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まやかしの太陽が傾くことはなく、燃えるような紅の明かりがこの地に絶えて久しいが、クヴラフワの外であれば夕暮れとされる時間帯になった。相も変わらず天に在すシシュミス神は八つの脚を時折動かして這い回るが、天に陣取ったまま八つの瞳で地上を見下ろしている。
世に名高い堅牢なる門と壁に囲まれたアギムユドルの街の中心には、かつて街を六分していた城壁の交点でもある王の居城が存在したが、いまや瓦礫の山だ。
しかしただ崩れた瓦礫の山ではなかった。剥き出しの土の上に廃材を利用した歪な砦が悲痛な様子で建っていた。集落でもあった新カードロア砦に比べれば小さいがより堅固な佇まいで、少なくとも破壊の爪痕が残る周囲の廃墟に比べれば建物の体を成している。廃材の他に粘土か石膏を固めたような灰色の建材が繋ぎのように利用され、細部は歪ながら遠景においては勇壮で均整の取れた威容を誇っていた。
ユカリはその砦に侵入していた。教団員がうろついてはいるが歩哨という仕事を真剣に考えてはいないらしい。数人ごとにたむろして四方山話に興じている。
「あの襲撃者たちは私たちのことを報告していなかったんでしょうか?」とユカリは半透明の長い影に囁く。
「克服者としての魔法以外何も使って来なかったからな。兵隊としては半人前の素人なのだろう。良くも悪くも長らく外敵がいなかったのだからな」
ユカリとカーサは肉体を失った影のように忍びやかに砦の中を進む。ぐねぐねと折れ曲がった無思慮な通路があり、段差の高さの一定でない不器量な階段があり、いくつもの寝台が並んだ粗野な部屋があるが人の気配はない。鼠の足音すら聞こえない。ここにいるのは外にいた者たちで全員ということになる。
ハーミュラーも広場の外へ出ているのかもしれない。他にもこの砦のような拠点が街のどこかにあってもおかしくない。ユカリがそう考え始め、砦の中心部辺りまでやってきた時、ようやく人の気配を感じた。話し声だ。ユカリは息を潜め、声の聞こえる方へと進む。
たどり着いた部屋は他と明らかに違う。広くて、天井が高くて、左右対称で、調度品に魔法の実験器具、蜘蛛の巣のような紋章が壁や床を飾っている。魔法使いの工房だ。
部屋の中央には二人の人物がいた。一人は背を向けた巫女ハーミュラーであり、地面に磔にされているもう一人を見下ろし、呪文を唱えている。
「……成功率の高さもそうですが、この土地でこの儀式を執り行い、祝福を授けると微かに心の襞が読み取れることがあります。貴女が抱えているこれは劣等感でしょうね。特に珍しいものではありませんが、貴女のそれはとても根深い。呪いを克服するだけでなく、その悪感情もまた乗り越えられることを願います」
まさに克服の祝福の儀式を執り行っている最中だ。
ユカリは杖を構え、慎重にハーミュラーの元へ近づき、祝福を授けられようとしているエイカに気づく。そのエイカの真上には黒雲のような靄が立ち込めていた。少し形式は違うが深奥の扉に違いなかった。
ユカリは儀式を止めるべく、静かに杖を振り上げようとするが指先一つ動かなかった。指のないカーサもまた身動きできない事態に陥っている。
ハーミュラーが驚いた様子で振り返る。
「ユカリさんのお知り合いでしたか」
ハーミュラーがユカリの方へと手をかざし、指を微かに動かすと、ユカリの掌が勝手に開き、杖が床に落ちてしまう。
「エイカを放して」
「そう睨まないでください。こそこそと克服の祝福の儀式について嗅ぎまわっているようでしたのでご本人に授けて差し上げるところです。克服の祝福については、もう聞いているのでしょう?」
「怪物に変身する魔術ですよね」
「違います。呪いに苦しむ民衆を救う祝福です」
「望んでいない人を巻き込まないでください。それじゃあ呪いと同じですよ」
「遠慮することはありません」ハーミュラーの声色が鉛のように重く冷たく響く。「呪いのせいか門のせいか、この土地では信徒以外にも祝福を授けることができるのですよ。元からシシュミス教団だけで占有するつもりもないですし」
「加害衝動を知らない訳じゃあないですよね?」
「たしかに、まだ発展途上の魔術ですが、いずれ完成させます。そしてこの祝福で以って私はクヴラフワを救済するのです」
「じゃあなんで私たちを襲うんですか? 加害衝動だけじゃない。ここに来るまでに信徒の襲撃を受けましたよ」
