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海の壁から地上で両腕を広げるジェスランに目を向ける。四の五の言ってはいられない。ユカリは意を決して落下しつつ、今度は空気ではなく水を放出する。架空の放出口を狭め、できうる限り圧力を高めた水を放つ。ジェスランは見切って華麗に飛び退き、ユカリは追ってさらに勢いを増した水を噴射する。グリュエーの助けを借りて地面に降り立つ。止め処なく噴き出す水は大蛇かあるいは鞭の如くジェスランを打ち据えようと身をくねらせる。
しかしジェスランは優れた身のこなしで水を避ける。飛沫でわずかに濡らすことさえできない
「当たらないぞ、ユカリちゃん」ジェスランは松の幹の後ろから顔だけ覗かせてからかう。「面白い魔法だけど、使いこなせてすらいないようだね。当たったところで死にそうもないし。まあ、当たらないけどね。もっと範囲を広げてみたらどうだ? 海嘯みたいにさ。ほらほら来るぞ来るぞ」
唐突にユカリのすぐそばから白い煙が噴き出した。瘴気だ。瘴気は瞬く間に広場に広がる。しかしジェスランは倒れない。
姿を消したレモニカはユカリのそばにいて、別の何かに変身して冠を取り落とさないようにジェスランから距離を取っていたのだが、それが仇となった。煙が到達する前にジェスランは大きく息を吸って呼吸を止める余裕があった。その隙にユカリは立ち込める瘴気の中に隠れる。
「いいや! 隠れられてないぞ!」
すかさずジェスランは瘴気を掻き分け、煙り霞む仄かな紫の光に飛び掛かり、袈裟切りに振り下ろす。しかし振り切る前にその光は、魔法少女の杖は消え失せ、ジェスランの背後に現れた狩人の娘が手につかむ。
気配を抑えて獲物の背後に回り込むユカリの狩人としての業は未だ衰えていない。変身を解いたユカリの、全力で振り抜いた杖がジェスランの脇腹を強烈に打ち据える。たった一呼吸を引き出すための一撃が、その痛みが、ジェスランを呻かせた。瘴気を吸ったのだろうジェスランはその場に倒れ込む。
まだ終わっていない。ユカリは素早くジェスランの持っていた剣を奪い取る。途端にその剣の、憑依している魔導書の秘める力が自身の体のように、自在に動かせる手足のように感じ取れた。ホールガレンの港町に襲い掛かる海嘯を意のままに操り、海へ帰すことができるのだとユカリは察し、すぐさまその通りにする。
今まさに灯台を呑み込もうとしていた海嘯が、まるで硝子の壁に遮られたかのようにぴたりと止まり、そしてユカリの剣に呼応して調教師に叱られた猛獣のようにすごすごと海へと引いていく。
「間違いない」ほっと息をつき、ユカリは呟く。「これがガミルトンを沈めた魔法の剣だ。魔導書だ」
瘴気を立ち込めさせたまま、真珠飾りの銀冠を外したレモニカが姿を現す。
「ユカリさま! その男はまだ気絶していません!」
その時、山をも崩す巨大な鎚を打ち付けられたかのように大地が揺れる。体が浮き上がるような衝撃を受けて、ユカリは剣を手放してしまった。慌てて拾おうとした先で、剣は花崗岩の敷石を引き裂く亀裂の中に飲み込まれる。そして手を伸ばそうとする暇もなく底のない亀裂は再び閉じた。が、地響きは鳴り止まない。
「この!」迂闊にも近づいてきて、老いた僧侶の姿になったレモニカがジェスランの口の中に『珠玉の宝靴』を蹴り入れ、瘴気を噴き出した。そうして今度こそ昏倒させる。
ジェスランが秘して握りしめていた短剣を取り落とし、ユカリはそれを拾い上げる。こちらも同じような魔法の力を感じる。ただし、海ではなく、大地を操る魔法のようだ。剣の力はユカリに制御され、地の揺れは収まった。
ユカリは短剣の力を借りて再びゆっくりと海嘯を喚ぶ剣の消えた亀裂を開くが、すでに剣の姿はなかった。
モディーハンナたち、僧侶が警戒しつつ広場へと戻って来る。
「その方は、昔に見覚えがあります。救童軍の元総長ジェスラン、ですか? 彼がこの街を救ったという僧兵ですか?」とモディーハンナは気を失ったジェスランから痛ましげに目を背けながら言う。
ユカリは忌々しそうにジェスランを見下ろして言う。「いえ、この人がガミルトンを海に沈めたんだと思います。単にこの街でそれを実行しただけ」
