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次の満月の日
長屋の廊下に、ひとつだけ灯りが点いていた。
弦の部屋だ。
——今日は、閉じこもらない。
それだけを決めて、弦は障子を開けた。
外に出たわけじゃない。
ただ、部屋の中に灯りを入れただけ。
「……」
弦は、天井を見上げたまま座っている。
窓の外を見ないように、意識して。
見られない。
月が、見ているから。
あの夜も、満月だった。
明るすぎる月明かりの下で——
弦は、立ち尽くしていた。
反応が遅れた。
声も、出なかった。
目の前で親友が倒れ、
手を伸ばしたのに、届かなかった。
——助けられなかった。
——見捨てた。
そう思ってしまう自分を、
月は全部、見ていた気がした。
「……見るなよ」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
月は責めない。
ただ、静かにそこにあるだけなのに。
それでも弦には、
“あの時の情けない自分”を
全部覚えている目に思えてしまう。
「……俺は」
言葉が、喉で止まる。
そのとき。
……コト。
部屋の外で、誰かが腰を下ろす音。
「弦」
伊作の声だった。
「見えてるよ。灯り」
弦は答えない。
答えられない。
「月、見なくていい」
伊作は、まるで弦の考えを読んだみたいに言った。
「今日はさ、月より弦を見に来た」
少し間を置いて、留三郎の声。
「俺たちもいる」
「無理なら、喋らなくていい」
文次郎。
「扉、閉めなくていい」
長次。
「ここに居る」
小平太。
仙蔵は、何も言わなかった。
ただ、静かに気配を置いた。
弦は、膝の上で拳を握りしめる。
「……月が」
やっと出た声は、震えていた。
「月が見てるんだ」
誰も、否定しなかった。
「……あの時の俺を」
沈黙。
それを破ったのは、留三郎だった。
「じゃあさ」
「見ててもいいじゃねぇか」
弦が、わずかに顔を上げる。
「今の弦を」
その言葉に、胸が詰まった。
「立ち止まって、苦しんで、それでも灯りつけてる弦を」
「見られて困るほど、情けなくねぇよ」
弦は、唇を噛みしめる。
「……助けられなかった」
「それでも、生きてる」
伊作の声は、静かで、強かった。
「英二郎と一緒に過ごした時間まで、否定するな」
……きい。
ほんの少しだけ、障子が開いた。
風が入るほどでもない。
月が見えるほどでもない。
ただ、内と外の境目が、わずかに緩んだだけ。
「……弦?」
伊作の声が、近くなる。
弦は、障子の影に隠れるように座ったまま、顔を上げなかった。
喉が詰まって、うまく息ができない。
「……ごめん」
最初に出たのは、やっぱりその言葉だった。
「俺……」
声が、震える。
「助けられなかった」
言葉にした瞬間、胸の奥が一気に崩れた。
「俺の判断ミスだった」
「動けなかった」
「……怖かった」
最後の一言は、ほとんど音になっていなかった。
六年生たちは、誰も遮らない。
誰も、「違う」とも言わない。
弦の肩が、小さく揺れ始める。
「俺が……一番近くにいたのに……っ」
指が畳を掴む。
爪が立つほど強く。
「英二郎を……置いてきた……!」
そこで、限界だった。
声が、嗚咽に変わる。
「……ッ、あ……っ」
堪えようとしても、止まらない。
涙が、ぽたぽたと畳に落ちる。
情けないと思う前に、溢れてしまった。
「……俺、忍なのに……」
言い終わる前に、言葉が崩れる。
そのとき。
障子の向こうから、静かに声がした。
「だからだよ」
留三郎だった。
「忍だから、怖かったんだろ」
小平太が続く。
「前に出るやつほど、失うのも早ぇんだ」
「それでも」
伊作の声が、近づく。
「ここまで一人で耐えてきた」
「泣くの、遅いくらいだよ」
弦は、顔を覆ったまま、声を上げて泣いた。
押し殺さない。
止めない。
障子一枚分の距離で、六年生はそこにいる。
月は、見えない。
けれど今、弦は——
見られている気がしなかった。
ただ、受け止められている。
泣き疲れて、弦の肩の揺れが少しずつ収まる。
「……ここに居てくれ」
掠れた声。
返事はなかった。
その代わり、誰も立ち上がらなかった。
満月が高く昇っても、
扉は、もう閉じなかった。