味方になってはくれない。
結局、母の機嫌を取ることばかり気にしているのだから。
「お父さん、私もう我慢するのやめたの」
「紗那……」
「どんなに親不孝って言われてもいい。ごめんね。じゃあ」
私がそう言って出ていくとき、父は何も言わずにうつむいた。
小学校の頃まで母方の祖母と同居だった。
母も祖母も感情的な人ですぐ怒るから、ふたりとも喧嘩ばかりだった。
母はその苛立ちを私にぶつけて、代わりに兄を溺愛した。
だから祖母は私の味方になってくれたけど、それも母は気に入らなくてまた喧嘩を繰り返す。
父は何も言えない人だから家に帰りたくなくてパチンコに行き、勝ったら私にいっぱいお菓子をくれたけど負けたら部屋にこもって出てこなかった。
祖母はそんな父が嫌いで、なんでこんな男と結婚したんだって母を責めて、母はその苛立ちを今度は私にぶつけた。
そんなことばかり繰り返してきてうんざりしたので高校を卒業したら家を出た。
奨学金を借りて大学へ行き、寮生活をした。
同じ寮の子たちと一緒にごはんを食べたり夜中までおしゃべりしたりしてそれなりに楽しい学生生活を送った。
ところが、大学を卒業して就職が決まったら母に帰ってこいと言われた。
その頃ちょうど母が腰を痛めたので、代わりに家事をすることを理由に。
私は断れなかった。
あれだけ嫌な思いをしたのに、母に頼られることを嬉しく感じた。
どうしてなのか自分でもわからない。
私には家族を切り捨てることができなかった。
だけど、さすがにもう無理だ。
家を出たら雨が降っていた。
きっと通り雨だろうから少し待っていればすぐやむだろう。
けれど、もう実家に1秒もいたくなかったから、私は雨の中を歩いた。
ずぶ濡れの状態で電車に乗り、着いた頃には雨はやんでいた。
新しく入居したマンションに帰り着く。
私の部屋は10階だけど、エレベーターで15階を押した。
ぼんやりしながら足が向いて、インターフォンを押したらすぐに、月見里さんが出てきた。
彼は私を見て驚いた顔をした。
「何かあった?」
「あー、えっと……ケジメつけてきました」
ぼんやりした頭でそう言うと、彼は笑顔で言った。
「そう。頑張ったね」
やばい。これはやばい。
ずっとギリギリのところで破裂寸前になっていた私の心は、彼のたったひとことで崩壊した。
「泣いても、いいですか?」
言っている途中に涙がぼろぼろこぼれて、たぶん顔はぐしゃぐしゃになった。
嗚咽を漏らす私の頭を彼は撫でてくれた。
そうだ。私はこうやって誰かになぐさめてもらいたかったんだ。
「寂しい……寂しくて寂しくて、死にそうです」
「大丈夫、大丈夫」
彼はそう言って私の頭をなでなでしてくれた。
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