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その日は、私にとって特別な日になった。
365日の内の1日なんかじゃなく、もっと特別で、不思議で、二度と訪れることのない日だった。
それはまだ私が大学生だった頃。
レポートや課題、人間関係なんかに疲れ切った私は猫背気味でバイト先を出た。
そうして家までの道をとぼとぼと歩いていると、ふと道の先に明かりが見えたような気がした。
「この先って……行き止まりで何もなかったはずだけど……」
どうしても気になって、そこまで歩いてみることにした。
普段だったらきっと気にも留めない、小さな明かり。疲れ切って、一刻も早く家に帰りたいはずなのに。私の足はただその明かりの方へと進むことをやめなかった。
辿り着いた道の先にあったのは、見慣れない店と大きな桜。
こげ茶色の扉には金色の文字で「Sirius」と書かれている。これが店名、だろうか。
遠くから見ていたのと同じ色のランプ。これが私をこの店に届けてくれたのだ。
「というか、もう随分遅いけど……こんな時間にやってるお店なんてあったんだ。」
最近できたのだろうか、それにしては年季の入った……いや、汚れているとかではなく。むしろ大切にされているんだろうと分かる扉、壁。この辺りまではあまり来たことがないけれど、かなり馴染んでいるように見えた。
ギィーッと音を立てて、扉を開ける。
まず目についたのが、一番奥にぎっしりと積まれた本。
それから、床に置いてある金ダライ。何故。
外観のすっきりした具合とは反対に、店内はかなりごちゃごちゃしていた。
けれど不快感はなく、むしろわくわくしてくるような。昔読んだ本にあった、魔女の家みたいな。
良い意味で浮世離れしている、確かにここにあるのに、現実味がないというか。
しばらくぼぉっとしていると、横から声をかけられた。
「あ、えと、いらっしゃいませ。なにかお探しの物はありますか。」
「おわっ……あ、ど、どうも……」
店の扉のような色の髪をした彼は店員だろうか。
あまり接客に慣れていない様に感じる。
「伊都ー、急にそんな近く行ったら誰でもびっくりしちゃうよ?」
「うるさ、初めてなんだから仕方ないだろ……」
棚の間から聞こえた声は店主さんのものだろうか。姿は見えないけれど、二人は声を掛け合っていた。はじめて、なのか。慣れないどころか経験がなかったとは。彼も彼で大変なのだろうな、なんて考えたところでもう一度声をかけられた。
「で、お客様は何をお探しで?」
「あ、えっと……何を、というか。別に具体的な何かがある訳じゃないんですけど……」
「でしたら、ご自由に。ここには何でもありますから。きっとお求めの物もございます。」
「あ、丁寧にありがとうございます。」
そう返して、また1つ1つ棚を眺めていく。
そういえば先程の店主さんはどこから声をかけていたのだろうか。
ここら辺の棚の間だったような気がしたけれど、どう見てもそんな隙間はない。
棚にはとにかくいろいろなものが置いてあった。
小さい頃仲良しの子が持っていたような西洋人形もあったし、どこの国から持ってきたんだと聞きたくなるような置物もあった。
それから先程目についた本棚。基本的に古い本ばかりだけれど、中には最近出版された本も混じっていた。
いくつか本を取ってめくってみるけれど、これだ、というようなものはなかなかない。
そういえば、机の上にもなにか置いてあったな。
そう思って机の上を見ると、まるでそこだけが光っているように、ここにいると私を呼んでいるように。万年筆とインクが、置いてあった。
どうしてだろう、と今でも思う。別に物書きをしているわけでもない。ただ、あの万年筆とインクだけが、特別素晴らしい物のように見えたのだ。
気が付いた時には、手に取っていた。思わず、と言ったところだろうか。
きっともう、これしかないと思ったから。理屈なんか分からないけれど。好きだなと、思ったから。
「すみません、これ、ください。」
「万年筆とインク、ですか。分かりました。当店は物々交換制となっているのですが、何か代わりの物はお持ちですか?」
「代わりの、ものですか。ちょ、ちょっと待ってください。」
あっただろうか、そんなもの。この品物の代わりになるような、素晴らしいもの。
筆記用具、PC、それから、それから。
脚本。大事な、脚本。
これだけだ。私が手放せるもの、手放さなきゃいけないもの。
――演劇、やめるから。これ、梓にあげるよ。
「これしか、ないんですけど。いいですか。」
「これは……脚本?ですか?」
「あ、はい。使わない、ので。」
「いいんですか。大事なものとか……」
「大事では、あるけど。良いんです。元々私の物でもないし。」
そうだ。私はただ押し付けられただけで。まったく、こんなものにいつまでも縛られるだなんて馬鹿馬鹿しい。……少しだけ、寂しいような気もするけど。あの子がいた証を、手放すのは。
「まぁ、事情とかはあまり分からない……というか、俺はそういうのに踏み込むの向いてないんで聞かないんですけど。お客様が決めたのなら、大丈夫です。交換成立となります。」
良い、これで。過去を手放して、未来に進むだなんて、そりゃあ素晴らしいハッピーエンドじゃないか。このインクで手紙でも書こう。あの子に、恨みと、怒りと、この不思議な体験と。言いたいことが沢山あるんだ。
「ええ、分かりました。」
「では、こちらの万年筆とインクはお客様の物、こちらの脚本は当店の物……よろしいですか?」
「はい。ありがとうございました。」
「それでは、またのご来店、お待ちしております。」
こげ茶の扉を引いて、外へ出る。
からん、とベルの音が鳴って扉が閉まった。
そんな音、入る時に鳴ったっけ。
気になって振り返ったけれど、そこにはもう空き地しかなかった。
紙袋に入った万年筆とインクを見て、あの子の顔を思い出して。
今度は、二人でこれたら良いな、なんて。
そんな風に思いながら、家路を急いだ。
「お疲れー。良かったじゃん、ちゃんとできてたよ。」
「つかれた、むいてない、まじで。」
「あっはは!お風呂湧いてるけど、先入る?」
「大丈夫かお前、それ水のままだったりしないか?」
「ひどい!さっきちゃんと確かめたよ!」
「ならいいや。あーそうだ、万年筆とインク売れたから。メモしといて。」
「え、あれ売れたの?なんだ残念。ちょっとずつ使ってたのに。」
「商品を勝手に使うな。店長だろお前。」
「良いじゃんべつに。で代わりが脚本?良いね、本棚に置いておこうか。」
「おっけ。俺やっとく。」
「さすが働き者だね。じゃあ上行ってるから。」
「うい。すぐ行くわ。」
「あー……なんだ、まぁ。ご来店、お待ちしております。」