テラーノベル
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夜。
iTrappedが眠らないことを、Chanceは知っている。
あの男は機械のように、浅いレム睡眠と覚醒を繰り返しているだけだ。だからこそ、動くなら彼が油断しない時間――つまり、彼が最も深く思考の海に沈んでいる今しかない。
机の上の端末。
さきほどの非通知着信の履歴は、すでに消去されている。
だが、Chanceはポケットにもう一台、別の端末を忍ばせていた。
賭場時代に使っていた、登録外の裏回線。
震える指を止める。
――俺は誰の駒でもない。
送信。
『会えるか』
返答は、早すぎた。まるで、この瞬間を待っていたかのように。
送られてきたのは、港湾地区の座標だけ。
Chanceは小さく笑った。
読まれている。だが、それでいい。
静かに立ち上がり、ドアノブに手をかけた瞬間。
背後から冷たい声がした。
「外に出るな」
iTrappedだ。
気配を殺していたはずなのに、この男のセンサーは誤魔化せない。
「どこへ行く」
「散歩だ。……頭が冷えてねえんだよ」
「嘘だ」
「お前に正直でいる義務なんざねえよ」
その言葉が、刃となって空気を裂く。
iTrappedの視線が鋭くなる。いつもの冷静な分析ではない。焦燥が混じっている。
「Mafiosoか」
沈黙。それが肯定だった。
空気が一気に張り詰める。
「行くな」
命令ではない。
だが、懇願にも聞こえる響き。
Chanceは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「最初から利用してたんだろ?」
「……」
「なら今更、独占すんなよ」
その瞬間、iTrappedの表情が初めて崩れた。能面のような顔に、ヒビが入る。
「独占ではない」
「じゃあ何だ」
「……管理だ」
苦し紛れの言い訳。
その隙を突いて、Chanceはドアを開けた。
「俺の管理者は俺だ。……価値は自分で決める」
バタン。
扉が閉まる音が、決別のように響いた。
指定された場所は、錆びついた倉庫街だった。
潮の匂い。肌を刺す冷たい夜風。
波音だけが響く暗闇の中から、その男は現れた。
Mafioso。
ゆっくりと、芝居がかった動作で拍手を送ってくる。
「来たか。……勇敢な逃亡者よ」
「取引だ」
Chanceは距離を保ったまま言い放った。
「俺は餌じゃない。お前の慰み者にもならねえ」
「分かっている」
Mafiosoは近づかない。それが逆に恐ろしい。
彼はChanceの覚悟を測るように、楽しげに目を細めた。
「お前は今、自由に見えている。iTrappedの檻から抜け出し、自分の足で立ったつもりだろう。だが、それは違う」
低い声が、潮風に乗って鼓膜を揺らす。
「Ωは常に『選ばれる側』だ。本能がそうできている」
「……だったら、どうしろってんだ」
「『選ぶ側』に回れ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「俺と組め、Chance。金は守る。そして……お前を騙したiTrappedも潰せる」
「……随分と美味い話だな」
「俺は嘘をつかない」
条件は? と問う前に、Mafiosoは言った。
「条件はただ一つ。俺の側にいることだ」
支配。
はっきりしている。
だが、iTrappedの『合理性』という名の欺瞞よりも、遥かに誠実で、残酷だ。
Chanceは乾いた笑い声を漏らした。
「結局、どっちも『所有』かよ」
Mafiosoは否定しない。
だが、一歩近づいて囁く。
「俺は奪うが、隠し事はしない。……愛おしい共犯者として扱ってやる」
その時。
背後で、硬質な金属音がした。
カチリ。
安全装置を外す音。
「離れろ」
iTrappedの声。
銃口が真っ直ぐMafiosoへ向けられている。射線上に迷いがない。
空気が凍りついた。
Mafiosoは振り返りもせず、肩をすくめる。
「……来ると思っていたぞ、ストーカー」
「彼を返してもらう」
iTrappedの声は低い。だが、指先が白くなるほど銃を握りしめている。
Chanceを中心にして、二つの視線が火花を散らす。
挟まれている。
いつもなら、怯えて逃げ出すか、どちらかに守られる場面だ。
だが、今回は違う。
Chanceはゆっくりと足を動かした。
二人の間に。
iTrappedの銃口の真正面に、自らの身体を割り込ませる。
「……ッ、どけChance!」
iTrappedが目を見開く。
「下げろ」
「どけと言っている!」
「撃つなら俺ごと撃てよ」
静かに、だがドスの利いた声。
Chanceは震えていなかった。
