テラーノベル
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猫猫は今日も小蘭のもとを訪れた。
手には、お茶会で余った茶菓子が入った包みを提げている。
これを持っていくと、小蘭は決まって目を輝かせて喜ぶのだ。
案の定、包みを見た瞬間、小蘭はぱっと顔を明るくした。
「わあ、今日もおいしそう!」
その無邪気な反応に、猫猫は少しだけ口元を緩める。
茶菓子を分けながら話していると、小蘭が思い出したように言った。
「そういえばね、ちょっとした噂を聞いたんだ。」
その内容は、壬氏が“特定の下女”にだけ、どこか態度が違うらしいという話だった。
「その子の前だと、いつもと違う笑い方をするんだって。」
小蘭は噂話をする時と同じように、楽しそうに言う。
小蘭の集めてくる話は、これまでにも事件解決の手がかりになったことが何度もあった。
しかし、今回の話はどうにも色合いが違う。
毒でも陰謀でもなく、ただの噂話のようにも思える。
(まあ、放っておいて後悔するのも癪だしね)
猫猫は心の中でそう呟き、小蘭に向き直った。
「ありがと、小蘭。助かったよ。」
「ううん! こっちこそ、茶菓子ありがと!」
軽く手を振って別れ、猫猫は壬氏のいる方角へと歩き出した。
その日は運悪く、壬氏はなかなか見つからなかった。
忙しそうに人が行き交う廊下を見渡し、猫猫は小さく息を吐く。
無理に探すのはやめて、後日あらためて話すことにした。
時間が空いたので、いつものやぶ医者のもとへ行き、薬の仕分けを手伝うことにした。
──後日。
ようやく壬氏を捕まえ、噂の話を切り出してみた。
しかし、当の本人はきょとんとした顔で首をかしげるばかりだった。
「……何の話だ?」
どうやら本気で心当たりがないらしい。
その後ろで、高順だけが静かに目を伏せていた。
話が進まなさそうだったので、猫猫は高順のほうへ向き直る。
それを見て、壬氏は明らかに不機嫌そうな顔をしたが、今は気にしないことにした。
猫猫自身、自分の気持ちにはうすうす気づいていた。
壬氏の好意も、たぶん──いや、ほぼ確実に。
それでも、小蘭の噂を思い出すと、胸の奥がちくりと痛む。
理屈じゃない感情ほど、厄介なものはない。
高順はきっと、壬氏の気持ちも、猫猫の気持ちも、どちらも知っている。
そんな顔をしていた。
「小猫。こちらで調べておきます。ですから、少し安心してください。」
「……わかりました。ありがとうございます。」
そう言われても、素直に安心できるほど、心は器用じゃなかった。
その日は遅くまで話してしまい、高順に送られて自室へ戻った。
夜風がやけに冷たく感じたのを、猫猫はよく覚えている。
──翌日。
高順が静かに声をかけてきた。
「小猫。壬氏さまが“特別に態度が違う”と言われている相手ですが……」
一瞬、猫猫は息を止めた。
「その方は、小猫です。」
「……っ!」
思わず言葉を失う。
自分じゃないと思い込もうとしていた。
でも、心のどこかで、自分であってほしいとも願っていた。
いつもの無気力そうな表情を保とうとしたが、頬がわずかに緩んでしまう。
自分でも気づかないくらい、小さな笑みだった。
そのとき――
「……聞こえてしまったんだが。」
廊下の奥から、壬氏が姿を現した。
どうやら、話を外で聞いていたらしい。
自分が猫猫を特別扱いしていたことに、本人はまったく無自覚だったようで、
耳まで赤くして視線を逸らしている。
猫猫はそんな壬氏を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(まったく……面倒で、厄介で、どうしようもない人だ)
そう思いながらも、視線だけは、どうしても壬氏から離れなかった。
高順は、いつの間にか部屋から姿を消していた。
さすが、空気を読むのがうまい。
猫猫はそう思いながら、壬氏の方を見る。
壬氏は少し戸惑ったような顔で、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
その前に、猫猫の方から一歩踏み出した。
いつもは壬氏の方から近づいてくる。
だから今日は、自分から行ってみたいと思ってしまったのだ。
猫猫は小柄だ。
背伸びをしないと、壬氏の唇には届かない。
いつもは壬氏が屈んでくれるから気にしていなかったが、
こうしてみると、思った以上に身長差があるのだと実感する。
壬氏の目の前に立ち、そっと背伸びをする。
ほんの一瞬、唇が触れただけ。
それだけなのに、離れたあとも、そこだけが熱を帯びている気がした。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
落ち着こうと小さく息を吸った、そのとき――
外から、妙な気配を感じた。
そっと扉を開けると、そこには睡蓮と高順が立っていた。
睡蓮は口元に手を当てて、
「あらまぁ」と、楽しそうに微笑む。
高順は眉間にしわを寄せて、「やれやれ」とでも言いたげだった。
「小猫は大胆ね」
そう言う睡蓮の笑顔は、少しだけ寂しそうにも見えた。
小さい頃から一緒だったから、離れていくのが寂しいのだろう。
それでも――
噂が立つほど、壬氏の態度が違っていたのも事実だ。
(今度から、もう少し自覚してもらわないと)
そう思いながら壬氏を見ると、壬氏はきょとんとした顔をした。
「……なんだ?」
「いえ。なんでもありません。」
猫猫は軽く頭を下げた。
「失礼します。」
そう言って部屋を出ると、胸の奥がじんわりと温かかった。
薬よりも、毒よりも、
どうやら――
人の気持ちのほうが、よほど厄介で、効き目が強いらしい。
──噂話 前編・完
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