テラーノベル
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山と積まれた羊皮紙に囲まれて鶴が執筆作業に取り組んでいる。鶴は慣れた足つきの筆運びで尽きぬ墨壺と真っ新な羊皮紙を踊るように往復する。
その鶴、紐解く者は時に人の形になって絨毯の上を歩き回り、時に鶴の姿になって机の上で翼を広げる。空は飛べないが、アデロマイアはその体を気に入っていた。
仕事机に積まれた羊皮紙からアデロマイアは一枚を取って少し眺めると机の下に放り捨てる。そうして新たに書きつける、という仕事を繰り返している。それは押し付けられた仕事だが、他に自由のない囚われの身、囚われの心のささやかな慰めだ。
牢獄のようだ、と表現するには優雅な空間である。アデロマイアは長い年月を眺めて来た庭の景色を前にして書き物に没頭している。
その部屋は王国を見渡す丘の上の城にある。元はちっぽけな砦だったが、何代か前の王が居城と定めた後は増改築が繰り返され、多少歪ながら丘の凹凸を利用した構造は四方世界に伝わる歌に表され、美城の評を得ていた。そして城壁に囲まれた青い芝生の輝かしいばかりの裏庭には城に寄り添うように新たに書庫が築かれている。とはいえ出入りができるのは王城の中からのみで、眺めるためだけに装われた裏庭への出口はない。
その裏庭を眺められる書庫は、つまるところ王城の最奥だ。たとえ書庫から裏庭へと抜け出せたとしても高く分厚い城壁を越えられる者はいない。
二十の書棚の間を通った先に、赤ん坊をあやすためのような派手に飾り付けられた空間がある。四季の花畑を寄せ集めたような目も綾な幾何学模様の絨毯。庭師の他に立ち入る者のいない裏庭を広く眺められる透き通った嵌め殺しの硝子窓、それに着色硝子で王国の四つの時代が描かれた天井窓。巻貝を思わせる彫刻の象牙を使った必要以上に華美な仕事机。そして鶴、その剥製、アデロマイア。
今、そこに新たな人物が現れる。市井を眺めれば何人と見かけるだろう、何の変哲もない少年だ。少しばかり小汚く、この優雅な書庫には相応しくないが、誰に見咎められることもなく、限られた賢者を除いて誰も近づくことのない王国の最奥へとやってきていた。
「おはよう。象牙の笛」とアデロマイアは仕事の手を止めることなく、人のような鶴のような姿で挨拶する。「今日も今日とて誰に見つかることもなく侵入してきたんだね。小さな悪党さん」
「おはようございます。アデロマイアさん」デズフォーは大人がするように礼儀正しく辞儀する。「お陰様です。侵入者のことを黙ってくれているからこそ、警備はずっと薄いままです」
一体この書庫や城壁のどこに侵入する隙があるのかアデロマイアは全然分からなかった。最後にこの書庫を出たのはずっと前で、その時とは書庫も城壁も裏庭の姿も違う。きっとこの小さな侵入者の方がずっとよく知っているのだろう、とアデロマイアは皮肉っぽく笑みを浮かべる。
「そんなにも書物を読んで飽きないの? 私はもう自分の字を見るのさえもうんざりさ」
そう言いながらもアデロマイアの筆は墨壺と羊皮紙を往復し続けている。
「飽きません。本当に。いつか飽きる日が来るのでしょうか。信じられません」
デズフォーは既に書物を見繕っていて、仕事机の陰にうずくまる。もしも誰かが書庫にやってきてもすぐには見つからないように隠れているのだ。しかし仕事机の裏庭側まで来るものは他にいない。アデロマイアが許可を与えているのはデズフォーだけだからだ。
「そういえば読み書きは誰に教わったの? 君、良い所の坊ちゃんではないだろう?」
アデロマイアがそう言うとデズフォーは可笑しそうにくすくすと笑う。
「その通りですけどはっきり言いますね。祖父に教わったんですよ。仕事の役に立つだろうって」
デズフォーがやってくるのは数日に一度だ。それも朝の短い時間だけ。それ以外の時間は家の仕事を手伝っているらしい。とはいえこの国では、あるいはこの時代ではさして珍しいことでもないが。
新たな羊皮紙を眺めながらアデロマイアが呟く。「それ、面白い?」
「面白いですよ! アデロマイアさんの記した歴史書を読んでいるとまるで、まるで歴史的事件の現場に立ち会えたような気分になります。つまり臨場感ですね。ただの文字なのに説得力があるんです。ああ、確かにこの時代、この場所でこのような出来事があったんだなって」
アデロマイアは羊皮紙の山脈から新たな一枚を手に取り、目を通す。そこに記されているのは全て報告だ。王国で起きた様々な出来事が詳細に記されている。しかしもしその報告書に不備があっても、あるいはほとんど詳細とは言えない内容だったとしても、アデロマイアはその情報を十全に補完できるだけの、両の指では数え切れぬ魔術を修めていた。結果、この王国に関わる出来事でアデロマイアの知らぬことはほとんどなかった。
