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「ちょっと予定が入っちゃったんだ」
だから今日は瑞奈の家に行けない、もしくはちょっと遅くなってから行く、と電話口で伝えた時、瑞奈が微かに息を吸い込む音を拾った。普段の電話口では聴き取ることがない種類の音だった。
「ん。分かった」
予定の詳細を瑞奈は訊いてこなかった。尋ねられた場合にそなえてそれなりのことを考えてはいたのだが、それは杞憂に終わった。あまりにも素っ気ないため、瑞奈らしくないと思ったが、これ以上話すとぼろが出てしまう気がしたので、早々に通話を終える選択をした。
でも、これでよかったのだろうか。
通話を終えたスマホを強く握り、ブラックアウトした画面を見つめていた。画面に俺の顔が映り込んでいた。いつもの俺の顔じゃない、そんな印象を覚えた。どこか不安に怯えた犬顔だった。
今日はこれから春奈さんに会いに行く。
昨夜、何度も書き直しながら春奈さん宛てに送ったメールに対して、春奈さんはすぐに連絡をくれた。どこの誰とも知れぬ相手からのメールに対し、律義に返信をもらえたことは、俺としては奇跡に近いことだ。
それだからか、メールには、瑞奈のことを当初は軽く触れる程度に書いていたのだが、気付くと状況を詳細に語っていた。瑞奈に断りもなく第三者の春奈さんに、瑞奈のことを伝えてしまったことになる。俺は瑞奈に対してどこか後ろ暗いものを感じ、さっきの電話を早々に切った次第だった。
春奈さんはメールでこう言ってくれた。
「よかったら私に会いに来ませんか? 病気のことが少しでも分かると思います」
そのご厚意に甘え、俺は今から春奈さんのもとを訪れようとしている。まさに昨日の今日という早さの出来事だ。
まだ会っていないが、俺のメール文だけで信頼を置いてくれたことに、春奈さんには感謝しなければならない。
幸い、春奈さんは瑞奈の実家がある長野県の二つ隣りの県に在住しているため、電車を乗り継げば三時間ほどで行けそうだった。
瑞奈、ごめん。
俺はきっと、春奈さんに会ったら、瑞奈のことをたくさん喋ることになりそうだ。不安で、怖くて、誰かにすがりたい。瑞奈に何も言わずに、瑞奈のことを相談する、でもそうしないと俺は精神的にくじけそうだった。だから、ごめん、瑞奈。
春奈さんの家に向かう途中、ずっとそういうことを思っていた。文庫本を開くと活字が紙面で踊り、スマホを操作すると『ALS』と検索し、余計に心が不安定になっていく。結局のところ、電車の席では文庫本やスマホを手にしたまま、瑞奈に対して謝罪を繰り返していた。そうすることでしか今の自分を平常に保つことができなかった。
春奈さんの家の最寄り駅に着く頃には、昼を回っていた。大きな都市ではなかったため、駅周辺には行きなれたチェーンの飲食店がなく、値が張ったが地元の蕎麦屋で腹を満たした。
春奈さんの家は、玄関口に段差は無くスロープになっていた。
思えば、春奈さんが結婚している人なのか、親元に住んでいる人なのかも、知らなかった。春奈さんがALS患者で自身の胸の内をブログに綴っていること、サッカー経験があること、そして何よりもこれが決め手だったが、会いにきませんかと誘っていただいたこと、それだけの情報でこの家にたどり着いたことになる。
春奈さんは歓迎してくれても、一緒に住んでいるご家族の方は、俺の訪問を厭わしく思うかもしれない。一抹の不安が頭の中を過ぎり、お土産を持つ手と、インターフォンを押す指とが、躊躇で震えた。
こんなことはないことを祈るが、ブログ自体が嘘で、騙されていたら? この家は、春奈さんとは全然関係が無い家で、「誰それ?」と冷たい目を向けられることもありうる。
駄目だ。もっと指が震えだしてきた。挙げた腕が下がりかけている。
だけど、
だけど……、不安の強さならば、騙される不安や、蔑視の目で見られる不安よりも、瑞奈の症状を受け止めきれるかの不安の方が勝っていた。
俺は、インターフォンを押した。