派遣会社と常務の方には話は通したと錆人が言うので、月花は仕方なく、そのまま専務室に残っていた。
専務付きの秘書の人たちと挨拶をし、なんとなく普通に業務をしていると、錆人がドアを開け、秘書たちがいる部屋を覗いた。
「城沢、ちょっと来い。
お仕事だぞ」
ロクな仕事じゃなさそうだ……。
錆人のマイペースに慣れている秘書の人たちは、苦笑いして、どうぞ、行ってください、という顔をする。
「失礼します」
と専務の部屋に入ると、
「よし。
初仕事だ、偽装花嫁。
お前、ちょっと挨拶をしろ」
と言う。
……そういえば、二時間以内に花嫁がいるとか言ってたな、と月花は壁の時計を見た。
「あの、まだそのお話、受けてもないんですが」
「いい感じに微笑めよ」
……人の話、聞いてください。
錆人がタブレットをコトリとデスクの上に置く。
ビデオ通話がつながった途端、どこか工場のようなところが映った。
大勢の人たちが会社紹介のCMのように並んでる。
みんなが笑顔で声をそろえて言ってきた。
「ご結婚おめでとうございますっ」
そこから、次々にいろんな人たちが錆人の嫁であるはずの月花に挨拶してきた。
思わず、ぺこぺこ挨拶を返しながら、月花は思っていた。
――専務の言う通りだっ!
このほころぶ笑顔にっ。
涙ながらの専務への感謝の言葉にっ。
逆らえる人間がいたら、見てみたいっ。
「夕方伺いますね」
と錆人が彼らに言う。
伺いませんよっ、と思ったが、もちろん、その場で言うことはできず、
「ありがとうございます。
よろしくお願いいたします」
と言って、頭を下げてしまった。
「……なんか拝まれてしまいましたよ」
と月花は青ざめる。
錆人の嫁だと言うだけで、ありがたそうにおじいさんに拝まれてしまったのだ。
「わかっただろう。
俺の今のこの状況が」
とかもく来てくれなきゃ困る、と錆人は言う。
「でも――」
「いいから来い。
俺だけで仮縫いに行ったら、俺サイズのドレスができてしまうだろうが」
と睨まれた。
いや、そんなことにはならないと思いますけどね……。
そう思いながらも、なんだかんだで相手は専務だ。
逆らえなかった。
昼、
「ちょっと出てくる」
と錆人は秘書のみんなに言い、月花を連れて外に出た。
錆人の運転する車で雑炊屋に迎う。
「ほう、ここか。
雰囲気は悪くないな」
和風モダンな店構えの店舗を錆人はまるで雑炊屋を買収に来た人間のように観察する。
店の中に入ると、まだ早かったので、席は空いていた。
大学生バイトの西谷という可愛らしい青年が、
「あ、月花さん」
と振り向いたが、月花と一緒にいる錆人を見て固まる。
「お、お好きな席へどうぞー」
錆人は窓際の席に座った。
四人掛けの大きなテーブルも空いていたのだが、これから混むと思ってか。
意外にも二人しか座れない狭い席を錆人は選ぶ。
大きな柱の近くだからか。
テーブルも椅子も他のところのより、少し小ぶりだった。
大きな身体に小さな木の椅子。
明らかに窮屈そうだったのだが、錆人は文句も言わずに月花とともに額を付き合わせ、メニューを眺めている。
錆人のそういうところは嫌いではないな、と月花は思った。
「ほう、餅も入れられるのか」
熱心にメニューを見ていた錆人がそう呟く。
錆人は、雑炊の種類の多さに頷き、和紙のシェードの照明に頷き。
完全に店舗をチェックする人と化していた。
この人もプライベートとかない人だな、と月花は思う。
常日頃から仕事モードなのだろう。
これで雑炊屋さんからのプロポーズのことも忘れてくれるだろう。
しめしめ、と月花が思ったとき、錆人がこちらを振り向き、言ってきた。
「お前、決めたか」
「あ、はい。
シャケ雑炊で」
「君」
と西谷を呼び止め、よく通る声で錆人は言った。
「シャケ雑炊と――」
あ、はい、と西谷が急いで会計伝票に書き込む。
「山芋の雑炊。
餅を入れて」
「はい」
「あと店長を呼んでくれ」
周囲がざわついた。
どんな不祥事が今、この店にっ?
虫が入ってたとか?
いや、あの人、まだ食べてないぞ、と長閑にお昼ご飯を食べていた人たちの間に緊張が走る。
「あ……あの、店長は今、ちょっと出てまして」
と西谷が怯えて言う。
「隠し立てしてるんじゃないだろうな」
本人はそんなつもりはないのだろうが。
地位のある人間特有の凄みのある口調に、バイトの青年は震え上がる。
青ざめる周囲の人々の顔にも、
この人、もしかして、借金取りとかっ?