そしてその報告を歴史へと綴り直す。格式高い正書体を使い、全体は事務的に因果関係を伝え、儀式的に事の意味するところを記し、時折軽妙な筆致で歴史の経糸と緯糸を組み替え、単なる事実を読んだだけでは推し量れない真実を著す。
デズフォーはまだ語っている。「特に稀代の名君。現国王の偉業は胸が躍ります。七つの戦で勝ちを収める勇猛果敢の将。学問と芸術を集め、守り、広める、知と美の保護者。王国のためならば異教徒も異邦人も区別なく取り立てる懐の広さ。どれをとっても僕の憧れで、目標とする人物です」
「君ならなれるさ。その歴史書の中のような英雄にね」
アデロマイアの手は止まらない。鶴の翼のように羽根の生えた白い手が会話の中でも途切れることなく歴史を綴り続ける。その手に感情は乗っておらず、ただ淡々と記すべきことを記している。
「ずっと聞きたかったことがあるんですが、良いですか?」
デズフォーは繊細な硝子細工に触れる時のように慎重に丁寧におずおずと尋ねた。
「どうぞ」と言いながらアデロマイアは書き続ける。あるいは書き続けながらアデロマイアは「どうぞ」と言った。
デズフォーはアデロマイアが手を止めるのを待つかのように暫く躊躇い、しかし諦めたかのように切り出す。
「アデロマイアさんはとても苦しそうです。それは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも楽しそうではない。生業には得てして辛いことが沢山あるものですが。歴史を記す仕事はお嫌いですか?」
「これは仕事だけど、生業じゃあないの。ただ王に、あるいはこの王国の為政者たちに命じられてやっているだけさ」
「歴史を書くことを?」
「王に都合の良い歴史を書くことを」
デズフォーはぽかんと口を開き、幽霊か何かを見た時のように鶴の魔性を見つめる。
「都合の良いって……、全部嘘なんですか?」
「全部じゃないさ。王に都合の良い歴史も書くけど、王に都合の悪い歴史は書かないってだけ。偉業が一つもないってわけでもないよ」
デズフォーは手に持っていた書物に目を落とす。机の上でアデロマイアもデズフォーを見下ろす。
「何でそんなことを? どうして嘘を広めるんですか?」
「何でも何も王の権威を守るためだね。神格化された王への敬意が王国の結束と繁栄に繋がると信じる者もいる。デズフォー、君もその一人じゃないか。良き指導者を規範とし、良い人間たろうとしていたんだろう?」
「そうですが、でも、それは、僕は本当のことだと思って――」
「アデロマイア様? 他に誰かそこにいるのですか?」
そう呼びかけたのはアデロマイアに朝晩と報告書を持ってくる賢者の一人だ。アデロマイアもデズフォーもいつも以上に感情を昂らせてしまい、その接近に気づかなかった。
慌てて逃げようとするデズフォーにアデロマイアは囁く。
「八番目の書架、最下段左端の書物の裏にある羊皮紙の束を持って行くといい。きっと君の求めるものだ」
聞こえたのか聞こえなかったのか、デズフォーは返事をすることなく、その場から逃げて行った。
そして五十の季節が巡るまでデズフォーが戻ってくることはなかった。
城が燃えている。身を捩らせることもできない王城はただただ熱に苦しみ吠えている。傍若無人な煙が歴史の変革に無関心な書庫にも侵入する。何が起きているのか、起ころうとしているのかアデロマイアには分からなかったが、王国は数年前からきな臭い情勢に陥っていた。
どれほど隆盛した王国にも光の当たらぬ陰で不満が燻っており、きっかけ一つで火種は大火へと変ずる。異民族との戦いも飢餓も疫病も乗り越えてきた王国だが、王の威信が真に盤石となることはなく、常に危うい均衡を保っており、しかしとうとう傾いた。そこに庶民の出る幕はほとんどなかった。臣下たる諸侯の幾つかが真の王を祭り上げ、王国は真っ二つに割れ、そしてその逆賊の刃は今日、首元に届いたのだ。
アデロマイアは硝子の窓の向こうの城壁の向こうに昇る黒煙を見つめ、星の消えた赤く燃え上がる夜空を見つめ、その時を待ち、その時は来た。
書庫の扉がいつもとは違う時間に開かれる。堂々たる佇まいで書架の間を通って来たのは一人の若者だ。ただの庶民の出には相応しくない立派な戦装束を身に着けている。その脇に古びた羊皮紙の束を持って、いつかの日々と同じように最奥の机の前にやってくる。そして閑静な眼差しと自信に満ちた笑みが鶴の魔性、アデロマイアに向けられた。
「お待たせしました」
「別に待ってないよ」
「貴女が私を導いたのです」
「君は勝手にやってきたのさ」
デズフォーは余裕たっぷりに苦笑する。「我々を騙してきた暴君は倒れました。このままでは貴女も裁かれかねません。彼の支持者として」
「それはまずいね。助けてくれるの?」
「もちろんです」そう言ってデズフォーは短剣を抜き放つ。「その体、痛みはあるのですか?」
「あってもなくても君がやることは変わらないよ」
