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少なくとも幽霊の方はゼレタに気が付いていないか、あるいは気にしていない。幽霊が克服者だと仮定すると、シシュミス教団はアギムユドルの街の深奥の状況に気が付いてはいないか、知っていて特に興味はないのかもしれない。ハーミュラーがこの街に来ていたとしても、この呪いとは無関係ということだ。
ユカリたちはひとまず深奥からの浮上を試みる。
「蝶なんて見えないわ」とゼレタは自身の周囲に目を凝らしながら嘆く。
ユカリにもジニにも深奥から出る目印として残ってくれたカーサの蝶が見える。ユカリの目に見たカーサの鱗と打って変わって、カーサの魂は虹色に輝いていた。その他にも別の土地へ向かっているベルニージュやレモニカ、ソラマリア、グリュエーの蝶も見える。
カーサに関してはゼレタにとって縁も関係性もないので仕方ないにしても、一頭も見えないというのは奇妙だ。
「実質四十年経ってるんだよ」とジニが囁く。「それまでの関係性も希薄なものになってるんだろうね」
「じゃあエイカと脱出した時みたいに引っ張り出しましょう」
ユカリは前回と同じようにジニとゼレタと腕を組み、カーサの関係性である虹色の鱗に包まれた蝶をそっと両手に包む。途端に世界が半分に割れ、目の前にはアギムユドルのうら寂しい目抜き通りが広がり、半透明蛇カーサの蜷局を巻く姿が現れた。
「では行きますよ」ユカリは二人をしっかりと引っ張り、物質的な地上へと足を踏み出す。
「行くって、ど」
言葉と共にゼレタが消えた。ユカリの腕に絡んでいた感触も風に巻かれた煙のように一瞬で掻き消えた。
「ゼレタさん!?」
ユカリとジニは振り返るがアギムユドルの変わらない廃墟が広がるばかりだった。
「一体どこに!? 確かに腕を掴んでいたのに!」ユカリは辺りを見渡すがゼレタの姿は影も形もない。
「落ち着きな。おそらく深奥に取り残されたんだよ」
ユカリは神妙な表情で推測する。「つまりゼレタさんやアギムユドルの人々を深奥に沈める呪いってことですか?」
「たぶんそんなところだね。それに加えて呪われた個々人を引き離す呪いでもあるはず。あたしが呪われない理由、呪いの条件は分からないけど、これはおそら」
ジニもまた消えた。
「カーサさん!」
「大丈夫だ、俺はここにいる」カーサがユカリの左足から這い上る。「ジニも呪われたか」
「深奥に沈んだのなら蝶をたどって戻って来れるはずですが」ジニが戻ってくる様子はない。ゼレタ同様に蝶が見えなくなったのかもしれない。「どうしましょう? カーサさん、深奥の門は作れますか?」
「作れるがジニよりもずっと時間がかかるぞ。それに仮に再び深奥に潜っても同じことの繰り返しだ。呪いを先に解いたらどうだ?」
「そうですね。できればハーミュラーさんとエイカがいるかどうか分かってからにしたかったのですが、仕方ありません」ユカリははっと顔を上げる。「そもそも呪いによって人々が深奥に潜っている状態で解呪しても大丈夫なんでしょうか?」
カーサは唸る。「分からないな。地上に戻ってくるか、深奥に取り残されるか」
その時、足音が聞こえ、ユカリは素早くそちらを向いて杖を構える。ゆったりとした白い衣を身に着けた男が建物の陰から現れた。シシュミス教団員だ。
不意の遭遇はあちらも同じらしい。教団員は一瞬驚くが覚悟を決めた表情で一歩踏み出し、同時に全身が真っ黒に染まる。それは『這い闇の奇計』の克服者のような境界の曖昧な黒い霧ではなく、輪郭のはっきりとした影のようだ。奥行きも凹凸も感じられない姿になった。ただし他の克服者と変わらず頭の辺りに緑の光を灯している。
「距離を取れ、ユカリ。攻撃衝動なんかじゃない。明らかに敵意を持っている」
ユカリはカーサの言う通りに、素早く杖にまたがって後方へと飛び上がる。『虚ろ刃の偽計』の克服者だったのだろうパジオは身の内から刃物を飛び出させてソラマリアと渡り合った。翻って目の前の克服者には何ができるのか分からない。
ユカリの眼下で克服者の男は魔法少女を見上げつつ、差し出した両手で見えない何かを包む。既視感に気づいた時には目の前の空中に克服者が現れ、つかみかかってくる。ユカリは杖から落とされまいと必死にしがみつく。カーサが克服者に絡みついてその長い体で縛り上げようとする。ユカリ、カーサ、克服者が空中でもみ合う。が、次の瞬間には克服者の姿が消える。やはりその直前に両手で虚空を包んでいた。
「カーサさん。あの動きは深奥で蝶を手に包む動きに似てます」ユカリは空中を旋回しながら周囲に目を凝らし、ベルニージュの受け売りを説明する。「人のいる場所に移動できる縁の次元とかいうやつです」
「つまり奴が今辺りにいないということは誰かのもとに逃げたってことか」
