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第2節 千崎雄二『百の香り』―4―
「……ちょっとな」
それ以上は言わない。
雪絵も、深くは問わなかった。
雪絵だって、夫が堅気の人間じゃないことは知っている。幼いころから葛西組組長・葛西了道の家で育てられた雪絵は、きっとそれで折り合いをつけてくれたんだろう。
ただ数秒、雄二を見つめてから、静かに言った。
「先にお風呂へ入ってきてください。出ていらしたら手当てをしますね」
「……すまない」
思わず零れた言葉に、雪絵がわずかに目を瞬いた。
「……え?」
小さく首を傾げる。
ただ傷を負って帰ってきただけなのに……なぜ謝られるのか、分からないという顔。
だが雪絵は、それ以上は聞かなかった。
「今日はお疲れでしょう? 先に温まってきてください」
雄二が廊下へ向かうと、雪絵も静かに後ろをついてくる。
まだ産後間もない身体だというのに、ゆっくりと箪笥を開け、手早く雄二の着替えを取り出した。
おぼつかない足取り。
それでも手つきは慣れていた。
「着替えと下着、こちらに置いておきますね」
着替えとバスタオルを脱衣所へ置くと、雪絵が小さく会釈をしてゆっくりと踵を返す。
雄二は一瞬、その背へ先ほど同様謝罪の言葉を紡ぎかけて、やめた。
「……ありがとう」
その一言を言うので、精一杯だった。
裸になって開けた風呂場の中は、ふんわりと温かかった。浴室暖房のおかげだと分かっているが、今日だけは冷たくてもいいのに、と思った。甘やかされることが、罪悪に感じられた。
湯に肩まで身体を沈めると、じわりと熱が傷に滲んだ。
顔の傷よりも、胸の奥のほうが重い。
天井を見上げる。
湯気がゆらりと揺れるだけで、何も変わらない。
今日、百香という名は役所へ届けられ、正式にあの子を縛る――記号――呪となった。
それだけが、確かな事実だった。
青みががって見える美しい白目と、深淵のような黒々とした瞳。くっきりした二重瞼は、雄二にも雪絵にも似ていなくて……助産院へ見舞いに来た葛西了道によると、雪絵の母親――つまりは祖母からの隔世遺伝らしい。
だがそう言われたところで、会ったことのない人間に我が子を重ねることなんて、雄二には出来なかった。
皆からは雪絵似だと言われる百香だったが、雄二にはどうしても最愛の女――百合香にしか見えない。
雪絵は「雄二さん似ですね」とやわらかに微笑んだが、同じように言ったのは、娘の写真をせがまれて見せた、百合香だけだった。
『私が雄ちゃんの顔しかよく知らないからかもしれないけど、雄ちゃんにそっくりだよ』
愛し気に画面を撫でながら微笑んだ百合香が、思ったより穏やかな表情をしていたことに安堵したのを思い出す。
(百合香に……娘の名はお前の名前から付けたんだ、と話したら……どんな反応をするだろうか?)
喜ぶような女じゃないことは、容易に推測できた。だからと言って、雄二を責めることもないだろう。
(百合香……)
ベビーベッドで眠る幼な子の母が、百合香だったなら、どんなに良かったか。
考えても詮無いことを思いながら、雄二は大きく息を吐き出すと、風呂場を後にした。
浴室内で軽く身体を拭いて脱衣所へ出る。
置かれていた着替えは、きちんと畳まれていた。
雪絵が先ほどこのバスタオルとともに置いてくれたものだ。
それらを身に着けてリビングへ戻ると、百香はまだ眠っていた。
その傍らにいた雪絵が、雄二を見付けて近付いてくる。
「お手当て、しますね」
ソファに座る雄二の前に立ち、雪絵は消毒液とガーゼを手に取った。
傷口に触れる指は、壊れ物に触れるかのように繊細で優しい。
「……沁みますか?」
「いや」
短い返事。
雪絵はそれ以上、何も聞かない。
ただ、丁寧に薬を塗り、薄くガーゼを当てる。
ベビーベッドからは、規則正しい寝息が聞こえていた。
百香は、静かに眠っている。
今日、父親が与えた名の真の意味も知らずに――。
雪絵がそっと手を離す。
「できました。これで大丈夫です」
微笑む。
何も疑わず、何も責めず。
雄二は、百香の寝顔へ視線を落とした。
小さな胸が、確かに生きている証のように上下している。
守ると決めたはずだった。
それなのに――胸の奥で、別の名が揺れる。
目の前の妻から、目を逸らしてはいけない。
部屋は静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
雄二は立ち上がると、目の前に立つ雪絵を何も言わずに抱き寄せた。
「……え?」
不意を突かれたように、雪絵の身体がわずかに強張る。
ほんの一瞬の戸惑い。
だが、すぐにその力は抜けた。
コメント
2件
なんかこの夫婦の空気感、いろんないみでソワソワしちゃう(・_・;
このエピソード、静かで、重くて、とても綺麗でした…。 雄二が風呂場で「甘やかされることが罪悪に感じられた」って思うところ、胸が締め付けられました。夫としても、父親としても、自分の弱さを見せられないまま、優しさに包まれてるような感覚がひしひしと伝わってきて。 百合香の名前を継いだ百香。そして何も言わずに手当てをする雪絵。抱きしめたときの「力が抜けた」のも、余白が多くて、読者の心にすごく刺さる描写でした。本当に好きです。
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