薄暗い書庫の戦火に照らされる机の上で、デズフォーはアデロマイアを、鶴の剥製を押さえつけて胸に突き刺し、切り裂いて開く。
損充材の綿を掻き分けると表皮の裏に不思議な星型の紙札が現れる。巻物を持った鶴らしき鳥が描かれている。デズフォーは一声かけ、一気に剥がす。すると鶴の剥製から力が抜ける。若者は少し迷った後、再び同じ場所に紙の札を貼り付けた。
「貴女について調べるのが一番苦労しました。まあ、結局最後には王の家臣一人一人に尋ねることになりましたが。なぜその正体を教えてくださらなかったのですか?」
鶴は再び動き出し、半人となって立ち上がる。
「私もまた嘘つきだからさ」
デズフォーはゆっくりと首を横に振ってその言葉を否定し、脇に抱えた古い紙束を見せる。「貴女が真実を教えてくださったからここまで来れた、そして正されたのです。私が真の王の血統を引いているという事実が私の力となり、皆の勇気となったのです」
「そりゃ良かった。私も書いた甲斐があるというものだ」
若者は控えめに首を傾げる。
「どうも不機嫌でいらっしゃる。私は何か間違いを犯しましたか? 助けるならもっと穏当な方法を取るべきだった、とか?」
「ああ、いや、悪いね」アデロマイアはようやく微笑みを見せ、机から飛び降りる。「ただ不甲斐なかったのさ。囚われて、良いように使われて、それに……人々を苦しめてきたんだろう? ここからでは良く分からなかったけど」
二人は書庫の出口へ向かう。
「貴女が悪いのではありませんよ。貴女の性質は、貴女の責任ではない。誤った歴史を記していたことも、先ほどの、正体を明かしてくださらなかったことも命令されておいでのことでしょう? 貼った者の命令に逆らえないのだとか」
「……まあね」先を行くアデロマイアは小さく頷く。「命令されていないことなら何でもできるけどね」
「ああ、そうか。ずっと疑問だったのです」デズフォーは紙束の厚みを確認するように持ち上げて言う。「どうして命令に逆らえない貴女が真の歴史を書き記すことができたのか、いま分かりました。王に都合の良い嘘の歴史を書けと命じられていたからといって、王に都合の悪い真実の歴史を書けないわけではないのですね。そうして僕に託してくれた」
「そういえば」と言って書庫を出る直前にアデロマイアは立ち止まる。「君、いつもどうやってこの書庫に忍び込んでいたの?」
「ああ、そのことですか。こちらです。もう修繕されているかもしれませんが」
今度はデズフォーの後ろをアデロマイアがついていく。デズフォーは書庫の角で積み上げられた石壁の下段の一つを押す。すると石材が擦れつつ外に押し出された。
「この通りです。増築の際に何か不手際があったのでしょうね」
「それじゃあ私はここから出て行くよ」
「何故です? 紹介したい人たちが沢山いるんです。私について来てくれた者たちです」
「私は王の支持者ってことになってるんだろう?」
「私が庇いますよ」
「それじゃあ今度は君が疑われるよ」
「私を疑う者など……、待ってください」壁を潜り抜けようとしたアデロマイアをデズフォーが呼び止める。「ならば最後に聞かせてください。どうして私に真実を教えてくださったのですか?」
「自分を助けるためだよ」
「……ご謙遜を」
壁を抜けて書庫を出るとアデロマイアは振り返る。「私も最後に一つ聞いて良い?」
中腰で見送ろうとしていたデズフォーがもう一度畏まる。「なんなりと」
アデロマイアは子供のように純粋な疑問をぶつける。「どうしてその書物に書かれていることが本当だと思ったの?」
「何ですって!? 今、何と?」
「だって物的証拠なんて無かったでしょう? そういう意味では私がずっと書いて来た歴史書と同じだよ」
薄暗い書庫の中のデズフォーの表情は、アデロマイアには窺い知れなかった。
「僕を騙したのか?」
「騙した? そこに書いていることが嘘だなんて言ってないでしょ」
すぐに言い返そうとしていたデズフォーの気勢が削がれる。
「アデロマイアさん。教えてください。何が本当で何が嘘なんですか? この歴史は本物なんですか? 偽物なんですか? 何もかも話が違ってくる!」
「私は本当だと信じた理由を聞きたいだけなんだけど」
「教えろ! アデロマイア!」デズフォーが命じるもアデロマイアは口を噤んだまま一歩下がる。「待て! 止まれ! なぜ言うことを聞かない!? 僕が札を貼ったのに!」
もはやデズフォーの体は隙間を通るには大きすぎてただ手を伸ばすことしかできなかった。が、何をつかむことも出来なかった。
「こっそり貼り直しただけさ。さようなら。デズフォー。助けてくれてありがとう」
ずっと眺めるだけだった裏庭をアデロマイアは駆け抜ける。もはや誰の命令にも従う必要はない。
嘘の歴史を書かなくて良い。自分の正体を隠さなくて良い。空を飛んだって良い。
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