「でもいつでもすぐそばに現れることができますから、様子を窺ってるのかも。逃げるなら初めからそうするでしょうし」
「一体ユカリと何の縁があるんだ? 知り合いなのか?」
「いえ、それは……。初対面のはずですが」
「あるいはそれが克服者というものなのか。厄介だな。こちらからは追えないのか?」
「私の場合は深奥に潜ってないと蝶は見えないですね。あと目が回ってきました」
ユカリは高速で旋回し、襲撃を警戒しつつ地上に克服者の姿を探すが、あのような姿で陰に紛れられれば見分けはつかないだろう。
「止まるなよ。もっと大きく回るんだ。少なくとも奴は空中を自由に飛び回れるわけじゃないからな。こっちが高速で飛んでいる限り、手を出しづらいはずだ」
と、カーサが言い終えるやいなや、やはり唐突に克服者が空中に現れ、今度は拳を見舞われる。ユカリを狙った拳は、しかし蛇の半透明な鱗を殴りつけた。そしてまた克服者は虚空を包んで消える。
「すみません。速度が乗りましたよね」
「俺が言ったことだ。気にするな。だからと言って速度を落とすなよ。それが奴の……」
カーサが言い切る前に再び克服者が眼前に現れ、今度は蹴りを見舞われるが、ぎりぎりのところでかわす。
「一体どうすれば」
グリュエーのいないユカリには手札がとても少ないように感じられた。
「次は奴の両腕を縛り上げてやる」と、カーサが言うか言わないかの内に突如視界が暗闇に覆われる。
ユカリの思考が掻き乱れる。深奥? 『這い闇の奇計』? 否、克服者は一人ではなかったのだ。
十数人分の影が折り重なって飛び込んで来る。ユカリとカーサは克服者たちになすすべなく雁字搦めにされた。重く暴れる招かれざる乗り手を魔法少女の杖はとても支えきれず、あえなく落下する。克服者たちは地面に衝突するぎりぎりのところで逃げるつもりに違いない。カーサの魔術に何人かが嫌な鈍い音と共に吹き飛ばされるがすぐに戻ってくる。きりがない。
ユカリは覚悟を決め、石礫を射出する。準備はしていたのだ。人に向けて使う時が来るだろう、と。
恐怖で手が震える。威力が弱ければ引き剥がせず、引き剥がせても戻ってきてしまう。強すぎれば殺してしまいかねず、直接殺さずに済んでも意識を奪ってしまえば墜落死させてしまう。しかしやらなければ死ぬのは自分だ。克服者たちの殺意は尋ねなくとも明らかだ。
一つ、二つと石礫を放ち、鈍い音と嗚咽を聞く。一人、二人と引き剥がし、遂には全員を退散させた。戻ってくる様子もない。
ユカリは沈痛な面持ちで体勢を立て直し、再び周囲を巡る。地上を眺める限り、少なくとも墜落者はいないようだ。
「最低一人無事な人、留守番して基点になった人がどこかにいるはずですよね?」
その人物を基点に往復しながら襲撃していたはずだ、とユカリは考えていた。
「いや、代わる代わる基点になって襲撃してきていた可能性もある。だが、そうだな。その場合でも最後の襲撃に参加しなかった無事な奴が1人いるはずだ。そう遠くでもないだろう。こちらの様子を確認できる場所のはずだ」
カーサの言う通りだった。元は神殿だったらしい建物の銅で葺かれた屋根の上に克服者たちが伸びていた。ユカリかカーサに叩きのめされた後、何とかここに戻ったものの戦線復帰できなかった者たちだ。ユカリは周囲を警戒しつつ屋根に降り立ち、襲撃者たちの様子を確かめる。呻き声をあげながら胸や腹を抑えている。無事な者はいないが少なくとも息はあった。克服者の変身も解けている。
「カーサさん。治療の魔術って使えますか?」
「すまん。修めているのは自己治癒の魔術だけだ」
「なら仕方ないですね。義母さんが戻ってくる様子もないですし、深奥の門を開くにも時間がかかる。シシュミス教団に任せるしかありません」
カーサは返事の代わりに細長い舌を巧みに操り、呪文を唱える。人の短い舌と鈍い歯では発音不可能な言葉が呪詞を紡ぐ。天の末子たる名も姿も無き女神を寿ぐ者たちが愛したという拒絶を意味する最も荒々しい言葉が回文のように巡り廻って蜷局を巻いて、二重三重と意味を重ねて凝縮し、爆発という形を成す。
ユカリが音と衝撃に驚いて振り返るといつの間に新たに現れた克服者が勢いよく倒れ込んだ。最後の基点になったであろう克服者だ。
「獣の手先め……。呪いあれ」と克服者は呻き声の合間に呪いの言葉を漏らす。
「ハーミュラーさんに用があるんですけど、案内できますか?」
「誰がお前なんかに」
「やっぱりここに来てるんですね」男の憎しみの籠った瞳にユカリは微笑みで応える。「どちらにいらっしゃるんですか?」
男は口を閉じて目をそらす。
「まあ、いいです。貴方がやって来た方向、街の中心の方に行ってみます」
男の表情にさして変化はなかったが、ユカリはこれ以上痛めつけてまで聞き出そうとは思わなかった。