口は動くが顎が動かないユカリは苦労しつつ言葉を絞り出す。
「私たちの邪魔をするからですよ。決まっているじゃないですか」
「邪魔なんてしてないです! クヴラフワ救済は私たちの願いでもあります! もちろんクヴラフワの人々の苦しみを知ったかぶるつもりはないですけど、力になれると思ってます。人々を呪いから解放できると思ってます。それにもしも私たちが何か間違ったことをしているのなら話してくれたらいいじゃないですか。いきなり襲い掛かる道理がありますか?」
「ええ、もはや貴女がたと私たちの目的は両立しません。貴女がたは呪いを解きたい。それが魔導書を集めるために必要なのだとか。そして私たちは呪いを満たしたい。それがクヴラフワ救済に必要なのです」
ユカリは耳を疑い、言葉を繰り返す。「呪いを満たしてクヴラフワを救済する? どういう意味ですか?」
ハーミュラーは問いに答えずユカリに語り掛ける。「私たちは少し似ていますね。魔導書を集めてはいませんが、自身の出生の秘密を知ること、出生前の秘密を知ることは私の願いでもあります」
ハーミュラーの言葉にユカリは呆然とする。魔導書の収集はもはや隠してもいない。出生の秘密を知る者は限られている。しかし出生前の秘密を知る者は自分の他にいないはずだ。
「一体、何を知っているんですか?」
「私は何も。全てをご存じなのは我が神シシュミスです」
再びハーミュラーが手をかざすとユカリの意識が遠のいた。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
じくじくと痛むみどりの手の甲をあかりが撫でてくれる。
「この火の痕を大切にしてね」とあかりは呟く。
「どうして?」とみどりは尋ねる。
「これが私たちの絆だからだよ。ほら、覗き込んで」
火の痕はぽっかりと空いた暗い穴になっていて、みどりが覗き込むとあかりが覗き返した。
意識を取り戻し、瞼を開く。廃材が剥き出しの高い天井が広がっている。ユカリはこれから首を斬り落とされる死罪人の如く床に磔にされていた。建材に使われていた灰色の石膏が魔法少女の手足と腰を押さえつけている。魔法少女の杖は縛り付けられて開かれた掌の上だ。小指一つ曲げられない。
首を動かしてエイカを探すとすぐ隣で眠っているようだった。いびきをかいている。もう克服者になってしまったのだろうか。少なくとも見た目には何も変わっていない。
「ユカリ。目が覚めたか」エイカとは反対側からカーサの声が聞こえた。
カーサもまた磔にされているらしい。床に半透明の影が真っすぐに伸びている。
「蛇を拘束するなんてことができるんですね」
「何度も人間を拘束してきたが拘束されるのは俺も初めてだ。ハーミュラー、意外と厄介な魔術師だぞ」
ユカリにはそれほど意外でもなかった。クヴラフワ救済の志の高さはその実力が保証しているのだろう。覗き見てきた研究者としてのハーミュラーの過去がその印象を補強している。
「だけど呪いが救済ってどういうことなんでしょう?」
「さあな。呪災を研究する過程で何か、救済に繋がる何かを知ったのかもしれないが。いや、こんなものは推測ですらないな」
「クヴラフワ救済は大切な使命だって言ってました。それにそこに住む民を救うことこそがクヴラフワ救済だとも。そう悪いことをするとは思えませんが」
ユカリはいつか見聞きした幻覚を思い出す。クヴラフワ救済は大切な使命だ、と言っていた。
「使命? 誰に与えられた使命だ?」
確かにカーサの言う通りだ。記憶が曖昧になってはいたがユカリがププマルに魔導書収集の使命を与えられたように、風のグリュエーがグリュエー本体から自身を救い出す者を連れてくる使命を与えられたように、使命とは誰かに与えられるものだ。
「それは、シシュミス教団ですし、シシュミス神じゃないですか?」
空を徘徊する巨大な蜘蛛にそのような慈悲心があるのだろうか、とユカリは首を捻る。
「本当のことを言えば、個人的な理由もあるんです」とハーミュラーが少しだけ躊躇いがちに口にした。
ユカリは驚いて飛び上がりかけるも石膏の拘束で手首を痛め、苦々しい表情でハーミュラーの姿を探す。部屋の端で机に向かってハーミュラーは硝子の器具をいじっている。
「本当はひとに話すべきではないのでしょう。教団の長たる巫女の立場を利用していると考える者もいますから」
「どうして私たちに教えてくれるのですか?」
