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颯人は身も心も引き裂かれる思いで、蒼が久我に連れて行かれるのをただ呆然と見つめた。
何かとても大切なものを失いかけている気がして、二人がレストランを出て行った姿が頭から離れない。
冴子に引きずられるように席に戻ると、皆それぞれにワインを飲みながら談笑している。颯人も何とか気を落ち着けようとワイングラスに手を伸ばした。すると隣にいた父親が彼にボソリと呟いた。
「……颯人、アメリカには結城さんを連れて行きなさい」
「俺の秘書としてってことですか?」
颯人はグイッとワインを仰いだ。
「秘書としても、それから人生の伴侶としてもだ」
その言葉に、颯人は思わずワインを置くと呆然と父親を見つめた。
「七瀬さんという子は確かに優しくていいお嬢さんかもしれない。ただお前の妻としては力不足だ。お前はこれからこの会社を引き継いで大きくしていく身だ。人脈や経済的にも力となって支えてくれる人が必要になる。結城さんはお前にとって色々な面で力となってくれるだろう。お前もここ数ヶ月彼女と一緒に過ごしてよくそれがわかったはずだ」
颯人は父親の言葉を信じられない思いで聞いた。左隣に視線を移すと、冴子がにこりと彼に微笑んだ。
颯人は呆然としたまま冴子を見た。
冴子は由緒ある名家の出身で、一族が曾祖父が創業した事業の重役やまたは政治家など皆それぞれがエリートと言う生まれながらにしてのこの社会の勝者だ。
彼女はいつも人より上であり続ける為の努力をし常に完璧を追い求めている。その代わり不完全な物や足手纏いな物、または自分に利益がない物には見向きもしない。彼女は自分にも厳しいが他人にも厳しく、全てが自分の物差し基準でそれに当てはまらない物は全て打ち捨てる。
颯人はぐるりとテーブルを見回した。ここにいる者は皆冴子や颯人の父親と同じ、生まれながらのこの社会の勝者だ。そんな彼らは基本的に自分の事しか興味がなく損得でしか人を判断しない。
しかしこれからの長い人生いつ今ある立場が逆転するかわからない。
ある日突然事業が倒産し一文無しになってしまうかもしれない。突然不幸な事故や病気に見舞われて今までと同じ当たり前の生活が出来なくなる場合だってある。もし颯人がそうなった時、彼らはどうするだろうか……?実際どうなるかわからない。
それに比べ蒼はどうだろう。彼女はボランティアを通して、または外国で暮らし広い世界を見ていてとても広い視野を持っている。
彼女はこの世の中には不条理な事が沢山存在していて、そんな中で必死に生きている人や動物がいる事を知っている。そんな彼女は偏見を持たずいつも平等でそして損得関係なく困っている人にいつも優しい手を差し伸べる。
颯人はそんな彼女を愛しているし、そんな彼女とこれからの人生を共にしたい ──……
颯人は意を決すると冴子とそして父親に向きあった。
「実は話したい事がある」
颯人はそう言うと、ここ最近ずっと考えていた事を話し出した。
◇◇◇◇◇◇◇
私は久我さんの差し出された手をじっと見つめた。
不安に潰れそうな時、寂しい時、そして悲しい時にふと優しい手が差し伸べられる。
……でも……
私は昨夜の桐生さんを思い出した。
私の心を動かすのは、楽しい時も悲しい時も喧嘩してる時もいつだって桐生さんだ。私の欲しい手はこの手ではない。桐生さんの手だ。
「七瀬さん……?」
久我さんが首を傾げて私を見た時、何かの鳴き声に気付いて耳を澄ました。私はその声を必死に辿って歩きながら小さな駐車場の様な所に入った。暗闇の中、何処からか子猫の鳴き声が聞こえる。
「七瀬さん、一体何して……」
久我さんは慌てて私の後を追ってくる。
「……多分猫だと思う……」
携帯のフラッシュライトをつけ必死に鳴き声を辿る。駐車場の隅の方に何かの修理で使うのか木材や資材が積み重なった所があるのが見える。私はその木材の間の小さな隙間に子猫を見つけた。
