テラーノベル
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「動くな!」
黒服の部下たちが雪崩れ込む。だが次の瞬間、先頭の男が崩れ落ちた。
眉間を一発。心臓を一発。
無駄のない、機械的な射撃。
硝煙の向こうから、一人の男が踏み込んでくる。
iTrappedだった。
返り血一つ浴びていない。呼吸すら乱れていない。ただその瞳だけが、いつもの理性を一段外した、冷たい狂気を孕んでいた。
「……遅えよ」
Chanceが笑う。だが声は掠れ、喉がひどく焼けている。
「計算通りだ」
iTrappedは短く返し、手早く周囲を確認した。
「立てるか」
「無理……」
即答。
ヒートの波が脳を揺さぶり、視界が滲んで床が斜めに見える。
iTrappedが舌打ちをし、Chanceに駆け寄ろうとしたその時――。
「随分と派手なご登場だな」
部屋の奥、影の中から低い声が響いた。
Mafiosoが現れる。
コートの裾を払う仕草すら優雅だ。銃は持っていない。
「返してもらう」
iTrappedが銃口を向ける。
「『奪う』の間違いだろう?」
Mafiosoが嗤う。
二人の視線が正面からぶつかる。iTrappedの殺気と、Mafiosoの覇気。空気が軋む音が聞こえそうだった。
「彼はお前のものではない」
「お前のものでもない」
即答。
Chanceは二人の間で息を整えようとするが、甘い匂いが状況を悪化させる。最強のαと、正体不明の男。二つの圧力が、熱に浮かされた脳をかき回す。
Mafiosoが一歩踏み出す。
「ヒートは頂点だ。ここで連れ出せば、こいつは途中で崩れて壊れるぞ」
「安定させる方法はある」
「お前がか?」
挑発的な問い。
iTrappedは迷わず答えた。
「そうだ」
一瞬の沈黙。
Mafiosoの口角が、愉悦に歪む。
「面白い。……なら試してみろ」
Mafiosoが指を鳴らすと同時に、廊下に控えていた部下たちが動いた。
銃撃戦が再開される。
iTrappedは最短距離でChanceの元へ滑り込み、その腕を強引に引き上げた。
「掴まれ」
「言われなくても……ッ」
指が肉に食い込むほどの強さで、iTrappedはChanceを担ぎ上げた。
背後で銃弾が壁を抉り、シャンデリアが砕け散る。ガラスの雨が降る中、iTrappedは迷路のような屋敷の廊下を疾走した。
構造を熟知している動き。
だが、階段を降りようとした瞬間――前方に巨大な影が立ちはだかった。
速い。
いつの間に先回りしたのか。Mafiosoが仁王立ちで出口を塞いでいる。
「逃がすと思うか」
iTrappedは躊躇なく引き金を引く。
だがMafiosoは一歩踏み込み、最小限の動きで銃口を逸らした。
近接戦闘。腕が交差する。
iTrappedの喉元に、Mafiosoの手が伸びる。
その瞬間、MafiosoはiTrappedの耳元で低く、呪いのように囁いた。
「金が必要なのだろう?」
時間が凍りついた。
「……仲間を救うためにな」
Chanceの瞳が揺れた。
熱に浮かされた頭に、冷水を浴びせられたような衝撃。
「……何の話、だ」
問いかけようとした声は、次の銃声にかき消された。
iTrappedが隠し持っていた予備の銃を発砲し、強引に距離を取ったのだ。
Mafiosoがわずかに下がる。その隙を見逃さず、iTrappedは窓へと走った。
「跳べ!」
「は!?」
次の瞬間、iTrappedはChanceを抱えたまま、強化ガラスの窓を蹴破った。
夜風が流れ込む。
下には植え込み。三階の高さだが、計算済みの着地点。
二人は夜の闇へと転がり落ちた。
全身を打つ衝撃。だが致命傷ではない。
「ぐっ……!」
iTrappedが素早く立ち上がり、Chanceを抱え直す。敷地の外へ、待機させていた車へと走る。
背後で銃声が止んだ。
追ってこない。
ChanceがiTrappedの肩越しに振り返ると、割れた窓枠にMafiosoが立っていた。
月光を背に、こちらを見下ろしている。
撃たない。追わない。
ただ、静かに微笑んでいる。
その視線が告げていた。
――逃がしてやる。だが、終わりではない。
車に乗り込み、エンジンが唸りを上げる。
タイヤがアスファルトを削り、屋敷が遠ざかっていく。
ようやく、車内に静寂が戻った。
Chanceはシートに沈み込み、荒い呼吸を整えようとする。隣でハンドルを握るiTrappedの横顔は、いつもの冷静な仮面に戻っていた。
「……さっきの」
「話すな」
「金がどうとか、仲間って……」
「今は黙れ!」
強い声。拒絶。
Chanceが息を呑むと、iTrappedはすぐに視線を逸らした。
ほんのわずかな動揺。
だが、ギャンブラーの目はそれを見逃さなかった。
ヒートの熱はまだ終わっていない。
けれど、胸の奥に、熱とは違う冷たいざらつきが生まれていた。
助けられたはずなのに。
この車は、本当に救助船なのか?
それとも、別の輸送車に乗せられただけなのか?