この店、困っていたのだろうかっ。
もっと来てあげなければ、潰れてしまうっ!?
と書いてあった。
西谷が、
月花さんっ。
この人、なんなんですかっ、と半泣きの目でこちらを見る。
店の雰囲気がいいせいか。
ここの常連さんたちはみなやさしい。
「バイトは初めてなんですっ」
と初々しく語っていた西谷は、今、初めて社会の荒波に揉まれたような顔をしていた。
「あっ、えーと、大丈夫よ。
この人、私の新しい上司……
……のようなそうじゃないような……。
ともかく、えーと。
派遣されていった会社の偉い人なの。
三田村店長とちょっとお話ししたいんだって。
銀行とか闇金の取立てとかじゃないから」
そう言うと、あっ、そっ、そうなんですかっ、と西谷はちょっとホッとしたようだったが。
すぐに、じゃあ、店長になんの話がっ、とまた妄想が駆け巡ったらしく、震え慄く。
とりあえず、店長の三田村がいないのは、ほんとうらしく。
月花たちは普通に雑炊を食べ、店を出た。
「美味しかったな。
なかなかいい店だ」
「そうですか。
伝えておきます。
店長喜びますよ」
「……いい店だ。
――が、お前は雑炊屋の女将より、俺の妻の方が似合うようだな」
「何故ですか?」
「清潔感のある気持ちの良い店だ。
店員たちもきびきびと動いていた。
きっと店主もきちんとした人なんだろう。
だが、あの中に入って、まめまめしく働いているお前が、なにか想像できない」
いや、どういうことなんですか。
「真面目に働けないから、店主の妻になれないのなら、専務の奥さんも偽装でも無理なのでは?
それとも、あなたの奥様は無能でも務まるということですか?」
「いや、務まらないが。
というか、お前を無能だとは思っていない」
先ほどからの仕事ぶりを見ていたからな、と錆人は言う。
「ただ、人によって、輝ける場所が違うということだ。
いや、万が一、俺の偽装の妻として輝けなくとも。
最悪、家でゴロゴロしてくれていてもいい。
ともかく、俺のウエディングドレスを着てくれ」
月花の中で、自分はウエディングドレスを部屋着にして、カウチポテトな毎日を送っていた。
……太りそうだ。
そして、そういう生活は逆に向いていないと自分でわかっていた。
なにかしていないと落ち着かない性格なのだ。
仕事も効率よくやるのが好きだ。
ぎちぎちのスケジュールをきっちりこなすのも大好きだ。
カウチポテトな毎日を送れと言われたら、半病人になってしまうかもっ、と月花は怯える。
帰りの車の中で、月花は錆人に説得されていた。
「じっとしているのが嫌なら、自宅を改造して店をやったりしてもいいんだぞ」
「はあ。
私、電卓よく打ち間違うんで。
たぶん、レジ打ちも間違いますね」
「それは、秘書としても問題があるぞ……。
そうだ。
料理教室を開くとかどうだ」
「私、お料理できません」
「お前、どうやって、雑炊屋や焼肉屋やスープ屋の女将になる気だったんだ……」
別に奥さんが作らなくてもいいのでは……?
あとプロポーズを受けるなんて言ってませんが、と月花は思っていたが、言わなかった。
口に出してしまったら、この偽装結婚を断る理由がなくなってしまう気がしたからだ。
会社に戻り、またちょっと仕事をしたあと、今度は問題の仮縫いのために、お洒落げな街のビルの二階にあるウエディングドレスのお店に連れて行かれた。
「少しやせられましたか?
お伺いしていたサイズより、ちょっと細いようですが。
まあ、ご結婚前ですからね」
と落ち着いた雰囲気の女性店長に微笑まれる。
式に向けて、ダイエットしたり、エステに行ってると思われてるのかな……。
そのわりに肌の手入れとかあんまりしてないなと訝しがられないかな、と思いながらも、月花は笑ってごまかした。
「それにしても、お綺麗な方ですね。
サイズとお好みのドレスのイメージしか伺ってなかったので。
もうちょっと気の強そうな感じの方かと思っていたんですが――。
でも、よくお似合いです」
と言われた。
そのあと、このウエディングドレスに関わったいろんな下請け工場の人たちもやってきて、直接挨拶させられた。
みんなが勢揃いして見送ってくれたので。
微笑んで頭を下げながら、月花は車が店から遠ざかるのを待つ。
まだ笑顔が消えないまま、
「……まるで専務の帝国の人と話しているようでした」
と言って、
「なんだ俺の帝国って」
そんなもの作った覚えはないが、と言われる。
「みんなが手放しで専務を褒め称えるからですよ。
ところで、この車はどこに向かってるんですか?」
「お前に聞いた焼肉屋だ。
今度こそ、店主がいるといいな」
……そうか。
いないといいな、と月花は思っていた。