「でも貴女には話しておくべきように感じたのです、グリュエー」
グリュエーはそばにいない。このハーミュラーは幻だ。グリュエーの魂の欠片が見せる過去視だ。
「何をだ? 教える?」とカーサに不思議そうに問われる。
ユカリは声を潜めて答える。「すみません。今、例の幻覚が見えています」
「ああ、グリュエーの魂の欠片とかいう。分かった。静かにしていよう」
ハーミュラーが振り返ると湯気の立つ二つの盃を持っていた。飲み物を作っていたらしい。
「甘いですよ。砂糖に各種香草、香辛料、いくつかの柑橘類を煮出したものです。私の一番古い記憶にある飲み物を再現したものです」
ハーミュラーが微笑みを浮かべて透明のグリュエーに杯を手渡す。
「故郷の味です、たぶん」ハーミュラーは悲しそうに微笑む。「実は私にも両親がいません。生きているかどうかも分かりません。クヴラフワ衝突時におおよそ十歳くらいでした。……ええ、親を忘れてしまうというには大きいですね。戦争でよほど衝撃的な体験をしたのか、知る由もありませんが。幸い、幼くも魔術の才に優れていたので何とか生き延びることができました」
ハーミュラーはようやく杯に口を付ける。
「使命を授かり、シシュミス教団を立ち上げたのはそれから五年後のことです。クヴラフワ救済という貴き使命に私の魂は熱く燃え上がりましたが、それまで抱いていた強い思いがさらに強まりました」
ハーミュラーが聞こえない問いに答える。
「それは両親と故郷、私の起源について知ることです。ご存じの通り、クヴラフワは人の行き来もままならず、情報伝達もごく限られています。救済の先には両親や故郷のことを知ることができるのではないか、とずっと考えてきました。なぜ、私は一人きりなのか、それを知ることができるのではないか、と。……ありがとうございます。もちろん、今では多くの友人や貴女がいるので寂しくはありませんよ。特に貴女には多くの面で助けられていますし、それに、親を知らない私がこんな風に考えるのはおこがましいかもしれませんが……」
「お目覚めですね、ユカリさん」
足元の方から別のハーミュラーの声が聞こえる。ユカリは首を少し曲げ、新たに現れたハーミュラーを見上げる。今度は本物だ。ほとんど見た目に変わらない幻視の方は消え去った。
「おはようございます。お陰様でよく眠れました。朝食はなんですか?」
ハーミュラーはくすくすと笑う。
「御冗談がお好きなのですね。そんなことより聞いてください。貴女が眠っている間に克服の祝福を試したのですが、まるで上手くいきませんでした」
「……勝手なことをしないでください」
「それだけではありません。ありとあらゆる呪いを跳ね除けました。その魔法少女とかいう姿のおかげですか?」
呪いを跳ね除けたということは呪いをかけてきたということだ。
「たぶん、そうですね。悪い人の魔術は効かないようになってるんです」
「たぶん? 曖昧ですね。曖昧なのは嫌いです。本当に馬鹿々々しい話です。私や教団が長い年月をかけて苦労して生み出した魔術よりも数段上の防呪魔術があるなんて」
「残念ですけど私にしか使えない魔法です。そうでなくても魔導書の魔法は所有者しか使えませんし、貴女の言うクヴラフワ救済の役には立たないですよ」
「そうでしょうね。そうでなければユカリさんは初めからそれを使ってクヴラフワ救済を成し遂げているのでしょう。音楽を介した解呪の魔術を使ったように」
「ええ、その通りです。貴女はそれを望まないのでしょうけど。……それで、どうして呪いを満たすことがクヴラフワを救うことになるんですか?」
ハーミュラーは幻視のハーミュラーが飲み物を作っていた机に体を預ける。
「教えて欲しいですか?」
「だから尋ねてるんです」
「教えませんけどね。邪魔されてしまいますし」
「本当に救うことになるなら邪魔なんてしませんよ」
「いいえ、邪魔しますよ、ユカリさんは。私のやり方でクヴラフワを救えると知ってなお」
「何を根拠にそんなことを」
「ともかく」とハーミュラーは言い合いを打ち切る。「ユカリさんにもう用はありません。ずっとここで、そうしていてください。呪いも祝福も退けるだなんて恐ろしい存在、野放しにしておくわけにはいきませんからね」
「人を猛獣みたいに言いますね」
「猛獣ならば繋いでおけば安心なのですが」
「申し訳ないですけど、私は自由です」
ユカリがそう宣言した瞬間、その姿が影も残さず消え失せた。