車は闇へと溶けていく。
そして遠く、屋敷の窓辺でMafiosoはグラスを傾けた。
「揺らいだな」
彼の視線は確信に満ちていた。
身体は奪えなかった。だが、もっと深い場所に種は植えた。
疑念という名の、消えない毒を。
隠れ家は、前よりも狭く、冷たかった。
コンクリート打ちっぱなしの部屋。窓は小さく、夜明けの光が細い線になって差し込んでいる。
Chanceは簡易ベッドに横になり、天井のシミを見つめていた。
ヒートは峠を越えていた。身体の震えは弱まり、代わりに泥のような倦怠感が全身を支配している。甘い匂いも、ようやく薄れ始めていた。
助けられた。そのはずだ。
なのに、胸の奥がざらつく。
――金が必要なのだろう?
――仲間を救うために。
あの時、Mafiosoが囁いた言葉が、耳の裏に張り付いて離れない。
「起きているか」
iTrappedが入ってくる。コートを脱ぎ、愛用の銃を机に置く。その動きはいつも通り無駄がなく、美しいほど機械的だ。
「……ああ」
「熱は」
「下がった」
短い会話。視線が合わない。
iTrappedは注射器や空になったアンプルを片付けながら、事務的に報告を始めた。
「しばらくは安全だ。屋敷側も被害が出ている。すぐには動けないだろう」
「へえ」
淡々とした声。
いつもなら頼れる相棒の声として安堵できたはずの響きが、今日はひどく無機質に聞こえる。
「……なあ」
Chanceは軋むベッドから身を起こした。
「屋敷の構造、随分と詳しかったな」
一瞬だけ、iTrappedの手が止まる。
「事前に調べた」
「どこまで?」
「侵入経路、警備配置、隠し通路……すべてだ」
「どうやって?」
iTrappedは数秒沈黙し、ゆっくりと振り返った。
「情報は買える」
「誰から?」
「裏のルートだ」
それ以上は言わない、という拒絶の態度。
Chanceは乾いた声で笑った。
「便利だな、お前は」
だが、目は笑っていない。
iTrappedは気まずさを誤魔化すように話題を変えた。
「回復したら移動する。手持ちの資金も整理しろ」
「……金?」
「当然だ。資金がなければ逃亡は続かない。あいつらを鉄の檻から解放するのに必要な額も確保しないといけない」
正論だ。正しすぎる。
だが、その正しさこそが、今のChanceには毒だった。
「俺の金、どれくらい把握してる」
「ほぼ全額だ」
即答。
その瞬間、胸のざらつきが形を持った。鋭利な破片となって心臓に刺さる。
Chanceはゆっくりと立ち上がった。足元がふらつくが、構わずにiTrappedへ歩み寄る。
「最初からか?」
「何がだ」
「俺がΩだって、知ってたのかよ」
沈黙。
部屋の空気が凍りつく。
iTrappedの視線が、わずかに逸れた。それが答えだった。
「……可能性は、高いと踏んでいた」
「可能性?」
「賭場での反応速度、抑制剤の使用頻度、フェロモン残留値の推移……。データは嘘をつかない」
分析。
感情ではない。ただのデータ。
Chanceの喉が渇く。
「じゃあ……最初から、俺を選んだのか」
相棒としてではなく。
利用価値のある『金ヅル』として。そして、いざとなればマフィアに高く売れる『商品』として。
iTrappedは否定しなかった。
「仲間を救うには、天文学的な金がいる」
静かな告白。
「そのために俺に近づいた?」
「……そうだ」
一切の言い訳なし。
その残酷なまでの正直さが、余計に痛い。
Chanceの視界が揺れる。ヒートは終わったはずなのに、胸の奥が焼けるように熱い。
「じゃあ……昨日のキスも」
「安定化のためだ」
「それだけか?」
「効率的だった」
迷いなく。合理的に。
それが一番、Chanceのプライドを粉々に砕いた。
「……はは」
Chanceは力なく笑った。
「分かってたんだよ。お前が善人じゃねぇことくらい」
強がる。だが、声の震えは隠せない。
「でも、少しは……」
言葉が続かない。
iTrappedが一歩、距離を詰めた。その瞳に、初めて焦燥の色が浮かぶ。
「今は違う」
低い声。
「最初は利用するつもりだった。だが今は――」
「やめろ!」
Chanceが叫ぶように遮った。
聞きたくない。今さら、取り繕うような言葉なんて。
「後付けの感情とかいらねえよ……」
iTrappedの拳が強く握りしめられる。
「俺は、お前を売らない」
「売る価値がなくなったら?」
沈黙。
答えが出ない。
それが全てだった。
Chanceは背を向けた。窓の細い光が、彼の孤独な横顔を照らす。
「俺は……ただの駒か」
その問いに、明確な否定は返らなかった。
その時、机の上の端末が震えた。
着信。非通知。
iTrappedが警戒して手を伸ばすが、Chanceが先にそれを取った。
スピーカーボタンを押す。
『Chance』
ノイズ混じりの低い声。Mafiosoだ。
『利用される側の気分はどうだ?』
部屋に重い沈黙が落ちる。Chanceの指が震える。
「……タチの悪いストーカーみてえだな」
『お前は今、選択肢を増やした』
「……何の」
『俺を拒絶するか。あるいは、偽りの友情にすがりついて朽ち果てるか』
その言葉が、的確に急所を突く。
『俺は奪うと言った。だが強制はせん』
静かに、王は告げる。
『選べ。……お前の価値を金で計る男か、お前の価値そのものを所有したい男か』
プツン。
通話が切れる。
部屋に、取り返しのつかない沈黙が残った。
Chanceはゆっくりと端末を置いた。iTrappedの方を見ようとはしない。
「……俺は、誰のもんでもねぇ」
呟く。
だがその声には、かつてのような確信がなかった。
初めて、明確な亀裂が入った。
三人の歪な均衡が、音を立てて崩れ始めていた。
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