「まさか!」モディーハンナは憐れむような信じられないような視線を横たわったジェスランに向ける。「信じられません。なぜそうだと言い切れるんですか?」
「それは、これを持ってみれば分かります」と言ってユカリは短剣の柄をモディーハンナに握らせる。
モディーハンナは悲し気に、しかししかと頷く。大地を操る魔法があるならば、海を操る魔法があるだろう、と理解した。
ユカリとレモニカはこの広場で起きたことをモディーハンナたちに説明する。海を操る剣は大地を操る剣によってどこかへ運ばれてしまった。一瞬のことだ。それほど遠くではないだろうが、裏を返せば海を操る魔法の剣を持つジェスランの仲間がまだ近くにいる。焦って奪いに行くよりもこの大地を操る魔法の剣の死守を優先することに決める。
「今更ですけど、ガミルトン行政区を沈めたのは救済機構ですよね?」とユカリは感情を抑えて話す。
そして僧侶たちの反応を窺う。モディーハンナは表情を崩さなかったが、僧侶たちは不快そうに顔を歪ませた。
「黒幕の話を聞いた時点で、その可能性を考えていなかったわけではありません。しかし確証などあるはずもありませんし、信じたくもありませんでしたが」とモディーハンナは説明する。
「もう確信していいんじゃないですか?」と言ってユカリはジェスランを指さす。「ご存知でした? この男がかつて大陸全土で子供を攫っていた人喰い衆を率いていた男、サリーズと呼ばれていた男ですよ」
モディーハンナははっと顔を上げ、ユカリを真正面に見つめて首を振る。「それは知りませんでした。本当です。私は、確かにかつて人喰い衆に属していましたが、下っ端で、頭目の顔なんて見たことがありませんでした」
ユカリは構わず続ける。「それがジェスランという男です。それが救童軍の総長を任されていた。人攫いを討伐して攫われた子供たちを助ける組織です。そんな救済機構の何を信じろって言うんです?」
モディーハンナは呆然とした様子で言葉を返す。「機構の中枢部が、知っていたとは限りません。そうとは知らず、サリーズに総長を任せてしまったのかもしれません」
「かもしれませんね。モディーハンナさんにとって、中枢からどこまでの範囲が救済機構でそれ以外を尻尾だと考えているのか知りませんが」
モディーハンナは何かを振り払うように首を振る。「ご指摘の通りです。それはやはり救済機構の所業というべきでしょう」
「別に全ての僧侶が悪党だというつもりはありません。でも組織としての救済機構を信じる道理なんてありませんよ」
ほんの少しだけユカリの中の復讐心が満たされた。もはや最たる教敵で何ら問題ないと、そう思えた。
「確かに、ユカリさんの仰る通りです」モディーハンナは唇を噛み締める。「しかし私たちがシグニカを守るために罪なき人々を助けるために動いていたのは本当です。信じて欲しいですが、信じてもらえるとも思いません。でも私は変わらず、この凶行を止めたいと願っています。たとえ相手が救済機構だとしても、それは変わりません」
「ユカリさま」とレモニカが囁く。「とりあえず移動した方がよろしいですわ。広場の真ん中では目立ってしまいます」
「そうだね」ユカリは頷き、モディーハンナの潤んだ両の目を真っすぐに見つめ返す。「とにかくジェスランを縛って、船に戻りましょう。良いですか?」
モディーハンナは了承し、僧侶たちと共にその通りにした。
「それにしてもレモニカ。危険なことをしたね」とユカリは腕にすがるレモニカに言う。
レモニカは倒れ伏すジェスランを気絶させるために近づいて、老いた僧侶の姿になった。もしもそれが大きな体の生物であれば、魔導書の靴を履いていた足は破壊されただろう。
「夢中でしたわ。お責めにならないでくださいませ」
「責めやしないけど、気を付けて」
港へ戻る道中、ホールガレンの街の被害を確かめる。船がひっくり返り、一部の家は押し流され、瓦や石畳が散乱している。怪我人も大勢いた。要するに被害は甚大だ。
一方で海に沈んだガミルトン行政区は、だが海に沈んだだけだった。建物を押し流すどころか、土を巻き上げることすらなく透き通ったままだった。
この違いは何なのか、ジェスランを問い詰めなくてはならない。