「……どうしよう…届かない……」
手を伸ばしてみるものの、子猫になかなか届かない。おまけに運の悪いことに雨が降り出してくる。
「七瀬さん、危ないし雨も降って来たからやめとけ。そのうち出てくる」
久我さんは次第に雨足が強くなる空を見上げた。私は辺りを見回した。比較的道路にも近く、この暗闇と雨の中ふらりと道路に出ると、間違いなく車に轢かれてしまう。
覚悟を決めると、一応足元を確かめてから木材の間から身を乗り出し手を伸ばした。そんな私を見て、久我さんはため息を付き何か言いたそうにしたものの、突然顔を上げ道路の方をじっと見つめた。
私の服は雨と木材についている土埃であっという間に汚れてしまう。それでも木材の隙間に必死に手を入れて指を動かし「おいで」と何回か呼んでみると、子猫が私の方にミーと鳴きながら近寄って来た。その隙を見て子猫を掴むと一気に引き上げた。
引き上げた子猫をみると、汚れてはいるものの比較的状態がよく元気そうだ。私はホッとすると薄汚い子猫を胸に抱いた。
雨と土で汚れた子猫を撫でながら、結城さんの事を思い浮かべた。彼女は今頃美しいレストランで会社の重役や桐生さんのお父さんに囲まれながら桐生さんの隣にいる。それに比べ私はこんな所で雨でずぶ濡れになりながら捨て猫を胸に抱き立っている。
私には彼女の様に桐生さんに差し出せるものが何もない。生まれも、洗練された容姿も、財力も、桐生さんを手助けできる物は何一つない。
唯一誇れるものがあるとすれば、彼を誰よりも好きだというこの気持ちと、保護した犬を世話したり誰かに捨てられた猫を助けたりする事くらいだ。しかしそれだってとても些細なもので誰かの役に立つわけでも、この世界を救えるわけでもない。
こんな何もない私でも、こんな何の役にも立たないちっぽけな事しかできない私でも、それでも桐生さんがいいと言うならずっと彼の側にいたい ──……
そう思いながら子猫を撫でていると、濡れた私の体にふわりとスーツのジャケットがかけられた。顔を上げると、どこからか走って来たのか桐生さんが少し荒い息をしながらそこに立っていた。
「見せてみろ」
桐生さんは私の腕の中から子猫を持ち上げると、ミーと鳴いている子猫の状態をチェックした。
「……ずぶ濡れだが大丈夫そうだな。お腹は空かせてるかもしれないが元気そうだ。今日は無理だが明日佳奈さんがいつも使ってる獣医に診てもらおう」
そう言って私の腕の中に子猫を戻すと「しっかり持ってろ」と言って、ずぶ濡れの私の膝の裏に腕を入れると子猫ごと抱き上げた。
「蒼の怪我の手当てをしてくれてありがとう」
桐生さんは久我さんにそう言うと、彼を背後に残し道路脇に止めてあった車に向かって歩いた。
「ありがとう……桐生さん」
小さい声でお礼を言うと、彼は黙ったまま腕に力を入れぎゅっと彼の胸に抱き寄せた。
その後マンションに着き濡れた服を着替えると、美穂さんに連絡して子猫の世話の仕方を教えてもらう。
桐生さんに色々と買ってきてもらいミルクや子猫用のキャットフードをあげて世話をした後、空き箱の中に何枚か新聞紙を重ね、いらないひざ掛けを敷いて子猫を置いた。
その夜、桐生さんと一緒にベッドに入りながら、私は隣に置いたダンボール箱の中でスヤスヤと眠っている子猫を見た。
「大丈夫かな……」
「……多分大丈夫だろう」
桐生さんはそう言うと上掛けを私にかけ、そして後ろからぎゅっと抱き寄せた。
私達の間には話し合わなければならない問題が山積みになっている。しかし疲れ切ってとにかく休みたい私は寝返りを打つと桐生さんに擦り寄った。
彼はそんな私の額にキスすると腕を回し私を再び抱き寄せた。彼の逞しい腕と温かい体温、そして安心するような優しい匂いに包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。