Mafiosoの目が細くなる。面白い、と言わんばかりに口角が上がる。
倉庫街の風が強く吹き抜ける。
三者対峙。
iTrappedの銃口と、Mafiosoの余裕。その中心で、Chanceは静かに息を吸い込んだ。
――選べ。
――選ぶ側に回れ。
あいつらの言葉が、潮騒に混じって聞こえる。
どちらの手を取っても、結局は『選ばされた』ことになる。
iTrappedの用意した『自由』という名の檻か。
Mafiosoの用意した『支配』という名の首輪か。
(……くだらねぇ)
Chanceは奥歯を噛み締めた。
どいつもこいつも、俺を「確保できる」と思っていやがる。
俺がこの盤面の上に居続けることが、あたかも決定事項であるかのように。
その前提こそが、傲慢だ。
Chanceは一瞬の隙を突き、背後のiTrappedの手首を掴むと、その手から銃を奪い取った。
流れるような動作。迷いはない。
俺は銃口を返し――自分のこめかみに、強く押し当てた。
「……勘違いすんなよ」
冷たい銃口の感触。
だが、Chanceは歪んだ笑みを浮かべていた。狂気ではない。澄み切った確信の笑みだ。
「俺は、死ぬ気だ」
iTrappedの息が止まる音がした。
Mafiosoの表情から、余裕が消え失せる。
Chanceは親指でハンマーを起こし、シリンダーを回した。
カチリ、と硬質な音が響く。
「俺が死ぬ覚悟を持った瞬間、お前らの前提は崩れる」
Mafiosoの目が細まる。その瞳に、初めて動揺ではなく畏怖に近い色が宿る。
「……どういう意味だ」
「お前らは俺を使える存在だと思ってる。守れる、管理できる、説得できるってな」
Chanceは引き金に指をかけた。
指先一つで、すべてを無にできる距離。
「でもな。俺は、いつでも盤面から降りられるんだよ」
静寂。
波の音さえ遠ざかる。
「俺が本気で死ぬと決めたら、お前らは止められない。いかなる計算も、いかなる暴力も、死には勝てない」
それは、究極の拒絶。
所有不能の証明。
「それを証明してやる」
Chanceの指に力が入る。
iTrappedが叫ぶ。
「Chance!!」
「安心しろ」
Chanceは薄く笑った。
恐怖はない。あるのは、ギャンブラーとしての誇り高い信仰だけ。
運の女神は、俺を愛している。
「俺は、運がいい」
そして――引いた。
カチッ。
乾いた音が、世界を止めた。
不発。
あるいは、空室。
Chanceはゆっくりと息を吐き、口を開こうとした。
だが、その直後衝撃が走った。
iTrappedがChanceの手首を強引に掴み、銃を地面に叩き落としたのだ。
更に、そのままChanceの胸ぐらを掴み上げ、壁に押し付けた。
「ふざけるなッ!!」
iTrappedが怒鳴った。
いつもの冷静沈着な仮面は砕け散り、そこには剥き出しの焦燥と怒りがあった。
「二度とやるな! 確率に命を預けるなど……そんな非合理なことが許されるか!」
「……はっ、必死だな」
Chanceが軽口を叩こうとした瞬間、背後からさらに強い圧力が迫った。
Mafiosoだ。
彼はiTrappedを押しのけ、Chanceの前に立った。
その目は笑っていない。冷酷に、獲物の価値を見定める目だ。
「今のは悪手だ」
Mafiosoは落ちた銃を蹴り飛ばし、Chanceの顎を乱暴に掴んだ。
「死ねば終わりだ。運などという不確定要素に頼るな」
「……頼るさ。俺はギャンブラーだ」
「ならば、もっとマシな賭け方を覚えろ」
指に力がこもる。痛いほどに。
二人の男は、引いていなかった。
むしろ、その瞳の奥には、より濃く、より危険な色が宿っていた。
死なせてなるものかという執着。そして、絶対に屈服させてやるという征服欲。
Chanceは理解した。
勝ったわけじゃない。
だが――軽く扱われる存在ではなくなった。
ChanceはMafiosoの手を振り払い、二人を睨みつけた。
膝は震えている。だが、心臓は熱く脈打っていた。
「……見たろ」
Chanceは口元の血を拭った。
「俺は死ぬ気で拒絶した。……お前らのどちらの手も取らねぇ」
一歩、下がる。
銃はない。力もない。
あるのは、この身一つと、折れないプライドだけ。
「欲しけりゃ本気で来い」
Chanceは宣言した。
「俺は選ばねえ。……力尽くで奪いに来い」
それは、決着ではない。
泥沼の戦争への招待状だった。
iTrappedが息を整え、冷たい目に戻る。
Mafiosoが口角を上げ、愉悦に歪む。
「……上等だ」
風が止む。
三者対峙。
誰も引かない。誰も譲らない。
ただ、互いを貪り食うための、第二幕のゴングが鳴っただけだった。
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