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「よくいらしてくれました。春奈の母です。ちらかっていますが、どうぞおあがりになって」
お邪魔します、と口にしながら俺は履いてきたスニーカーを脱ぎそろえる。
インターフォンを押しスピーカー越しに用件を告げた俺に対して、春奈さんの母と名乗る初老の女性は、拍子抜けするほどあっさりと玄関ドアを開き、俺を家の中に招じ入れてくれた。突然訪問した俺に非難の目を向けるどころか、笑みを浮かべてさえくれている。ハイライトのショートヘアーが似合う、優しい顔立ちの女性だった。頭まで下げられてしまう始末だったため、俺も慌てて深々と頭を垂れた。
「学生さんですか?」
春奈さんのお母さんが、手を廊下の先へ向けながら尋ねてきた。
俺は都内の某大学二年であることを手短に説明する。
春奈さんのお母さんは、瑞奈のことには触れてこなかった。どこまで春奈さんのお母さんが知っているのかが分からないが、もし瑞奈の話をすることになるのならば、それでもいい。そう思わせるほどに、春奈さんのお母さんは人の好さを感じさせる柔らかい印象を持っていた。
廊下の突き当り左側に引き戸があり、その戸を滑らせる際に、「春奈、お客さんですよ」と春奈さんのお母さんは少し大きめの声で言った。
引き戸の内側の部屋からは返事が無い。
一瞬、俺は、やっぱりまずかったのではと危惧の念を抱いたが、春奈さんはALS症状の進行で喋ることができないことを思い出す。瞼の裏に、瑞奈が声を出せない想像が浮かび、胸にちくりとした痛みを感じた。
どうぞと促され、部屋の中に入るや、俺は息を飲んだ。
目の前に、リクライニング式介護ベッドで半身を起こしているミディアムショートヘアの女性がいた。年齢は、ブログから推察されるとおり三十歳前後だろう。
その女性が俺を見つめていた。強い意思が漲っている瞳だった。
その瞳の中に吸い込まれていく錯覚を覚える。
同時に、その女性の喉に繋がれているホースのようなものに目がいってしまった。接合している喉元は格子模様の空色スカーフで隠れているが、その状態は、俺にALSという病気の現実を突きつけてくるに充分だった。
俺はひょっとするとALSという病気を甘く見ていたのかもしれない。
すぐにメール回答をいただけたことや、メール文が健常者と同じように漢字混じりで表記されていたこと、それらが春奈さんを手足が少し不自由な方、もしくは外見上はあまり障害を持たれていないように見える方、と俺に思い込ませていた。
春奈さんの喉元には人工呼吸器と思われる物から延びる管が繋がっていた。
ALSを検索した際に、あらかじめ画像として確認していたにもかかわらず、今こうして目の当たりにし、管が瑞奈の喉に繋がっている絵を思い描くや、俺は頭の中が真っ白になった。
『初めまして。春奈です。ひょっとして驚かせてしまったかな?』
春奈さんのベッド脇に置かれたパソコンモニターに、そう表示された。春奈さんのお母さんが、モニター画面の方へと俺を促してくれるも、すぐにはそのモニター画面を見ることができなかった。頭の中では、瑞奈、瑞奈……と瑞奈の名前を連呼していた。
俺の葛藤を、春奈さんも、春奈さんのお母さんも察知してくれたようだった。特段急がせることなく、俺が自分の意思でモニター画面に目を向けるのを待ってくれていた。
ゆっくりと視線をモニター画面に向ける。俺は文面を見て、反応に困ってしまった。正直に言うと、驚いたからだ。でも、そのことを告げることは、春奈さんを傷つけはしないだろうか。
だが、春奈さんは気遣いのよい方だった。モニター画面で新しく言葉が紡がれていく。
『ごめんなさい。答えづらいよね』
さらには、
『瑞奈さんのこと心配ですよね』
と表示された時、俺はビクりと肩を震わせた。図星だった。
「心配……です、とても」本来は、急な訪問をしたことを真っ先に詫びるべきなのに、俺の口は自分の抱える心情を吐露していた。慌てて、「ありがとうございます。突然の訪問にもかかわらずお気遣いをいただいて」と付け足した。
『構いませんよ。私でお役に立てれば。瑞奈さんは、今はサッカーをお休みされているのですか?』
春奈さんにはメール文で、瑞奈がサッカーをしていることをあらかじめ伝えていた。
「はい。大会の真っ最中なのですが、休んで病院へ通っているところです」
春奈さんは顔を、パソコンの視線入力装置の方へと向けているため、モニター画面上で会話をしている時は、春奈さんと俺は横並びになる。春奈さんのベッド脇に一脚の椅子が置かれており、俺はその椅子に座らせてもらっていた。会話のところどころで俺は春奈さんの方を見るのだけれども、春奈さんはALS症状で首を回して俺の方を向くことができない。
途中で、春奈さんのお母さんが淹れてくれたお茶をいただきながら会話を続けていたのだが、春奈さんが『私の顔を見てくれませんか?』とモニター画面に表示させた。
俺は、椅子から腰を浮かし、回り込むような中腰の姿勢で春奈さんを見た。
春奈さんの真剣な眼差しが俺の目を包んできた。暫くそのままでいてから、す、と視線が外される、視線入力装置の方へと。俺は、モニター画面の方へと振り返る。
『瑞奈さんとお話をさせていただけませんか』
この時の俺の動揺は、春奈さんに伝わってしまっただろうか?