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◆1
二十三回忌の朝、千里は線香の香りが染みついた広間に立ち尽くしていた。
彼女にとってこの家は、かつて「母のいない世界」の象徴だった。
よく知らない親戚。よく知らない空気。
そして──千里を、幼い妹ごと引き取るべきかどうかを話し合い、最終的には「無理だ」と結論を出した人々。
その要のように座っているのが、美浜|笙子《しょうこ》だ。
母の従姉にあたる大伯母。
いつも端正な身なりなのに、どこか表情が硬い。
千里とは「血縁でいえば近いが、生活は遠い」関係そのものだった。
千里は席に入る前の一瞬、笙子と目が合った。
しかし、笙子は軽くうなずいただけで、すぐに視線を落とした。
──相変わらず、距離がある。
その感覚は、千里にはむしろ安心だった。
近づきすぎれば、何かが壊れる気がしたから。
◆2
読経が終わり、親族が順番に線香をあげる。
千里は笙子の斜め後ろに並んでいた。
彼女の背中は小さくなっていたが、どこか張りつめた線が残っている。
「……あの」
千里は自分でも驚くほど小さな声で呼びかけた。
笙子がゆっくり振り返る。
「久しぶりです」
「ええ、……大きくなったわね」
その言葉は、この二十三年間で何度も聞いたはずなのに、今日は少し違って聞こえた。
感慨よりも、間を埋めるために選んだ言葉のように見えたのだ。
千里は、返事の代わりに軽く頭を下げた。
それで会話は終わった。
その程度で十分だった。
◆3
会食の場。
笙子はほぼ誰とも話さず、箸を静かに進めていた。
千里は遠巻きにそれを見ていた。
(ずっとこういう人だったんだっけ?)
幼い頃の記憶は曖昧だ。
ただ、葬儀の日、誰よりも冷静に動いていた大人。それが笙子だった。
千里は思い切って席を立ち、美彌子の向かいに座った。
笙子は驚いたように眉を動かしたが、追い払うような仕草はしなかった。
「……あの家、まだありますか」
唐突な千里の質問にも、笙子は少しだけ考えてから答えた。
「ええ。手を入れながら、なんとか」
「そうですか」
二人はそれ以上話さなかった。
まるで、不要な言葉を互いに避けているようだった。
だがその沈黙は、以前のような“切断された距離”とは少し違った。
その場に並んで座ることを、どちらも拒まなかった。
それだけが、今日の収穫だった。
◆4
会が散り、笙子は帰り支度を始めていた。
千里は玄関で靴を履きながら、ふと声をかけた。
「今日来てよかったです」
笙子の手が止まる。
「あなたが来てくれて、私も……助かりました」
その言い回しは少し不自然だった。
感謝とも言えず、後悔とも違う。
けれど、千里にはわかった。
(あ、昔のことを“整理しよう”としてるんだ)
でもそれは、“謝罪”や“説明”の形にはならない。
二十三年という時間の中で、言葉に変えられない部分だけが残っているのだ。
笙子は千里の前で深くは笑わなかった。
ただ、それまで一度も見せなかった柔らかさが、目尻にかすかに滲んだ。
「……また、いらっしゃい」
それが義務か情かは読み取れない。
千里も無理に読み取ろうとしなかった。
「はい。……そのうち」
互いに過剰に期待しない。
だけど、完全に切らない。
薄いまま、少しだけ形を変える。
そんな関係で十分だと思えた。
◆5(終)
外に出ると風が冷たかった。
千里はマフラーを巻き直しながら、ふと後ろを振り向く。
笙子が玄関の奥で、こちらを見ているのが見えた。
手は振らなくても、呼び止めなくても、それでよかった。
千里は小さく会釈し、そのまま歩き出した。
二人の距離は、縮まってはいない。
けれど、切れ目だけが丸くなったようだった。
それは奇跡でも解決でもない。
ただの“うすい変化”。
でも、関係というものは、案外それくらいで十分なのかもしれない。